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2006年6月16日 (金)

忘れ得ぬ人々(11)

中岡武彦君

1998年の6月18日古い友人の一人で、私自身の掛り付けの医師でもあった中岡武彦君がガンで亡くなった。
彼の専門分野みたいなものだが、肺結核の手術が専門だったから少し外れていたかもしれない。
医者の不養生の類いに当たるのではと、門外漢の私は思ったりしている。

中学校の同期生の世話を永年の間先頭に立ってやってくれ、友人の敬愛を集めていた彼が今いなくなると後がどうなるだろうかと、いささか心配であったが、お寺の住職の菊谷君が死ぬときは俺に任せとけとばかり、うまく取り仕切ってくれている。従って却って前よりも几帳面に毎年同じ4月8日に同じ場所で行われることになったりした。

彼が旧制高校の生徒だったとき、私の入った専門学校が同じ町にあり、偶々街頭で出会ってつもる話になり、試験でカンニングをあげられて困ってるんだとしょげてたが、その挙げた先生がイギリス人の私の学校とかけもちの先生で、私も大分以前に前の席の友人と答案用紙を見せ合って捕まり白紙から書き直さされた経験があり、カンニングを挙げる名人だなあと言いつつも、私の経験からまあ大したことにはならないだろうよと、慰めて別れたことがあった。

今でもそうかも知れないが、学生と云うものは他の勉強はよくするが、先生の授業などはいい加減に聞き、後でノートを貸し借りして試験に間に合したりしたもので、間に合わなかったのがカンニングということになるという因果関係である。
もともと中学時代は裕福なお医者の息子で、あまり勉強はしないほうだったから、1年浪人して高校に入ったぐらいだった。

しかし、その後医学の道を志した彼が、肺結核の外科手術で名を挙げ、その道ではかなり有名な存在だったと聞いている。戦後しばらくして国立病院の医師から独立して個人で開業することになった。
その当初から私は公私ともに掛かり合いが深まって今日に至った訳だが、その人柄から名医として尊敬され、私の義父などはあの先生の薬が一番よくきくと、くすりまで先生のせいにしていたほどだ。
もちろん友人関係を利用して勝手な言い分で、病気やくすりの相談を持ちかけたが、嫌な顔を一つするでなく応じてくれ、安全と安心は彼任せといってよかった。

大体惜しい人間程早く死ぬるもので、先立った友人にはそうしたのが多く、私達どうでもいい様な人間とか、憎まっれっ子だったものばかりが残されたようだ。この友人などはもう早いと言うには当たらないけれど、特に戦争世代の私達には非業の死を遂げた友人も多くこの傾向が強い。

政治家を志したもう一人の友人と、正月には回し接待で、一日呑み明かしたりしたものだが、年々多忙になり、いつしか立ち消えになってしまった。
正月でも急患があったりして、酔っぱらって席を立たなければならなくなることが何度も起きた。医者は人並みに休んでは居れない仕事だった。
誠実な彼は特に職業意識は強かった。彼からの辞退がこの会を終わらしたと思っている。

もちろん友情が醒めたわけでなく、その後も何十年親交は途切れる事はなかった。
空気の様になくてはならない関係だったが、それぞれの寿命は容赦をしてくれなかった。
こまめに書いた手記など私にくれたりしたこともあったが、今ははかない遺槁となってしまった。
後年いつだったか、これら手記などを纏めて「日見ず貝」という立派な冊子を作り、私も贈呈を受けた。
その中に小学、中学時代から浪人して高校、大学と正直に経歴を載せている。
根は実直な人柄の仁徳すぐれた医者らしい医者だった。
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