« 戦前青年の視点 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(16) »

2006年6月28日 (水)

忘れ得ぬ人々(15)

沼静雄君
彼とはクラスも違っていたし、学生時代には声一つ掛けた覚えは無い。
同じ会社(満洲鉱山)に入ったのだから、入社試験時には自己紹介ぐらいはしたのだろうが、それも記憶に無い。
しかし私の昭和15年1月22日の日記に満洲就職者8名が、市内の料亭「山吹」に集ってすき焼き会をやって大いに騒いだとある。その中に沼君の名前もあるから、すぐ打ち解けて話し合ったことだろう。
そして3月16日には下関から関釜連絡船で一緒に赴任したのだから、それ以後はいやでも親しく付合った筈だ。
以下その時からの経過を私の日記から転載しよう。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3月18日
 16日朝雪を冒して出て呉れた近親の人々と駅頭の決別を最後に一路新京へと鹿島立った。
(中略)
 関釜連絡船の混めること、私の記憶に曽てなく殆ど死闘を続けたというも過言に非ず。
夜半を通じて満足に寝ぬるなし。頭脳呆然として判断力鈍りたるを覚ゆ。この時同行の士大崎、同人友相川氏、及び沼の3人なるに釜山駅に至りて電業に就職の土倉、述本、西の新たなる同士を加え、寝台車に陣取って賑やかに進む。
 話は弾みて、大いに退屈を紛らすを得たり。車窓外の朝鮮風景は赭土、灰土露出し殺風景極まりて、人心を荒廃せしむること甚だし。不愉快を感ずるに至れり。
 平壌に至る頃既に日暮愈深く我々寝台券を有せざるもの数人は寝台外のトランクその他に腰掛けて休息せざるを得ず。車外に出んとすれば、出入り口、通路混みて通過するを得ざらしむ。
 安東の税関吏の冷淡さに万人口を揃えて非難悪口をなす。
 汽車愈進みて愈睡し、遂に安東を過ぎる頃より坐せるままにて2、3時間を転睡するに至る。
 奉天に近づきて眼漸く覚め、空漸く白み始めたり。どことて同じか満洲も亦朝は美しかり。
 茫漠たる曠野に朝日は照り映えている。衆人声を揃えて感嘆す。
 新京にゴールイン。粗削りのスケールの大きなまだ完成せざる、建設途上の新興都市を其処に見た。気味悪き都と私は名付けた。
(中略)
3月20日
 昨日は先輩長谷川さんに連れられて、アルコールを飲みに行った。久しぶりの酩酊でそれこそ前後不覚に陥る一歩手前まで行った。
 今日は始めて満洲らしい寒さで夕方自動車を待つのに冷たい空っ風に震え上がった。
 沼君と帝都キネマで活動を見たがちっとも面白くないので悲観した。何だか活動も学生時代ほどの興味がなくなった。外の事が余りにも私の興味をそそるからかも知れない。
(中略)
3月23日
 新京へ出てからもう6日になる。しかし会社はまだ何とも決めて呉れないので、毎日ぶらぶらしていなければならない。今日は会社のバスで戦蹟や会社の研究所なんかを訪れ、帰途支那人の市場を見て歩いた。
 塵と埃とに塗れた街というより、小道と云った方がよい。そこに露天で或いは薄暗い何だか洞穴の様な道の両側に店を並べている。こんな所で売るのだから安いのであろうと思ったが、言葉も通じぬし、何だか薄気味が悪いので手が出なかった。
(中略)

3月25日
 昨日は日曜日だったので、総務部長以下の課長連中と面会があった。そしてその後で勤務地、所属課が決定したのである。俺はひそかに希望し、期待していた調度課勤務と決定した。先輩長谷川氏が居られるので何かと便宜だから、外の課に廻されるよりは此の課に行きたかったのである。しかし何だかあまり人を頼り過ぎて自主独立の覚悟を失うは自分を毒することだから自分ながら警戒すべき事だと考える。
 沼君が倒流水鉱山(熱河省)へ決定したので、壮行会をやるというので長谷川さんを引っ張り出し飲む。すっかり酔っ払って夜は苦しいこと夥しい。もう酒なんか飲むまいと深く肝に命じた。
 おかげで今日は各課長、部長の講和があったのであるが眠くたくて欠伸ばかりが出て仕方がなかった。つくづく自戒すべき事なりと思わざるを得ない。もしこれを度重ねれば必ずや身体を壊して再び立つ能わざるに至らしめるであろうからである。
 6時過ぎ寮に帰って見ると家からの手紙が来ていた。妹の手紙で大したことは書いていない。大陸的なルーズに陥るなかれとは盖し名言だ。心すべき事と思う。
 
3月26日
 初出勤の日。調度係主任石原紫朗氏に会って、色々な事務に就いて、その他打ち解けたお話を伺った。その後長谷川さんの所の仕事の手伝いをする事にきまり、早速帳簿付け等をなす。仕事をするのが面白いので一生懸命やった。それでも新米の事とて記入するのが間違いはしないかとひやひやした。そして電話だけは苦手だ。
 5時頃になって仕事を片付け長谷川さん、沼君と一緒に映画を見に行き、続いておでんやで酒とおでんとご飯を摂る。酒が何だかいやで堪らなかったので、なるべく飲まぬ様にした。次いで新京会館に行ってダンスを見た。ネオンライトに映し出された色とりどりのドレスを着た踊り子たちの哀れな姿を見ると何だか哀感に襲われるのであった。
 それが済むと又おでん屋に入る。もう酒は嫌でちびりちびり唇をしたす程度で止めた。だから少しも酔いはしなかったし、自分もよかったと思っている。

3月28日
 昨日沼君が倒流水に赴任するについて壮行会を行なった。新京一と云われる銀パレスから野末のカフェーまで歩き廻って、深更に至ってふらふらする足に鞭打ってどうかこうか自動車で東光寮に帰った。
 床に就くや酔いがぐっと頭に来て落ちる様に眠ってしまった。
 翌日の今日は朝起きると頭が痛くてむかむかする、おまけに腹具合も良くない。これでも会社に出なくてはならないかと思うとうんざりする。朝食を摂りに食堂へ行くにも足がふらふらして何だか船に乗っているみたいな気持ちになった。
 それでも味噌汁を啜るとどうやら気持もよくなった。
 会社へ行っても何だか頭がぼーっとして意識を分明でない。これだけはどうにも出来ない気持であった。おかげで屡間違えをしでかす。その上今日は恐ろしく仕事が多くてやってもやっても後から後から仕事が出来て全く伸びてしまった。それでも頑張って漸く6時過ぎに片付けた。大抵の人はもう帰っていた。
 これだけの仕事をやってのけた後は流石に何だか嬉しい。
 新京に珍しい雨が降った。恐るべき胡沙が吹く風につれ一面に新京の空を覆っていたと見るや、まもなく雨が降り出したのであった。とにかく満洲の風のすさまじいのには驚いた。
 何処からも便りがない。沼もまだ帰らぬ。ほんとに淋しい晩だ。

3月29日
 沼君は同行の社員たちと賑やかに熱河に旅立った。
仕事があるので、会社の入口で別れた。幸運を祈るや切なり。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼とはほんとに十日間の一期一会だった。
文通もしたかどうか憶えてない。貰った手紙もない。日記にも記載がない。
しかし何故か今気になって仕方がない。ひょっとしたら私が本社に残り、彼が辺境に地に追いやられたという運命の差を、心の底で引け目に感じているのかも知れない。

彼の赴任した熱河省は当時でも治安状況の一番悪い地域であった。半ば彼が希望して赴任したと記憶しているのだが、それは彼の熊本男児としての矜持がさせたものと思っている。
私以上に根性の座った快男子だった。勇んで逆境に赴く気概を持っていた。
彼も当然兵役があった筈だが、どのようにしたのだろうか。

しかし戦後60年以上経っても彼の消息は分からない。私もあらゆる機会を利用して尋ね回ったが知る人はなかった。
学校の消息欄にも行方不明者として名前だけが載せられている。
学校に届けられた住所も下宿先が載ってるだけで、その下宿も随分前から所在不明である。只本籍が熊本県とだけある。これだけでは捜し様が無いのである。
(写真は彼から記念に貰ったと思われる彼の水泳写真ー彼は水泳部だった)Numa

|

« 戦前青年の視点 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(16) »

コメント

祖父が熱河の鉱山(特殊鉄鋼)に勤めていたと聞いたことがありその関係からこのブログを見つけました。(人間の条件などを読んで祖父がどのような仕事をしてたのか正直怖い気持ちもあるのですが)中国に長く住んでるのもあり、満州の証言ブログなどを見ると読んでいます。

投稿: | 2016年1月24日 (日) 23時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/10707816

この記事へのトラックバック一覧です: 忘れ得ぬ人々(15):

« 戦前青年の視点 | トップページ | 忘れ得ぬ人々(16) »