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2006年6月 9日 (金)

忘れ得ぬ人々(5)

丸山定男先生

中学2年のとき、颯爽とした青年教師が教壇に立った。
開口一番「ねばならぬ」=ought to be と、のたもうた。
この学校は校長が3S精神を説き、この若い数学教師も挨拶そこそこに、自分の処世訓を黒板に大書して、数学に向かう心得を諄々と説かれた。
丸山定男先生といった。後に知ったのだが,前任地別府中学から、赴任されるとき結婚された、まさに新婚ほやほやさんだった。勢いがよかったのも無理からぬことであった。

早速皆の学力程度を調べるといって、試験を始めた。
結果は後に京大の湯川教室に学んだ、角井君が合格点の80点をたった一人取っただけで、あとは全員50点以下の不合格という発表だった。私はそれでも辛うじて50点取ったので,この時を境に目に留まったのかもしれない。

問題、宿題と授業中から帰宅してまで数学の問題に追っかけられ通した。
夏休みも3年の時から呼び集められて、補習教育が実施された。
御陰で数学だけは自信が持てる学力になった気がした。

後年専門学校の入試のとき,第1日に数学があり、翌日数研と言う受験雑誌社が正解はこうだというビラを配ってくれたので、見たら悪くても95点はあるなと、俄然楽な気になった覚えが有る。

4年のとき、担任でもないのに、我が家を訪問され、そんな資力はないと渋る親爺を長時間粘ってとうとう承諾させて、広島高校を受験したことがあった。ほかにも数名白羽の矢を立てられて一緒に受験したが,全員落選の憂き目を見た。
ただ一人前記の角井君だけは山口高校理科に入学、入学式に答辞をよんだという話を聞いた。

卒業以来いつまで我が中学におられたかは知らない。戦争中は混乱して皆それどころではなかった。

1981年1月、地元在住者が全国の同期生に呼びかけ、初の全国大会が行われ当然の如く丸山先生も出席された。
卒業以来44年振りのことなので、先生はすでに郷里の徳島で教鞭をとっておられ、懐かしい教え子たちだからと特別の意気込みでやって来られた感じだった。2次会3次会と夜を徹して飲み明かした覚えがある。

挨拶はいつも「ねばならぬ=ought to be」で始められ、処世訓は健在だった。
同期生会にはいつでも出席させてもらうから、呼んでほしいとの申し出があり、次回からは欠かす事なく温顔を拝する事が出来た。

1995年4月12日何回目かの同窓会に先生が依然健在で出席され、24人の我々教え子の前で最後の言葉になると宣言の上、私は今年米寿になる、君たちは喜寿だ、お互い目出たい今日を私の出席の最後としたいと話され、別れを惜しんだ。
96年に夫婦揃って入院という事態に陥られ、97年の元日に奥さんが先立たれた。
入院中も元気な手紙を再三頂戴し、こちらが励ましを受けるていたらくで、遂に恩返しらしいことは何も出来なかった。
97年8月には長文の手紙をいただき、98年1月12日には私の寒中見舞いをよく気配りのできた立派な手紙だとお褒めくださるなど、最後まで私の教師であった。
2002年2月26日永の旅路に着かれた。同窓たちはその前に見舞いに徒党を組んで押し掛けたりしたらしいが、私は遂にその機会を得る事ができなかった。
(写真左はは81年同窓会、中は先生、右は米寿別れのスピーチ)56gantyu
Maruyama
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