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2006年6月 6日 (火)

忘れ得ぬ人々(2)

 水田穣君
彼を意識し始めたのは、世田谷の陸軍機甲整備学校の関東軍輜重兵幹部候補生隊で所属中隊は違うが、同じ部隊の彼が私の寝台の隣に寝起きする事になってからである。学生時代にも、社会人としても、軍隊に入ってからも初年兵時代は、全然言葉すら交わした覚えは無い。軽やかな動作とぞんざいな口のきき方で、私と身長体重とも変わらないこの男が何か私に警戒心を起こさせたことから始まった。いやでも終日寸時の暇もなく接触続けた訳だから、気にするなと言われても無理だったろう。
朝起きるとから彼の動作は機敏で、いつも後背をなめさせる彼に時には敵意を抱いた事もあったし、脅威に感じた事もあった。もたもたするなやと罵言を浴びさせられたり、こうせーいやと手を出されたりしたこともあった。もちろん茶目っ気たっぷりな軽口だから怒る気になるようなものではない。しかし彼にはいつも幼児かなにかのような下に見られて居たような気がする。
同じ学校の同学年でもクラスが違っていたし、学生時代にはバレー部に居たそうだが、部が弱かったので、関心が無く私の記憶外である。
しかし身のこなしが良かったので、銃剣術はうまかった。巖流ではないが飛燕のわざがあった。当然軍隊に入ってから習ったのだろうからスタートは皆同じだ。しかし200名からの幹部候補生隊内の大会で小柄な彼が準決勝まで進んだのには改めて感心させられた。
彼は帰隊後まもなく第七野戦輸送司令部付きに転属し、私は他の部隊への転属を繰り返し、2週間ばかりこの輸送司令部付きとなって、彼と机を並べた事もあったが、すぐ又私の最後の部隊となった独立自動車第32大隊に転属し、袂を分かったまま戦後を迎えた。私の部隊は1944年4月中支に転戦し、司令部は内地に帰還したので、彼は虜囚の屈辱を知らない。
戦後マツダ(当時東洋工業)に帰ってから(入隊前の会社)はサッカー部で活動し、マツダ(当時東洋工業)が全国制覇を何度もしたときに、マネージャーとして活躍した。彼のおかげで試合を見物に出かけたりしたこともあり、マツダのファンになった。現在のサンフレッチェが芳しくないのが悔しくてならない昨今である。
又後日昇進した彼一人の案内で大きな工場を一巡りしたこともある。
マツダのレンタカーの常務を退いて、学校同期の友人(社長)の誘いで私と一緒の会社に入ったが、慣れない小企業の仕事には随分苦労したようである。組織のないひとりひとりの働きで持っている会社だから、慣れるまでは大変なのだ。特に社内外の人間関係に悩まされ続けなければならない。私も例外ではないが会社初期の男4人女3人の社員時代に入ったから、人間関係はすぐ克服した。だから私は長続きしたし、何度も退職したり復職したりしても、大手を振ってまかり通れた。
水田君の時代は百人近い社員の大世帯だったから、外部からふらっとやって来て、雑多な社員に号令してもからきし応えない。
昔と違って上司の権威など無いに等しい。むしろ邪魔かもしれない。数年もたたないうちに嫌気がさしたか、又縁故を頼りにプラスチック関係の会社に鞍替えした。
その後も憂さばらしによく私を訪ねてくれたものである。身のこなしの軽やかさは一向に衰える事なく、まさに神出鬼没といってよかった。
もうマツダ当時の華やかさは微塵もなかったが、といって偉ぶる所は当時からなく、一兵卒の気軽さで誰にも接触していた彼だが、私的な悩みもいくらかあったようで、苦悩を時折もらしていた。
ガンでマツダの病院に入っているという事を伝え聞いて驚いて見舞に行ったりしたが、可成り永い闘病の末遂に再起する事はもうなかった。
昭和も終わらんとする63年2月17日訃報を聞いた。葬儀は稲荷町の某寺で盛大に行われた。往時のサッカー仲間で日本の名選手の一人二宮氏の弔辞が心を打った。
(風呂場で私の頭に手をかざしている、富士裾野で右端の手をかざしている、山口雪舟庭で右端にいるのが水田君)Bath
Susono
Joeiji

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