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2006年7月 1日 (土)

道成寺今昔

4月16日のブログに書いた道成寺の印象をうろ覚えで書いて仕舞った事が、古物整理中出て来た証拠写真で暴露されてしまった。
実はフィルムの保存が悪くて、1955年当時のものが何一つ残っていなかった。
しかし当時現像焼付けの作業を自分でやってたものだから、フィルム全部のネガ焼きがファイルに残されていた。
それを丹念に拾ってみると、50年経ってもほとんど変わりなく道成寺の建造物などが残存していることが分かった。
カメラは持ってなかったと書いたが、それはうそでこの当時はそうとうカメラに夢中になってた時代だった。
私の大きな記憶違いであった。
改めて記憶は記録すべきであることがよく分かった。
謝罪を兼ねて、写真を比較掲載する。
(白黒は50年前の写真)
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2006年7月 2日 (日)

忘れ得ぬ人々(18)

松本勲君

君子という言葉がまだ存在するなら、すぐ彼だと思い浮かべるほどぴったりの男だった。
イントネーションに出雲弁がにじみ出る、独特のしゃべり方が終生抜けなかった。

同じクラスで3年間十分親しく付合って頂いた。それでもちゃんと正確に私の姓を君付けでいつも呼びかけていた。
通常友達同士ではあだなで呼ぶのが普通だったから、彼の几帳面な性格がここにも現れていた。
在学中は剣道部に所属していたが、強かったかどうかは知らない。しかしその端正な物腰と礼法は武道修行者そのものであった。
彼との交流でもっとも印象が強く残っているのは、2月に(26、28日)このブログに2回載せている萩行きである。彼の人となりはこれを読んでもらえば、よく察しがつくであろう。
同窓会などで会う度に、この話が飛び出して、とうとう死ぬるまで忘れ得ぬ話題となってしまった。
常時顔を合わせていると、空気や水と同じく、存在をことさら意識することはない。
ほんとに無二の親友として学業を終えた。

卒業後は彼は内地の会社芝浦電気へ、私は満洲鉱山へ就職したので、完全に袂を分かった。
兵役がお互い5年以上あった筈だから、戦後会ったのは1970年6月6日の同窓会で卒業以来丁度30年振りであった。
もちろんお互い戦争をくぐり抜け、元の会社は無くなったり、組織替えしたりして、新規撒き直しに懸命の時期だった。彼は既に中国電力に入社していたと思うし、私は小さな自営業に苦戦していた。しかし相変わらずの彼の友情の深さが私を励ましつづけた。
彼は持ち前の篤実さでぐんぐん頭角を現し、途中入社に拘らず要職をかち取った。社内の評判もよかったらしい。

同じ広島に住んでたので、学生時代の交流が復活して、ちょいちょい出会うことになった。
他の友達も数多くいたので力を合わせて相談する事もますます増えた。
再会後も毎年実施された同窓会にもよく出席し、健康を祝し合った。
停年後彼は郷里に引っ込んだが、忘れずによく広島にやってきて、長寿を謳歌し、仲間たちと一緒に気炎をあげたりしたものだ。
が、残念ながら、昨年5月19日持病の高血圧の悪化でとうとう一足先に旅立った。Matumoto

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2006年7月 3日 (月)

忘れ得ぬ人々(19)

執行一君

最後はほんとに茶化した人生だった。彼に評価を与える事はこちらが可笑しいのではと思われるくらい迷いそうだ。
小学校は同じクラスで、小柄だが、才智に長け、なんでも積極的で、運動神経も抜群、野球チームのショートかセカンドとチームの要であった。勿論先生の覚えもよく、小学校卒業成績は一番だった。

その彼がどうしたのか、中学校に入るやどんどん成績を落とし、全く目立たぬ存在になってしまった。
私もほとんど同じだったから人の事は言えないのだが、大人への成長過程の智的、身体的変化に順応しきれなかったとも言えそうだ。私のことで一例あげれば、声変わりがある。美声で小学校ではいつも学芸会などで独唱し、親共々自慢の種だったが、1年の何時の頃か声が出なくなり、出始めた時にはまるで違った自分になっていた。
執行君もおそらく、大きな変調に驚いて、積極性があるだけに余計に、茶化した方向に自身の行動を転換したのかも知れない。
ふざけた事を言い、ふざけた振る舞いをし、最上級生の時にはまるで秀才とは言えない、クラスの野次馬的存在となっていた。クラス最下位だと公言していたので、事実だろう。当時は通知表(成績表のこと)にクラスの順位が明記されていたので、誰にも分かった。おそらく更なる勉強に嫌気がさし、上級学校にもまともな所には行かなかったのではと思う。

戦後のいつごろか、気がついた時には薬屋を開いていた。何年かすると税務署がうるさいからと、自己破産をして店を閉じてしまった。しばらく行方不明になってたかと思うと、病院経営に頭を突っ込んでいた。もちろん彼からの説明である。そこから手を引くと今度は土地の売買をやり始めた。私の会社の社長にも突然勧めたりして、あれは何者かとこちらまで不審がられたりした。この時は他の同級生も引っ掛けられたりしたらしい。
山口県田布施に「踊る神様」という宗教が一時期アメリカまで布教したりして著名だったが、そこへ入門を企て、教祖にあってその竒行に驚いた話などとくとくと語ったりした。結局これは止めたらしいが。

そのうち東京に土地を買い引っ越してしまった。
時々現れて今度は世界各国を旅行し、世界の情勢を説明したりした。絵画が儲かると言って、無名作家の絵をスペイン辺りから沢山買って来て、買わないかと見せびらかしたりした。
タイで終戦を迎えて、現地人の中に逃亡した友人に会ったりして、貿易斡旋みたいなこともしていたようだ。
とにかく神変万化私には予測出来ない世渡りであった。
友人間の個人情報の普及能力は大したもので、私の事業倒産などは私自身より早く友人間に流布されていた。予知能力が素晴らしく、事業を始めた途端倒産間違いなしと読んだらしい。
あの男がこんなことをやり始めたが、あの性格では続くわけが無いなどと批判し、その通りになるなど判断は正確だった。
友人間はもちろん交際範囲の広さは想像を絶した。上京しても連絡するとすぐ関連先の友人などをかき集めて会合を開いてくれたりした。小学校時代の知恵才覚は一向に衰えてはいなかった。自らお茶ら化した傾向はあるが。

私の日記帳には度々現れる人物の一人でエピソードには事欠かない。
が、昭和63年10月4日肝臓がんが悪化転移し、あの世へ旅立ったと数ヶ月後に奥さんから知らせをいただいた。
Sigyou
Sigyo

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2006年7月 4日 (火)

忘れ得ぬ人々(20)

北谷嘉雄君

初対面は入学式前日、寮の部屋割りを頂いて所定の東北44号室に入った時だった。
付き添いの私の父に、北谷君親子が来合わせ、挨拶しあったときだった。
彼の父は50歳そこそこと思われる立派な風采の紳士で、私の父は60近い百姓親爺、引け目を感じないわけにいかなかった。当時戦前だったから分立時代の関西の一電力会社の課長の肩書きのついた名刺をいただいた。
北谷君は都会っ子のぼんぼんそのものだった。はしかいそうな、世間常識豊富な話しっぷりの、群鶏の中の鶴といった感じだった。
一室4人部屋で、隣が一人用ベッドの4台並列の寝室になっていて、丈夫な板の引き戸で勉強室と仕切られていた。
勉強室は二人づつ双方に分かれ、相対した机の真ん中にしきりの本立てがあるといった環境だった。
寮生は一年生の大半が収容されていたから、約200名強といった所か。舎監には怖そうな軍人退役者が軍装のまま勤めていた。5つある寮棟に各々2、3年生の監督者がついていた。明治時代から男子学生の社会は漱石の「坊ちゃん」じゃあないが、統御の難しいという定評があった。とかく問題を起こして当局を困らせた。その因襲を受け継いでの態勢だったのだろう。
前置きが長くなったが、私達はいやでも仲良くなった。他に横山、太田両君がいた。それぞれ広島、香川出身だった。
北谷君は兵庫県出身で大阪の大倉商業出とのことであった。
同室の3人はいずれも商業出身でそろばんはうまかった。私はいつも彼らから練習指導を受けた.よってたかってという言葉通りである。結局それほど上手にはならなかったが。

まもなく卓球部の誘いを受け、北谷君と私は入部することになった。両人ともしろうとに等しかったので一からの練習になった。毎日放課後熱心に通った。当然面白くはなった。が経験時間の浅い私達は3年経っても大した成果をあげることは出来なかった。3年生の時には、2年生に代表選手の地位を奪われた。
対校試合やインターハイ選手権などでは、勝ち残ることは絶えてなかった。
3年生では北谷君がキャプテンを勤めたが、関西弁の主将では矢張り気合いが入らず締まりが悪かった。

卒業後彼は神戸の大学に進んだ。
戦後十年以上経って彼が大阪の船場にある繊維問屋に勤めている事を聞き、私がデパート建設に関係していたので、訪ねてアドバイスを受けた事がある。そして卒業以来21年目の同窓会で再び対面した。彼の如才なさは船場で磨かれただけあって、流石に光っていた。
対話の中心に彼がいつも座っていた。やはり違うなと私のこころが頷いた。
それから十数年後、会う度に昇進し昭和58、59年には社長になっていた。
彼の事業に対する業績など私の知る所ではないが、如才なさが商才に繋がったのであろう。

しかし、好事魔多しのたとえ通り、社長退任を余儀なくされ、一度私の居た会社に引き取るかと社長から相談を受けた事があったが、本人のふんぎりがつかぬまま立ち消えになった。
それから間もない昭和61年12月の初め奥さんから訃報を頂いた。
最後は石田三成のごとく、才に溺れ、大株主からスカンをくらっての退陣だったとの話を聞いたことがある。Img098
Kitatani

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2006年7月 5日 (水)

おいぼれの苦情

最近こらえじょうが無くなったと自分でも強く感じている。
今年の様に暑さ寒さが変調だと尚更苦情が出て来る。蒸し暑いから半袖にすると、パソコンでもやってると寒くなる。
長袖にすると外に出た途端むっと来る。
パンツもふんどしに替えたり、ズボンもはいたり脱いだり、ステテコ姿になったりと、一日中騒がしい。

食い物はとくにひどい。嫌いなものは、取り除くだけでなく、かたから受け付けない。家内が困り果てている。
もともとらくちんな生活をしているのだから、食欲は当然起きない。胃袋も老化して弾力がなくなり、ほんの少ししか溜込まれない。その相乗作用から来る事ははっきりしている。
口から思わず拒否反応が出て、どうにも止まらない。
わかっちゃいるけど、止まらない。
最近は随分捨てるものが出てるのではないかと、半ば心配もしているのだが。

老人は早く死ななきゃ後が困る。政府の保健政策はちょっと違ってるのではないか。

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2006年7月 6日 (木)

忘れ得ぬ人々(21)

太田久孝君

北谷嘉雄君を書いて太田君を書かないと片手落ちになる。
彼も入学時、同じ寮の44号室に入って来た。後年同じ部屋の横山君の会社で私と一緒(即ち4にんのうち3人)に働く運命になるとは正に神のみぞ知ることだった。
鬚の濃い体格の良い男で、ラグビー部で活躍した。自身に満ちた行動マンだった。
自習時間にそろばんや簿記を熱心に教えてくれたことをよく憶えている。
1学期で部屋が変わったので、クラスは違うし、その後の事は殆ど知らない。

昭和39年突然岡山のラグビー仲間だった山田君から横山社長に電話で、太田君の会社が倒れて、清算のため残って会社で残務整理をしてるが、君の所で使ってやってくれないかということだがと横山君から私に相談があった。
私も知らない相手でないし、積極性のあるファイトマンだからもってこいじゃないかと進言する。
善は急げで1月20日には下関から単身赴任して来た。
会社の2階に寝泊まりして、昼も夜も区別無く仕事をする。少しやり過ぎだと苦言を呈する程。
ときどき一緒に得意先に販売活動回りなどをするときなど、喉が渇くとコインスタンドから缶ビールを買ってぐいと飲んでからさあ行こうである。酒は強いのでケロッとしている。
業界の夜の集会などには好んで出かけて宣伝まくる。私も時々手伝いさせられてうんざりする。
豪放快活を地で行く活動振りで、マンネリに陥りかけていた営業活動に拍車をいれた感じだった。

そのうち社内の古手から文句が出始めた。
社長の耳に入ったりして、私にも相談が来たりする。
仕方がないので、社内の1事業部門を単独でやらすことにして、摩擦を避けたりした。
昭和40年7月に私は会社を辞め、独立してクリーニング店を経営し始めたのだが、ちょいちょい店に立寄り、社内事情を話してくれたりした。あんたが居らんとどうもならんでえと時々愚痴っていた。

単身赴任の生活に体調が自然に狂ったか、昭和43年の11月3日突然倒れたと夜遅く友人の深山君から電話が入った。当人でも会社からでもなく、関係のない友人からの電話に驚いた。
聞けば社長は東京に出張中で、他の若い社員が彼の病気に気づいて、直ぐ救急車の手配はしたが、後をどうしたらよいか途方に暮れて、たまたま社長の友人である深山君の名前を知ってたということで、彼に知らせたらしい。

私ももう夜半12時にならんとして、よく眠っていたのだが飛び起きて、病院に馳せ参じた。病院ではすでに危篤状態で面会不能。直ぐ自宅のある下関に電話する。夜中のことだから家族が広島に出て来たのは昼近い。
奥さんも子供さんもついに言葉を交わす事無く夕方息を引き取った。
正に壮烈な討ち死にといった感じだった、戦場でもないのに。
原因は心筋梗塞というのだが何が原因か誰にもわからない。

社長は何も知らずその夜半に広島に帰って来て駅で張り込んでいた社員に掴まった。
勤務中の死亡だから、社葬にしろと意見具申し、急遽社葬の手配をして、関係先に通報したり大わらわである。
まだ50歳に手の届かぬ、ばりばりの働き盛りだったのに。
もっとも悔しい思い出の友人である。Ota

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2006年7月 7日 (金)

忘れ得ぬ人々(22)

村岡秋生君

地元では、最近まで知らぬものはいなかっただろう有名人である。
歯医者をやりながら、若くして政界に打って出て、市議会、県議会議員を永年勤め上げた。
即ち昭和55年の市議選で35歳で初当選して以来、引退は何時だったか、郷里からも彼からも遠ざかっていたので知らないが、40年は優に超える議員生活だった。

小学校の最初から一緒だったが、ませていた彼はいつもクラスの先頭を切って動き回っていた。
所謂出しゃばりである。2、3年生の頃クラスの悪道たちから妬まれて、教室の中で手ひどい制裁をくらったことをまざまざと憶えている。それでもひるまずにその出過ぎた行動を変えなかった。

学業はまずまず上位で小学、中学とこなし、歯科医を志した。この頃には道も違ったが、相変わらずのモダーンぶった彼の行動には、私は付いて行く事は無かった。

戦後彼が歯科医院を開業し、私も軍隊で歯を悪くしていたので早くから彼のお世話になる事になった。
人を笑わせたり、機嫌を取り結ぶ技術は、彼の天性というべきもので、小さい時の延長線上にあった。
昭和55年には市議会議員に立候補するからと頼まれ、依然から後援していた地元の先輩との板挟みになって困ってしまい、とうとう私は転居して地元を逃げ出した程だった。

それから何年も毎年正月に自宅に招き合って年頭の宴会を催すことを常とした。数年でお互い忙しくなって日取りが合わなくなり、自然消滅になったりしたが。

行く道が違い過ぎて後年は同窓会でたまに会うか、選挙の時に思い出すかだけになったが、どうしているかいつも気になる存在ではあった。

何時引退したか、前記した様に私は広島に生活の場を移していたので、よく知らない。誰かに聞いたことがあるようにも思うが失念した。何時頃か同窓会にも姿を見せなくなった。
昨年こちらに住んでいる、小学校の同期の女性から、村岡さんが入院していてあまり良くないらしいよと、手紙をくれたが、こちらも寄る年並で人の事まではと思っているうちに、誰からとも無く亡くなったと聞いた。

私に取っては付き合い始めが、印象的であり過ぎたので、終わりはろうそくの火の如く淡く消えて行った。Muraoka
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2006年7月 8日 (土)

北朝鮮のミサイル発射

北朝鮮が米国や日本の要望を無視してミサイルを打ち上げた。それも一つだけではなく7つもである。
日本のテレビや新聞は大騒ぎだが、なにも出来ない無力のこの老人も一言なかるべからずとブログに載せる事にした。
一昨日の私の日記から一部引用する。
「北朝鮮の打ち上げたミサイルは結局7発だった由。なお今後も打ち上げると公式に認めた。開き直った感じで、日本が前の大戦で連盟から脱退したときと同じ調子である。金正日は定めしヒットラー気取りなんだろう。
文句があるなら原爆を打ち上げるぞとの威嚇を込めてのことだろうが、こんな狂人みたいな独裁者には触らぬ神に祟りなしで、我慢する以外に無い。取り合わないのが一番の制裁である事を肝に銘すべきだ。
日本は一番の標的である事は間違いない。韓国は同じ民族だし、すり寄って来ている国を標的にはしないだろう。
何もしなければ打ち込まれる事もないだろう。日本は不戦の国だから、それしか方法は無い。向こうもそれはよく知っているはずだ。
日本は無謀にも同じ事を私の小さい時にしでかした。そして国民は途方も無い犠牲を強いられた。
今度は北朝鮮の国民こそが哀れなことになるだろうと傍観し続ける以外にはなかろう。」

格別追加する事もないのだが、昨日からの世論を見聞きすると、やはり戦争準備とまでは言わないまでも、経済制裁論議はかまびすしい。
しかし日本が単独で経済制裁なんかやったところで効果はないだろう。むしろ敵愾心を煽るばかりだろう。
ただミサイルを打ち込まれた時どう対応するかは、よく準備しておく必要はあるだろう。
少々の犠牲は我慢するかどうかである。私は我慢してほしいと思っている。
戦争はもうこりごりである。傷つくのは自衛隊だけで済まされない。

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2006年7月 9日 (日)

忘れ得ぬ人々(23)

田島淳さん

昭和15年3月、同時に新京の満洲鉱山調度課に入った同僚だった。
彼は法政大学を卒業していたが、年齢は私より5つも年上だった。
二十歳代で5つも違えば、経験以上にやることなすこと何枚も上の感じで教えられることばかりであった。

入社して3ヶ月もしてだったろう、放送に出てみないかと彼に誘われた。
よく聞くと、放送局のドラマ放送に役者以外に、その他大勢役の人間がいるという。それをやってみんかというのである。東京出身の彼には何でもない事だろうが、田舎者の私には恐ろしい事の様な気がした。
ラジオを聞くことはちょいちょいあったが、それに出てしゃべったりするとは想いもよらん事なので、教えてもらえば出ても良いという事で承諾してしまった。
ドラマといっても当時の新語みたいなもので、つまりはお芝居である。
もともと芝居は見るもので、聞かすだけの世界では、どうしようもないと思われていた。
ところが昭和11年ベルリン・オリンピックで日本選手が大活躍をして、その放送の実況に音響で雰囲気を作り、実感放送などということが試みられたりした。これが結構面白かった。
それが契機かどうかは知らないが、ここ満洲放送局でもドラマがときどき制作され放送されることになった。
そのスタッフの方たちの名前はもちろん憶えていなし、もともと馴染みは全然ない。
田島君はいくらかの人とは懇意でないまでも知人はいたかもしれない。
ただこの中にひときわ目立って行動する男がいた。これが森繁久彌さんであった。
公園から枯れ葉を集めて来て、床近くに置いたマイクの回りにまき散らして、それを2、3人の我々その他役が歩き回る。マイクではこれを兵隊の行進として放送する。大ざるに大豆を沢山入れて、左右にゆすってざあざあと音を立て、マイクで拾って波の音と放送する。こうしたお膳立てをこまめにしつらえ指導するのが森繁さんであった。
新米の私には何もかも新鮮であった。
早く口早言葉も森繁さんが熱心に教えてくれた。
たまに配役を貰って、兵隊甲、乙をやらされる。一言二言だがそれでもなんども練習させられる。ところが肝心の本放送になって、方言が出てしまって恥をかく。まあ余り嬉しい思い出は残っていない。
途中から新京放送劇団という名称になって、秋に滿鉄社員クラブ劇場で児童劇の公演もしたことが一度あった。離れ小島の土人の役で私も出演した。何事も生まれてはじめての経験だけに、まあ無我夢中だったとしかいいようがない。
何時の場合も田島さんに引きずられて、登場しただけで、まあいわば子役みたいなものだったろう。
その年の暮れに私は徴兵のため、止めて郷里に帰り、翌16年1月に関東軍に入隊した。

戦後彼は建設会社に勤め、1974年に私を捜して電話をくれ、75年と81年の2度訪ねて来てくれ、昔を思い出しながら一緒に食事をしたことがある。戦後没収されて無くなった会社の同じ課の連中の会合が何度か開かれたが、とうとう一度も出席しなかったので、彼と再会することは出来なかった。数年後彼の死を聞かされた。
最初の印象が可愛い弟のようだったので、私を忘れかねていたのであろう。在社期間は僅か8ヶ月に過ぎなかったのに。
(左の写真のマイクの側の立ってるのが森繁さん、田島さんも私も両方にいるのですが)
Sinkyogekidan
Jidogeki

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2006年7月10日 (月)

青空&サッカー

7月9日午后2時
台風が近寄って来る影響か、急に青空が現れて、日射しが雲間から届くと物凄い熱気が顔を撫でる。
じめじめと連日降りまくった雨がどこかへ行った感じ。
4月頃から、うんざりするほど灰色の空が続いた今年は、紺碧の空を見る事はもうないのかも知れないと少し心配になっていた。
満天の星屑などという言葉は、どこかよその国のそれと思っていた。
やはり時には霞や雲を吹き払ってくれる強い風が必要なんだなと、自然の偉大さを思う。

7月10日午前8時
今朝のテレビでサッカーを見た。イタリアが運良く優勝した。
ベスト8くらいになると、どこが勝ってもおかしくない。技術というより格闘技に近い。体力のないチームはだめだ。
それにしても日本のひ弱さを感じないわけに行かない。
中田ならずとも、ただ無力感のみで立っていられなくなっただろう。Sky

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2006年7月11日 (火)

手の痛み

昨日の日記より

左手の親指がとうとう曲げられなくなった。こぶしが作れなくなったのは半年くらい前からだったが、そのごろから親指の関節が折り曲げる時、コキコキと音がして少し痛みが走っていたのだが、今朝はもう全然曲がらない。

ただ手足の痛みは随分軽くなった。痛み止めも3日ばかり前から呑まない。
まだ右手は指は変形はしているが、曲げるのには差し支えない。

どちらにしろ握力も、腕力もすっかり衰えて人並みの事は出来なくなった。
年齢相応というべきか、乾癬のせいというべきか、医師にもわからないという。

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2006年7月13日 (木)

深夜の朗読

『メンテナンス中です。
2006年7月11日(火)14:00?7月13日(木)14:00に
ココログのレスポンス改善のためのメンテナンスを行っております。
詳細につきましては、お知らせココログをご参照ください。
ココログをご利用のみなさまには大変ご迷惑をおかけしまして
誠に申し訳ございません。』
ということで、以下のブログは1日ずらして読んでください。

昨日の深夜午前0時半頃「蝉しぐれ」の朗読があった。松平定知アナウンサーの重厚な響きが耳朶を打った。
65回目だそうだが、何時の頃から聞き始めたか覚えがない。
最近は楽しみにして月曜日の晩は早く休んで夜中に起きて待つ。

本も何度も読み返したし、テレビドラマも録画して何度か見ている。それでも面白い。
たかだか10分位の時間だが、凄い充実感が残る。名作名演と言うべきか。
後5分位延ばして欲しいのだが、延々と日を重ねても時間はそのままである。
アナウンサーに事故が起きても困るし、こちらが命脈尽きても心残りだし、今クライマックスに達しているので、残り3分の一をなんとか心静かに待つとするか。

森繁久弥の日曜名作座はもう国宝級とも言うべき朗読だが、それに続くものと言ってよいと思っている。
私は小学校に入る前から、小さな豆講談本を朗読していたことを憶えている。
当時は老人が歌うがごとき調子で、手紙や本を読んで聞かせてくれた。それが子供心をいつも揺すり続けた。
その真似をして成長した。小学校でも朗読の時間があったが、いつも一番早く朗読を終わり、他の子供から文句を言われ、実証してみせて黙らした事がある。
先生からクラスの独習時間に朗読指導を任せられたこともある。
当時はすらすら読み下す事に意義があったようだが、しかし内容が相手に分からなければ意味が無い。
正確流暢な発音と臨場感ある表現が重要な事は今も変わりはない。

深夜だから聞く人は国民の1%にも足りないだろうが、惜しい事だなあといつも思っている。
もう永い間、聞くだけの毎日で、声も出ないし朗読を続ける気力体力もなくなった老人だが、こんな立派な朗読が聞かせてもらえることは凄く嬉しい。

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忘れ得ぬ人々(24)

正木よしおさん

幼時の想い出がほとんどだから日取りなどは定かではない。彼の名前も漢字がどれになるか、聞いた事がないのでわからない。
私が気づいたときは、彼の家族は私のうちの別棟の納屋に住んでいた。
従って、両方の屋根がくっついて居て,その下に大きな通路があり、井戸も風呂も共用していた。
もちろんこの通路の両側には扉があって夜分は閂で閉ざされる。国道に面した扉は開き戸で、庭に面した扉は格子の引き戸だった。
子供には境界はないので、勝手に行き来していた。時には食事も彼のうちでよばれたりした。
小学校入学より先か後かも分からない。がともかく私より5つ年上のよしお(私は”おっちゃん”と呼んでいた)さんは何かにつけて私の先生であった。
彼には私が”おばさん”と呼んでた彼の母親と姉と兄がいた。おばさん以外は私には遠い存在だった。
いつもおっちゃんのけつについてその真似事をして、育ったようなものであった。
彼は物凄い読書家だった。その小遣いはほとんど豆本(手帳程度の大きさの講談本)に費やされたのではないかと思われる。読み終わると、私にくれて新しいのを駅まで行って売店で買い、又読み始めるの繰り返しだった。
大きな声で読まされた、そして内容を教えてくれた。
友達はいなかったのではと思う。彼が誰かと遊ぶことなど気づいた事がない。
こうして私が4年になった頃彼は高等科を卒業して何処かに就職(確かおばさんの伝手で帝人岩国工場だったと思う)し、私の父が帰国して来たので、納屋を明け渡して貰い、彼ら一家とはお別れした。

おっちゃんもやさしかったが、おばさんはもっとやさしかった。私をミーちゃんと猫を呼ぶ様な声で呼んだ。
この事は後に昭和14年8月21日の日記に、随筆風の思い出記として長文を書き残している。
この中でおばさんのご主人は戦争で亡くなっておられ、人絹工場で働きながら3人の子を育てて居られたことが記されている。
うちに居られた当時が一番苦しかった時代ではなかろうか。

ともあれ彼と道はすっかり別れて、彼は職場に、私は中学,専門学校と進み、どちらかというと私は彼を殆ど顧みる事などなかった。それでも夏休みなど彼が水泳に誘ったり、うなぎをよそのダブ(養魚場)に取りに行ったり、したことが日記に出て来る。
私が学校が休みになるとひょっこり現れて、遊びに誘ったらしい。
昭和40年1月1日彼は例によって年賀に訪れて、私を近くの新天座という映画館に誘い出した。
その年の暮れ12月31日入営のため満洲から帰郷していた私を誘い出し、広島に連れて行った。
彼はどこでどうしたのか、勉強して広島市役所の建築設計の仕事に就いていた。
休みの役所の中の職場に案内し、やりかけの設計図のかかった設計机を示して得意げに説明したりした。
彼がこの職にたどり着いた道のりは知らないが、正規の学校も出ずにここまで来た彼に敬意は払わずにはいられなかった。
その帰路飲みに行き、夜になって小網町の遊郭に連れて行かれた。
宮島の弥山に登り初日の出を拝もうという段取りの、待ち時間としてであった。
二度と生きて今生で会う事はないと思ったかどうか、彼のにじみ出る好意を甘んじて受け従う私だった。
予定取り山に登り、日の出を待った。
暗闇の中を上り下りするので足をくじいたりして大変だった。
しかし、彼とはこれが永遠の別れとなった。
5年後私が中支戦場をうろついているころ、彼は昭和45年8月6日8時15分原爆で還らぬ人となった。
兵役は免れていたのだろうが、戦は戦場だけではなかった。
爆弾投下前、相生橋付近を歩いていたのを見た人がいたと、後日おばさんから聞いた。
私を可愛い弟として最後まで気にしていたに違いないと思うのだが、死に近かった私の方がこの歳,86年も生きている。

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青空

午後凄い青空が広がった。
何ヶ月振りだろう。
カッと照る日射しもなんのその、爽快さ限りない。
公害も天災もないこの美しい空をいつまでもと願う。Img_1256
Img_1257

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2006年7月14日 (金)

忘れ得ぬ人々(25)

富永正義君

彼は中学校四年生になったとき、病気で一年休学していて、私のクラスに入って来た。
青白い顔をして、やせ形で長身のいかにも病気上がりだとわかる体形をしていた。
実にやさしいどちらかというと女性に近い性格に見えた。ぼぞぼぞとしゃべり、決して大きな声は出した事がないと記憶している。私もどちらかというと軟弱な性格だったから、付合いやすかったのかいつの間にか親しくなり、彼の家が学校から割と近かったりしてので、帰路誘われて寄り道を良くする様になった。
彼は英語が得意で、コンサイスの辞書を片手でぺらぺらめくりながら、必要な単語を素早く引き出すことが上手だった。単語憶えるのでも、常時この辞書の始めから憶えて行くという芸当をやってみせたりした。もちろん辞書には当時からよく常用される字句の印が始めからつけてあるので、それを全部憶えるという事である。
彼の語彙の凄さは驚くほどだった。
私も彼のまねをして努力したが駄目だった。
只私は数学や国語、漢文などが彼に勝っていたので、英語は彼に譲って満足していた。

五年生になって、同じ上級学校を二校受験する事を話し合って、受験地が同じく京都であることに目を付け、一緒に出かける事になった。
どちらから言い出したかは憶えていないが、祇園に宿を取る事にして、受験生宿を捜した。
今考えると、よくあんなところで泊めてもらったなと思うが、2月ごろの端境期だから結構受験生歓迎の看板が立てかけてあったものだ。
試験場は一つは京都大学だったから、それほど遠くはなかったが、一つはずっと西のはずれの名前は忘れたが商業学校だった。ちんちん電車で1時間もかかったのではなかったか。3日づつ都合1週間通うのだから、やはり少し遠過ぎた。でもなにもかも珍しい旅空だから、電車から見る風景が楽しかった。

結果は私は二校ともパスしたが、彼は二校とも落ちた。
一つでも彼が受かってくれればと嘆いた。彼の心情を思って掛ける言葉に窮した。
人生の悲哀をこのとき痛切に思い知った。
救うべき手段はなかった。
しかし彼は頑張って翌年もう一つの学校にパスして喜びの手紙をくれた。その後もこの学校が気に入ったと見え何度も便りを寄越した。
休暇に私を訪ねてくれて、近くの天神の山を徘徊したりしたことがある。
友情はずっと保持され続けた。
彼は兵役は免れたと聞いてるが、戦後はよく会って旧交を温めたりした。こどもの就職の相談など受けたりしたことがある。
1968年同窓会のことで話し合ったが、彼は仕事がいそがしくて出る事が出来なかった。
1970年代の後半だったと思うが、ある日突然訪ねて来て、銀行に勤めている娘さんの縁談で相談に来た事があったが、私は役に立つことが出来なかった。
それ以後会う事がないまま数年後彼の訃報をいただいた。
彼との思い出は何となく人生の儚さを感じされるものである。

Tominagai

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2006年7月15日 (土)

さざん会

さざん会とは私の学校の同期生会の名称である。第33期卒業だからそれをもじったわけ。
卒業20年目の昭和35年(1960)に第1回が母校の近くの料亭で開かれて、それから毎年のごとく行われ今年が32回目になる。
厳密にいえば、昭和55年(1980)からが毎年実施されている。それまでの20年間は最初をいれて5回行われた。
去年は熱海で開かれ出席者は8名だった。若い者でも85歳だから、欠落者が多いのは無理からぬことである。

今年は神戸でやると、今年の当番が引き受けてくれたので、ぼつぼつお呼びがと思っていたが、音沙汰ないうちに夏になってしまった。去年は7月6日だったから、少し気になり大阪の会社を経営している友人にメールを送っておいた。その翌朝さっそく電話して来て、世話人に電話して聞いた所今年は秋にやるという。
ぼつぼつ準備するから待っておけということだった。

こちらは病気にでもなっているのではないかとそれが心配だったので先ずは一安心。
いつぽっくり逝くかわからないのだから、元気な事だけ分かれば良い。
こちらのいつも一緒に出席する友人が40日の入院から還ったばかりなので、その後の様子を聞いた所秋までには好くなるだろうと嬉しい返事をしてくれた。心強い連れが出来そうである。

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2006年7月16日 (日)

友が恋しい


格別死に繋がる様な持病はないのだが、自分では生きるつもりでいても、いつお呼びが掛かるか分からないのが人の命である。
心臓は格段に衰えている。これは少し急ぐとすぐ息切れするからわかる。
いつポクッといくか、もっともこれが一番望ましい死に方なのだが。

残念ながら私には女の友達がいない。強いてあげれば昔デパートをやった時手伝ってもらった、小学校の同級生が二人居る。一人は一緒に経営した同僚の奥さんである。先年主人が脳溢血で急死した。だから現在は未亡人である。
ちょっとは気になる事があるのか、いつだったか私の夢を見たから、具合でも悪くなったのではと電話して来た。
同じ年だから86歳、いくらか気にしてくれてるらしい、有り難い事だ。
もう一人はデパートの婦人服部の指導援助をしてくれた、洋裁学校の院長である。まだ現役で頑張っているようだ。
先年自分史を一人息子が製本してくれたといって贈ってくれた。
戦中戦後は主人を早く亡くし、やはり並でない苦労をして来たようだ。
年賀状程度はやりとりがあるが、親友という程ではないだろう。

ブログに連載している『忘れ得ぬ人々」の殆どは男の友達だ。
友達には随分恵まれていたと自負している。ブログに書いた友はすでにこの世にいないものばかりだが、今も生きて交際をつづけているものも、数人居る。
折々電話やハガキ程度で交信しているが、もう行動はまったく不自由になった。
ここから7、8キロの所に居るもっとも親しい友人が、最近まで40日入院していた。一応退院出来たので自宅療養しているのだが、昨日一度私のうちに来たいと電話して来た。
駅まで迎えに行くから知らせよというと「いや、タクシーでゆくよ」という。

数年前までは他の友達も誘って年には数回も会食したりした。これらの友人も一人減り,二人減りして、残るものも行動不如意となって、出会う事も難しくなった。
今年は前記の友人と一度会食した。それ以外は誰にも会わないで暮らしている。
友が恋しい。昨今無性に恋しい。
今年の同窓会もどうなってるのかと一人で騒いでいる始末。秋にやると言ってはきたが。

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2006年7月17日 (月)

妻の叔母さん

私より6つ年上の、妻の最後の一人の叔母さんが、最近調子がよくないという。福岡に就職していた次男が今年2月に死去したことから、そのショックからだろうという。
米寿になってもピンポンをやる程元気だった、ハワイ帰りのしゃれた叔母だが、永い間わざわざ福岡まで出かけては、やもめ暮らしの息子の世話をしていたのに、対象の本人が亡くなっては、希望も何もなくなって当たり前かもしれない。
小さかった子供を残して、次男のの嫁さんは随分前に亡くなり、彼のやもめ暮らしが永年続いていた。その無理がたたったのかも知れない。その子ももう2,3年前嫁さんを貰ったりしたのに。
長男の嫁さんもいま入院しているとのことで、嫁いでいる娘が臨時に戻って来て、叔母の看病しているらしい。
不幸が続くと、誰しもがっくり来る。

家内ら兄弟姉妹で話し合って,昨日見舞いに出かけた。
私もと思ったのだが、立ち居が難渋だし、座る事が殆ど出来ない。日常腰掛けか,寝るだけの生活習慣だからどうしようもない。一応遠慮することにした。
帰宅した家内の話では、結構私や妹らの名前が分かるし、話した事は直ぐ忘れて同じ事を又聞いたりして可笑しい点もあるが、未だ元気なもんだという。時ならぬ時の皆の訪問に叔母が驚いて、何かあったのかと怪しんだという。
流石にもう寝たり起きたりでピンポンは出来ない由。
私と同じで残りは知れた人生と云ってよさそうだ。楽な往生であってほしい。

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2006年7月18日 (火)

献体


昨日長女たちが家に来て雑談しているうちに、私の死後のことについて、普段から葬儀をするなといいつづけてるものだから、それなら献体するのが一番だという事になった。
娘の仲間にもそういう人がいるし、現実に実行されたが極めて便利だったということだった。
私もかねてからうすうすそんな話は聞き知っていたので、この際そうしようと決断し、娘と婿の前で宣言した。
幸い孫が大学病院の看護師をしているので、手続き方法を尋ねてもらう事にした。
ネットで調べてみると、

「生前に登録をしておくと、死後遺体が大学等に持ち込まれ、さまざまな人体解剖学の研究に役立ちます。これらを正常解剖と呼びます。
献体する側も無条件・無報酬が原則ですが、それだけにアフターケアも万全です。
通常、葬儀の後、ご遺体は出棺して火葬場に向かうことになりますが、献体される場合は向かう先が火葬場でなく大学病院であるという点が異なるだけです。
研究などの仕事が済めばきちんと火葬されて、遺族の元に返されます。
但し、死亡の時期や大学にもよりますが、遺骨が返還されるまで2年以上かかることもあります。」

ということが記されている。
結構な事である。墓は既に何年も前に作ってあるから、いつ返還されても遺族がまごつく事はない。
これは遺言ともしたいので、このブログを読んだ私の親族はそのように了承してもらいたい。

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2006年7月19日 (水)

おっちゃんの不思議な想い出


先日のブログで書きながら気づいた事がある。正木よしお即ちおっちゃんのことである。(”お”にアクセントがある。)
あの中で書いた様に、彼は小学校高等科を卒業して就職、私は3年後進学の道を行き、何年も郷里から離れた。
当然お互いが交わる機会はうんと減っていた。
しかし彼は私がうちに戻っている時、飄然と私の前にしばしば現れた。
私の記録している日記にも、忘れて思い出せないものが度々出て来る。
専門学校1年のときの夏休みに、自分のものでもない他所のダブのポンポラを揚げて、二人でうなぎを取ったなど全然覚えがない。しかし自分の日記にちゃんと書いている。
泥棒したことである。焼いて食べたのであろうか。そこまでは書いてない。

正月休みにはよくやってきたことは憶えている。彼だけでなくその他の滅多に来ない友人たちでもよく訪ねて来て、友人たちの鉢合わせになったりした。田舎の事だから人恋しいのである。
昭和15年の元旦に新天座に映画を見に連れて行かれた。何を見たかは書いてないからわからない。しかし彼は給料取り、私はまだ学生、当然かれのおごりだろう。

現在の様に電話や携帯などという便利の交際手段はない。手紙は返事を聞くまでには1週間以上掛かって間に合わない。いきおい訪ねるのが手っとり早いというわけである。

私自身も良くちょろちょろして、結婚した後でも正月3ヶ日はおろか、4日も5日も,家庭を顧みず家内に泣かれた覚えがある。ちゃんと日記に書いている。

彼は春休み、夏休みなどによく現れた。
しかし昭和15年も暮れに、軍隊に入るため1週間前に満洲から帰郷した年末31日に彼が私を広島に連れ出し、自分の職場まで案内し、初日の出を宮島の弥山頂上で拝もうと、引っぱり歩いた行動はどうしても不思議である。
もちろん家族には私の帰国を知らせていただろうから、そちらから情報を入手したのであろうが、広島に通っている身でいつ知ったのであろうか誰に聞いても分からなかった。

彼も最後の別れなどとは思っていなかっただろうし、原爆など考えた事もなかっただろう。
小さいときから肉親の如く育んだ私への思いがそうさせたとしか思い様がないし,霊感などというものが働いたのであろうか。

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2006年7月20日 (木)

歴史は繰り返す

寝てばかり居る様でも、結構何かと考えたり、何かしたりしているので、24時間という時間はやはり使い度がある。
最近は毎日欠かさないものに日記の他にブログの作成が加わった。
こちらは少し創造力がいるので、頭を使う事になる。字などはコンピューターの御陰で簡単に表示して貰えるので助かるが、それでもこれはどういう言葉で表現するのがいいかななどということは、過去の記憶を引き出してこね回す事になる。当然頭の中は騒然としている。
ブログ一つ書くのに時には何時間もかかり、度々休憩を取らなければならなくなる。重労働といえる。
出来上がったものは下らぬものが多いが、自分の身辺に拘る事なので、他人には分からぬ愛着みたいなものがつきまとっている。捨て去るには惜しい。
しかし私の所有欲の範囲に包み込まれたゴミに過ぎないのだから、私の死と共に放棄される。
それはそれで結構である。
昔から言われる様に『歴史は繰り返す」、畢竟この世はこうしたことの繰り返しで出来ているのだから。

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2006年7月21日 (金)

医者通い

定例検診で病院に出かける。
手足の指の痛さを訴えると、内科でリューマチの検査をして貰えという。リューマチの検査は大分前にしたけど別状なかったからいいと、答えると一度整形外科で診てもらった方が好いかも知れないという。
前の先生(1年前に交代)のとき、同じ事を云われて診てもらったが、異常なかったからそれも結構ですと断る。
痛み止め薬だけ貰えばよいと申し上げる。
おとなしい先生だから、それではそうしましょうということになる。
それより、今呑んでるチガソンが利かないのではというと、いやあれは止めては代わりがないという。
結局現状通りに落ちつく。
痒いのが困り者だが、老人の身体は欠陥だらけなのだから文句を云ったってどうしようもないことはわかっているけど、やはり文句が多かったかなと後悔。
痛みを抑えられるだけでも、通院の値打ちがあると内心満足する。

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2006年7月22日 (土)

昭和48年

1973年、私の年齢が53歳だった。
この年は昭和48年で、オイルショックの年と言われた。現在もオイルショックに見舞われているが、後世第1回のと但し書きがつくかもしれない。甚大な影響があった。ガソリン代が倍近くになり、支払い給料も倍になり、いっぺんに私の会社も赤字に追いやられた。便所の巻き取り紙がなくなるなどと買い付け騒ぎが起きたりして、世相不安まで巻き起こした。
私の当時の日記帳を覗いて見ても、あったこと、やったことの羅列でほとんどコメントは何もついていない。丹念に毎日つけてはいるが、ゆっくり考える暇もなかったのだろう。

此の年は私の会社の規模が最大に達していたときで、営業所が10カ所あった。殆どが各地の百貨店のキーコーナーであった。最小限10名の従業員がいた。
売り上げの伸びる余地のない仕事だから、一方的に人件費が倍増することは、なんといっても痛かった。
前年度の売り上げは3千1百万だった。

1月早々から私個人の自宅の建築に掛かった。契約はショック寸前の8月だったから、その分では助かった。請け負った積水ハウスは反対に損した事だろう。その証拠に内部の羽目板類など品切れなどと云って、こちらの指定したものを変更させられたりした。工事の仕上がり具合などほとんど見に行く暇がなかった。勝手に工事屋がやってしまった。
終わりましたよと云われて、5月には転宅など自分の事も忙しかった。
会社の方は取りあえず前年度は利益を計上した分、法人税や付帯の税金の工面に追われる事になった。

2月には福岡の担当者が病気で休み、対応に出向かなくてはならなかった。
又同じ月妻の叔母の次男の結婚媒介を頼まれ、福岡の相手の家に出かけて貰い受け,結婚の日取りを決めるなど慣れない私には結構大役だった。

同じ頃長崎の従業員が物価の高騰で食って行けないと苦情が出たりして、もう一人の役員に出向いてもらったりしてこれも決着まで一騒動あった。
3月には北九州の店の店員が不満からサボるなど事態発生。急遽店を閉鎖し施設の撤去をしなければならなかった。
3月には長崎にいつも自動車で出かけるのを、JRに切り替えて出張したところ、その順法闘争に引っ掛かって遅れるなど起きたりして、この時店員との話し合い決裂、これまた一時的に店舗閉鎖に追い込まれた。

3月は中旬福岡の店員病気のため代替勤務を余儀なくされる。
当時広島ー福岡間は航空便もあったので、往復は楽だったが。

下旬に徳山店の店員が病気で休み、代勤が続いた。
又この月先輩長谷川さんを案内して呉方面を巡回、満洲時代の大恩人なのでサービスこれ努めることもあった。

3月31日には建築工事が終わってもいないのに、札幌の山崎君の尊父から10万円の祝儀を送って来たりしてお礼をいうのに忙しい。

4月1日より長崎店を再開する。後任者決定まで約1ヶ月勤務する。
5月4日結納の行事。
5月の後半は新居へ転入で兄弟の力を借りたり大変。28日やっと移転終わる。

6月1日に福岡岩田屋百貨店内の別の階に同業者出現、あわてて交渉するも経営系列が違うために交渉不能とされ為に売り上げが急降下したりした。なにしろ先方が下の階に設置したのだからたまらない。
問題は企業の大きさにあった。先方は全国規模こちらは一地方企業。勝てる相手でなかった。
大分後の事になるが、長崎の岩田屋、熊本の鶴屋、廣島の福屋百貨店でも同様の事が起きた。泣き寝入りするしか手がなかった。

6月下旬久留米店、業務不振のため店員を二度三度と交代さす。

7月中に自宅の境界線のブロック塀や取り付け階段、門扉など工事を全部終わる。
8月28日材料代の値上げ通知問屋より来る。
各店舗の2割値上げ実施する。

9月福岡店店員交代、2週間教育のため滞在する。
9月旧住居だったビルの一室をを返還し、借入契約を終わる。11月に整理復旧を終わり完全返還する。
9月29日熊本にもう1店出店計画を模索したが、状況悪化し断念する。
10月16日役員柏村を水戸まで出向いて、無報酬とすることを協議了承さす。
10月17日材料価格に付き東京の材料卸元の社長と協議をしてやや条件を有利に戻す。
10月27日叔母の次男の結婚式媒介遺漏なく終了。
11月22日倉敷店店員退職。
その他年末に至るまで、授業員や百貨店など出店先との騒動は続いた。
小企業は最終的に苦痛を背負わされる運命にあった。

10年後の1983年福屋百貨店の営業権を店員に無償譲渡したのを最後に全営業所閉鎖、本店のみで営業を継続し、1996年5月25日、全資産を宮本計装に只同然で売却、会社を終了した。1969年3月設立の会社だったから,27年間の短命な会社だった。儲かる事は何もなかった。ただ食って行けただけだった。
今にして思えば、オイルショックが致命傷だったと云わざるを得ない。
(写真は完成直前の我が家)My_house_1

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2006年7月23日 (日)

靖国の戦犯合祀

先般天皇が靖国神社にA級戦犯が松平2世宮司の手に寄って合祀されたことを「親の心子知らず」と不快に思われて、それ以後参拝を中止されたことがわかった。松平1世宮司は合祀をしないと天皇に言上申し上げていたのであろうか。

小泉総理は心の問題だと、自分には関係ないと言い張っていたが、内心驚いたと思う。
私はすっかり驚いた。何故陛下が参拝されなくなったのだろうとかねてから思っていたので、不思議にさえ感じていた。
そもそも大村益次郎などが考えていたのは、維新以来本来の日本の姿に返すべく働いて,そのために死んだ者たちの慰霊のために祭られたと聞く。即ち天皇に忠義を尽くしたものを祭るのが本義と思っている。
誰でも戦争に関係して死んだものは皆祭るというのは確かに本義に反していると思う。ただ東條首相の様に罪を一身にかぶって刑死にあったものには私も異議を唱え難い。しかし明らかに天皇の意に逆らって事を起こした者たちまで祭る事はないと思われる。
ここらあたりの区別をどうするかは、世論を待つ以外にない。

私は一つの意見を持っている。
日本の神社は皆祭神を持っている。そしてそれを特定している。靖国もおそらくそうだろう。
これがそもそも間違いの元だと思う。天皇のために死ぬるという事は実際は特定し難い筈だ。
現実には、戦場で間違いなく弾に当たって死んだものばかりではない。その反対のものもいる。行方不明者も沢山いる。沖縄戦のごとく民間人も沢山戦って死んでいる。
本来戦死などというものは到底特定出来るものではない。
だから祭神を特定しなければいい。A級戦犯を合祀するとかしないとかでなくて、祭神は天皇のために戦って死んだものは全部祭る(兵士だろうと民間人だろうと)。それでは誰がといえばそれこそ国民一人一人のこころの中にあると言えばよい。
恐らく地方に沢山建っている忠魂碑や慰霊塔などは特定された祭神はないだろう。それと同じに考えればよい。
(写真は靖国神社と大村益次郎銅像)Yasukuni_1
Omura

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2006年7月24日 (月)

日本沈没

今年はほんとに異常な年だなと、なんども繰り返し思う。
寒さが長かったし、日の射さない日が又多かった。そして今度は雨。何処もかしこも土砂降りの連続でおののいている。7月がもう終わろうかとしているのに、梅雨の終わる気配はまるでない。
これは皆が一緒に体験している事だから、あながち私がこの世を去る前兆でもあるまいと、縁起でもない事に結びつけてみたりする。
しかし、最近日本沈没なんて言葉が新聞に出たりする。昔ある作家が『日本沈没」なんて小説を書いてえらく評判になったものだが、その蒸し返しのようでもある。
こんな話が飛び交うのはやはり予兆をなんとなしに感じているのかなと思ったりする。
戦争はまさかだから、どえらい地震,津波なんて可能性があって怖いな。

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2006年7月25日 (火)

安倍独走の気配

福田が下りて,安倍独走の気配。
若返りは結構なのだが、政治力量は全くの未知数。
タレントが人気に支えられて日本の総理への感じ。
私と30も違うのだから、この世の経験は明らかに不足。
時の勢いという事があるから、この世界は出直して次を待つというわけには行かないのだろうな。
少々の失敗ならもう一度出来る歳ではあるが、世の中そう甘くない。
若いなりに全力で猛進しろと云いたい。
甘い顔ばかりしていては私みたいに騙されてばかりになるぞ。
郷里の出身だから,こちらの肩にも力が入る。

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2006年7月26日 (水)

宮島登山

天気がよくなったので、宮島に出かける。
足腰の鍛錬にと家内の誘い出しに応じたものだ。
10時前に出たのだが、かんかん照りの真夏の天気になる。
日よけを選んで歩くのだが、30度を超えると流石に暑い。
鍛錬のつもりだから真っすぐロープウエイに向かう。
お客は少ない。どちらかというと外人客が7割ぐらい。皆若く元気そうだ。ロープウエイでも気軽に席を譲ってくれる。言葉も英語ではなさそうなのでちっとも分からない。片言の英語で問うても、返事が分からないと困るので話しかけるのをやめておく。
終点の獅子岩で眺望を確かめる。少し霞んで遠くは見えない。
猿たちも蔭に潜んだか、ほとんど見えない。参道を来る道すがらいた、鹿たちも日向をさけて、物陰にかくれるくらいだから、この暑さは彼らとて苦手なのだろう。
獅子岩で軽く食事を済ませ、勇気を出して弥山頂上を目指す。
が、3百米の下り坂さえよろけたりして頼りない。登りの7百米にかかったところで百米行かないうちに息が切れて、自信喪失。樹間から見える頂上は正に垂直の高さ、頭にぐらぐらと来たので中止する。
もう少し涼しいときならと、ぐずぐず言いながら、何度も休み、休み、駅まで引き返す。
観光客の少なさにも助けられて、もまれずに済んでまあよかった。2時帰宅。どうにか手頃の運動になったかな。Miyajimatorii_1
Gojuto
Misen

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2006年7月27日 (木)

平和という戦争

平和は有り難いものだが、これも長く続くと世の中にいろいろひずみが出来ると見えて、最近の集団訴訟の多さはどうだろう。その大部分が国民の税金に関係が及ぶものばかりである。
おかげで所得は一向に変わらないこの老人まで市民税が3倍になったりする。
その上国民健康保険税、介護保険料など次から次へと老人を直撃する。手前の事は手前で処理せよということだから、減らすためには一刻も早く死ねということになる。
死ぬるためには交通事故くらいでは悠長過ぎる。治療や薬を制限するとか合理的に早く病死さす必要がある。
安楽死が最近問題になっているが、良い制度だから法制化したらどうだろう。一々殺人罪などというのはひどすぎる。
良い知恵がないものか。盛んに宣伝しているもろもろの少子化対策みたいな方法はないものか。
もう余り生きたくない人には奨励金を出すとか。昔姥捨ての制度があったくらいだから、それよりはましな方法だろう。
これも一つの戦争状態かも知れない。弾丸が飛び交うだけが戦争ではないということだ。
過酷と思えるかも知れない死を求めるのだから。

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2006年7月28日 (金)

新京の古地図のこと

先般のブログで新京の古地図(康徳7年製)のことでコメントが入り、戦時中の古地図などの掘り起こしをしているという人に協力を頼まれ、別に大した事だと思わないでスキャンして送る。
大きな地図だから、8等分しなければメールの制限にひっかかって送れない。
中にはうまく開けないのやら出たらしく、7、8回もメールのやり取りした挙げ句、昨日の昼過ぎやっと解決する。
先方は一晩中やってたらしい。23時、2時、4時なんてメールの発信があった。私は当然寝て起きて、朝6時頃からの応答になった。1昨日の夕方21時頃からだから大変だった。
こんな事は未だかってない。
単純なtextだけのやりとりだけなら問題ないのだが、写真などが入ると一筋縄では行かないらしい。
機器やソフトの関係があったようだ。先方はどうもドイツ製とのことらしかった。(メールもjpでなくてdeだった)
それにしても、私のブログの記事内容の一部から新京地図を検索して、どうして見つけ出すことなんか出来たのだろうかと、その検索技術の凄さに感心する。
まあ、ともあれ最終的に解決出来てよかった。
それにしても航空衛星の写真を基本にもろもろの古代地図との比較をやってるらしい。奇特な事をやってるものだと感心する。そのホームページを送られたのでリンクのつもりで掲示する。
http://googleearth.hp.infoseek.co.jp/

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2006年7月29日 (土)

ごきぶり

夜風呂から出て来た妻が、大きなゴキブリがいたので,殺虫剤で殺したという。最近では珍しく今年になって2匹目だという。昨年はホウ酸団子のおかげでほとんど出なかった。
再使用の必要がありそうだ。
なぜホウ酸団子がよく効くのかと調べてみると、あれを嘗めると水分がなくなってひからびてしまうのだそうだ。

私の一家は永年流転の生活を送って来たので、さまざまな家に住んだ。
どこにもゴキブリがいたが、廣島の香護山にいたときは凄いものだった。ぞろぞろと昼でも遠慮なく出て来た。
引っ越しの度についてきた。新築したこの家でも駄目だった。殺虫剤は必需品だった。
相手はゴキブリだけではないので、殺虫剤で一応間に合っていた。
時には捕虫箱を利用したりしたがこちらは少し面倒だった。
ホウ酸団子の事はちらほら聞いてはいたが、これ又作り方が面倒だった。

ところがホウ酸団子というのを売っていた店があった。家内がそれを買って来て台所にあちこちまき散らした。
これがよかったのか秋口には目にしなくなった。なんだか狐につままれた様な感じだった。
やはりと信ぜざるを得なくなった。近く買う事になるだろう。

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2006年7月30日 (日)

カープ長谷川元投手死す

昨日長谷川良平元カープ名投手が死んだ。まだ私より10歳も若い76歳というのだから惜しい。
まだまだカープのために働いて貰わねばならなかった。
あの小さな身体で30勝も挙げた年もある。当時は毎年最下位に低迷する弱小球団でありながら、全身を揺すぶって投げ込むサイドスローは目を見張るほど球威があった。
巨人の川上、青田など強打者連をバッタバッタとなぎ倒す爽快さは忘れられない。
昭和25年カープ創設当初から、愛知の無名高校からスカウトされ、いきなり15勝するなど14年間カープのエースとして活躍した。
当時のホームグランドは広島県営球場といって、総合グランドの一角に時には縄張りしてグランドを小さくしてまでしなければ観客を収容しきれなかったような貧しい球場だった。しかもこれも何度に一回かで、殆どがどさ回りで、まともの球場がなければ学校のグランドまで利用した。
私も大竹の三菱レイヨンのグランドでも見た記憶がある。
彼はすでに引退していたが、昭和50年、リーグ創設26年目の初優勝の感激とともにカープの苦難の歴史を支えたこの男はどうしても忘れる事は出来ない。(写真は広島カープ球団史より)
Hasegawa
Carp
Carp2

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2006年7月31日 (月)

乾癬と献体

最近家内が痒い痒いと盛んに言う。乾癬がうつったのではと私に見せたがる。
乾癬はうつらないということになってるのだが、それでも毎日同じものを食ってるのだから、ひょっとしてうつらなくても同じ症状位は出るかも知れないとひそかに思ったりする。
私の乾癬はもう軽く20年は続いている。軽くなることは先ず無い。
年々広がりを見せて、今や全身に広がっている。治癒したらしいところもあるが、痕が残って見苦しい。
私が献体を言い張るのも、この身体を解剖して、原因の分からない乾癬という病気を研究して欲しいからである。
病気が取り沙汰され始めてからでも何十年になる。一向に原因解明がなされない。研究物体が少ないのも原因の一つだろうと考えたわけである。
看護師の孫が反対しているらしいが、私の真意が分かって欲しい。
私も好き好んで醜い屍を衆人に曝したくはないが、幕末の志士の気持ちになっているのだから。
こりゃひどいと若い学生が驚いて研究テーマに組み込んでくれるかもしれない。

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