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2006年6月 5日 (月)

忘れ得ぬ人々(1)


山県孝人さん、生涯を通じて一番忘れ得ぬ人である。
小学校前の時代には、彼の弟の文雄さんが歳は一つ上だが仲良しだった。大きい病気をしたので小学校入学は一緒だった。秀才だったので私はいつも教えられ役だった。だが二年のとき亡くなった。亡くなるということの悲しさがまだよく分からない年頃だった。彼が居なくなっても、国道を挟んですぐ斜め向かいの彼のお宅に、相変わらず通った。
目当ては大量の蔵書だった。
奥さん(彼の母)や女中さんの目をかすめる様に、無断で図書室に入り込み,むさぼる様に手当たり次第本を読んだ。
何時間もいるのだから、しゃがんだり、すわったり、ころがったりして、体位は子供の事だから自然に変化していただろう。ぎっしり並んだ棚の本を引き出しては読むというより眺めたという方が当たってるかもしれない。普通の本を十歳になるかならないかで分かる筈がないからである。ちょいちょい見つけられて、呆れ声を出されたりしたが、こちらは自分のうちと間違えたように、いや、そんな意識すらなかったと思うが、文雄さんがいた時と同じ様に自然体を崩す事はなかった。
夕方になると、奥さんがその本を持って帰りうちでお読みと、追い出されるのを常とした。
余談だが、私の親兄弟祖父母まで入れて近眼は私だけである。この乱読のせいである事は間違いない。

こんな調子だから、入り浸っているうちに、文雄さんの直ぐ上の孝人さんとは、自然に兄弟みたいになってしまった。
男の兄弟が5人いて、孝人さんが4番目で4つ年上(いつもタカボウと呼ばれていた)、文雄さんが5番目で、その上は中学やら大学で、私など相手にしてもらえなかった。書物の多いのは、これら兄弟のために鉄道省の高級官吏だった父親が購入したものが殆どだったと思う。

タカボウはどちらかというと勉強より運動好きといってよかった。だから学校から帰って来るとすぐ私を見つけて、お屋敷につれだされた。お屋敷とは、丁度私の家と国道を挟んで対面したところで、山県家を将来新築するためか、お城のように石垣に巡らされた大きな松が十数本点々と周囲に植えられた敷地のことで、真ん中に砂場があって、相撲でも柔道でも、幅跳び高飛び何でもござれで遊ぶには絶好の場所だった。

当時私の家も父は外国にいたので、ここのお父さんもうちにいなくても当たり前の様に思っていた節がある。
週に一度、或は半月に一度、帰宅されるのだが、それはそれはお迎えの儀式が大仰で、小さい私には何とも不思議な気がしたもんだ。なんだこの子はとじろりと睨まれると怖かったので、こそこそ逃げ帰ったりした。

前置きが長くなったが、孝人さんはやさしい兄貴だった。この頃の思い出の一番目は鉱石ラジオを上の兄貴らの手助けで作って、相撲の放送などイヤホンで聞かされて驚いたりしたことだ。
又お屋敷で幅跳びや高飛びの練習を毎日の様に繰り返し、この御陰で小学校の6年のとき、どの競技会か忘れたが高飛びで第2位に入ったことがある。運動の得意でない私も高飛びだけはその後しばらく得意であった。

小学校4年のとき、山県一家は全部引き払って東京へ引っ越した。別れの辛さは今でも思い返したくないほどだ。

次の孝人さんとの再会は私の中学1年の夏になる。当時高知高校の生徒だった孝人さんは、彼から見れば懐かしい故郷であるこの地に触れたかったのである。ひょっこり帰って来て、しばらくの間親戚に寝泊まりして、毎日私のうちに来て、海に誘い出す。何しろ高知の荒海で鍛えているので、格が違う。
海水浴場などというしゃれたものはない田舎だから、家から直距離で3キロぐらいの,海端まで出かける訳である。
元来は江戸時代に埋め立てられて出来た村だから、海岸は高い石垣が2段3段延々と続いていた。所々樋門があって、排水調節をやっていた。そこが泳ぎの場所だった。
小さいうちは樋門の内側で泳ぎの練習をするのだが、それでも小学校時代溺れたことがあって、怖がっていた私を徹底的に扱いて、海が何でもなくなる程にしてくれたことは、後々まで有り難く思い浮かべる事が多い。

昭和15年1月私は徴兵のため、入隊を控えて、どうしても死ぬる前に、陛下の居られる東京を見てみたいと決意し、山県の家を訪ねた。一週間泊めていただき、宮城を始め,思い残す事のない様にあちこち訪ね歩いた。
ただ、孝人さんが京都の大学にいて、帰らないので会えなかった。残念なので電報を打って、帰路立ち寄る事にしたのだが、途中立ち寄った上諏訪温泉で、湯上がりの始末が悪かったらしく風邪を引いてしまった。
京都の孝人さんの下宿に入った時は38度以上の発熱で寝込んでしまい、お医者を呼んでくれる始末。とうとう丸2日寝たきりで過ごした。
入隊まであと10日足らずになって母親が随分慌てたらしいが、なんとか怒られただけですんだ。

次の年の4月、東京の幹部候補生学校を卒業して見習士官になり、関東軍自動車第3聯隊への帰還の途中、本籍地の関係からか、孝人さんが広島の第5師団に入隊していたので、その部隊を訪ねた。
営門で待っていた私のところへ一つ星の二等兵さんが、駆け寄って来て、私に不動の姿勢で挙手の敬礼をして、「山県二等兵、お呼びで参りました」と叫んだのには思わず苦笑した。
私も母と妹を伴っていたので、まあまあと挨拶程度のはげましで別れたのだが、その場面の光景は今でも鮮烈に思い出される。

戦後昭和21年9月、私は一旦は学業を志して上京したのだが、変心して進駐軍のCivil Censorship Detachimentに勤めることになり、山県の家に下宿させてもらうことになった。
孝人さんとは雑魚寝ではあったが、翌年の1月中程まで寝食を共にすることになってしまった。
食料事情が悪く、いつもひもじい思いの毎日だったが、彼にいつもやさしく激励の声を掛けられ、甘える事が出来た。
私の心情は本当の弟だった。
間もなく私は軍隊から持ち帰った結核がひどくなり、帰郷せざるを得なくなった。
その後も音信の絶える事はなかったのだが、なかなか警咳に接する機会を得なかった。
もちろんそれ以後も私は仕事の関係などで、上京の機会は多く、山県の家には度々訪問することはあったが、他郷に就職していた孝人さんとは会う事ができなかった。

昭和43年6月7日突然孝人さんが訪ねて来た。夕食を共にし懐旧談に花が咲き夜の更けるを忘れた。翌日宮島まで出向いて大きなしゃもじを購入し、帰郷する彼に駅頭にて手渡しする。なんのつもりだったか今思い出せない。

それから二十年、繁忙に取り紛れて会う事もなく、年賀状と暑中見舞いのみがお互いの健康を表示してくれていたが、昭和63年の1月病気で亡くなったとの訃報を息子さんからその年末突然いただき、ああ!万事は終わったと嘆息したことだった。
あまりにも早く失った大切な兄貴であり、竹馬の友だった。Takato
Oyasiki

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