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2006年6月19日 (月)

忘れ得ぬ人々(13)

小田博三君

彼とは学生時代の思い出は全くないと云える。
そもそも学友のほとんどはその授業の場でなく、課外の平常生活の場で親しくなる事が多い。
彼は市内出身だったから、学校寮に入らなかった、すなわち自宅からの通学だったわけである。だからクラスも違っていたし、知己になるチャンスが偶然意外になかった。

最初に知り合ったのは、確か満洲国の新京だったと思う。卒業以来半年ぐらい経ったある日、誰が提唱したかクラス会をやろうということになり、日本料亭の「青柳」に集合したことがある。全部で19名だった。その中に彼が混じっていた。協和服が板についた感じで、あまりしゃべらない落ち着いた感じの男だった。
その時も親しく語らった覚えが無い。ただ徴兵検査の結果の話がでて、部隊名を言い合った時、5名(野村、小林、述本、小田、そして私)が同じ部隊だったのに驚いた。その一人がこの小田博三君だった。その時はよろしくと言って別れた。

入隊しても中隊は違ってたし、幹部候補生隊でも、同部隊のものが二十数名もいるのだから、顔は知ってても親しく話す事はあまり無かった。近しくなったのは、私が転属を繰り返し、昭和17年11月13日第7野戦輸送司令部勤務となったとき、そこに彼がすでに早くから勤務していた。水田穣君も一緒だった。
仕事の上の先輩だから、よく教えてくれた。その丁寧さに心を打たれた。まさに兄貴の如く感じたわけである。
だが、まもなく11月24日に私は自動車第31大隊に転属させられたので、交際は遠のいた。
幸い私の仕事が、兵器情報掛将校だったので、司令部との関連業務が多く、彼のおかげで随分助かった。

昭和19年4月5日自動車31大隊は中支作戦参加のため、支那派遣軍隷下に入ったため、彼らとは別れる事になった。彼らは後に内地に帰還したと聞いている。

彼との縁故はいはばこの十日に過ぎない。しかし戦後15年目の昭和35年5月21日始めて同窓会が母校で開催され、早速出席して彼のお世話になることになった。
この時から毎年行われる事になり、私はほとんど出席しているので、出席率は第2位となっている。彼も世話人としていつも取り仕切り役となっていた。
だから同窓会では終始彼には随分世話になった。無口で温厚な彼は後に山口ガスの社長を永く勤め、地元では尊敬を集めていたらしい。
彼の自宅に招かれて、ホームバーで奥さんの接待を受けたり、同窓会の翌日に今日は閑だからと、自動車で母校界隈から近隣まで思い出の地を連れ歩いてくれたり、彼なりのしみじみと身にしみるもてなしを思い出す。

平成8年学校の会報に彼の死去が報じられていたので、驚いて電話を入れたところ、奥さんから1月27日心臓が悪くなり手術をしたが及ばなかったとのことを聞いた。
体格は私などよりずっと立派で、背は高く大人の風格が有り、いつも堂々としていた彼だが、目に見えぬ所に欠陥があったとすれば致し方ない。クラスのためにも惜しい人を失った感が深い。
山口名所の瑠璃光寺の直ぐ山上の墓地に葬られている。Oda1
Oda2
Oda3

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