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2006年6月 8日 (木)

忘れ得ぬ人々(4)

栗栖哲男君
十年も前になるか直腸ガンを手術して、経過は悪くなかったのだが、その影響もあったのか歩行が難しくなり、近辺に住む我々同級生の集まりにも次第に出席してこなくなった。
いつも是非皆に会いたいと身体の不自由をこらえて、最後はタクシーを飛ばして30キロの道をやって来ていた時もあった。がある時を境に家の中を歩くにも杖が要るし、家から道路に出る階段を超える事が難しいので、それすらも出来ないと悔しそうに言っていた。
彼も平均以上の長寿を得たが、もう2年生きて親と同年までと漏らしていたそうだ。その望みを果たす事なく昨年3月14日旅立った。

彼は学生時代から文芸部に属し、よく学友会雑誌に小説などを発表していた。当時私はクラスも違っていたので、普段の付き合いはなかった。そうした文芸作品から受ける印象から、文学青年だと勝手に断定していた訳である。
卒業後は学校の気風から海外に進出するものが多く、彼は日満商事という貿易会社に勤める事になった。私も同類で満州鉱山なる会社に就職したようなしだいで、同期の卒業生の3割が海外や海外勤務地を持つ会社に就職した。
しかし当時も彼は北京、私は新京在住で格別な交際は無かった。

戦後は当然海外の就職先を失って、彼は高等学校の先生を永くやっていた。どうした経緯でなったかは知らない。
高きを望まず、マイペースの道を選んで、最後は田舎町の高校の校長で終わったようだ。
しかし相変わらずの文学好きで、書き物は数多く残して居るらしい。朝日新聞にはよく時評を投書し、時に発見してやるなあと感じ入ったこともあった。八十数回投書欄に掲載されたとのことである。息子さんの嫁さんの話では皆ファイルに綴じ込まれているそうだ。

私と親しくなったのは戦後も大分経ってからで、何度目かの同窓会の席で、サカヅキを差しつ差されつする間に、酒の勢いで饒舌になった彼の講釈に同調してかららしい。私は文学などには縁が無い男だが、本を読むのは小さいときから大好きだった。正に乱読で小説も科学書も哲学書でもスポーツ書でも、地図や写真も百科事典すらも私の読書の範囲にあった。だからいまだにその癖は直っていないのだが、その辺が読書好きの彼と共鳴したようだ。
この頃を境に急速に仲良くなり、年には何度も開かれる会合での再会が楽しみになるようになった。
卓越した人生哲学は学ぶことが非常に多かった。聞き役に廻る事が殆どだったが、現実に教師を務めた彼の発言には,常人のおよばざるものがあり、示唆を受ける事が多かった。特にごく最近の若者の話題は、切実で具体性に富み,非常に参考になった。

彼と交わした手紙は年賀状か暑中見舞いぐらいのものであるが、ときどきその中の文章に触れ、彼一流の鋭い短評を戴き,時に感銘を受けたりしたものだ。朝日新聞好みの批判力はさすがだった。
文学をやる程に筆まめだったのか、交遊範囲も広く、特に学友のうち中国からの留学生などの消息は彼を措いて得られなかった。支那語専修組出身の北京勤務で戦争中からのコネクションもあったのだろうが。

永いだけで、下手な処世をしてきた私には、暗夜行路に突如光をくれたような、有り難い助言者で有り続けた彼を失った事は、羅針盤を失った船の様な感慨に陥らざるを得ない。
健在の折りまだまだもう少し彼の謦咳に接しておけばよかっと後悔する今日である。
(写真のいずれも右側が栗栖君)Kurisuiwamoto
Kurisuyokoyama

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