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2006年6月 3日 (土)

終戦、桂林から鹿児島まで

1945年2月14日に我が部隊(独立自動車第31大隊)は桂林南方30km周家村に駐屯し、陵豊方面への輸送業務に従事と部隊陣中日誌にはある。
私の隊(材料廠)は2隊に分かれ、1隊は本部と同行し、1隊は部隊最後尾を前進していたので、周家村に入ったのは2月下旬だったと思う。
3月に軍命により、アルコール燃料製造のための要員教育に私以下2名(中井技術伍長、安藤上等兵)、柳州の軍貨物廠に出向き2週間の集中講義を受ける。
直ちに、指導に基づき甘藷や焼酎など材料収集に当たったが、焼酎以外は当面の間には合わないと判断し、焼酎の収集に全部隊を挙げて努力する。その都合上市場のある会稽村が工場適地と見て、中井伍長を長とする集成1ヶ小隊を編成,同地に駐留せしめた。
工場設備は金谷一等兵などベテラン技術兵の昼夜を分たぬ努力で完成。直ちに稼働に掛かる。この間の日時は記録がなく不明。
方面軍が5月7日に反転を開始しているので、4月初めには工場稼働は開始したと推定できる。
同時的にアルコール用キャブレータの制作、取り付け,試運転を実施し、その成功を見て、路上運転を始めたのだが、馬力不足で行詰まる。
桂林駅に放置されてあったトロッコ利用を思いつき、トロッコの車輪を自動車の車輪ハブに取り付け,鉄路幅員に合わせるなどして、鉄路利用を始める。
夜間のみの運転だが、1トラックでトロッコ10台を牽引して、一日5〜10トラック輸送を実行、多大の成果を挙げる。
軍司令官の賞詞をいただく。が、7月中旬反転命令下り、大隊は周家村、会稽村を撤収、7月20日〜23日に武昌に向かって出発。
尚反転の報道は中国軍にはよく知れ渡っていたとみえ、6,7月には情勢極めて悪く,焼酎の集荷も難しくなった。
6月には会稽村で大規模の襲撃をは受けたりして、本隊の救援を要したこともあった。戦死者1名を出した。
8月4日大隊本部は湖南省祁陽(張家舗)に到着、駐留の間8月15日戦争終結。
17日各隊長集合の上、終戦の命令受領。
昼夜兼行にて、敵を排除しながら、武昌に向かう様指示を受ける。
8月22日長沙に大隊が到着すると同時に武装を逐次解除される。自動車、自動火器、弾薬は殆ど押収される。
8月30日徒歩にて長沙を出発、取りあえず岳州に向かう。
9月2日大隊本部賀勝橋に入り、当地で抑留生活に入る。
1週間遅れて到着した我が隊は、約4km南方の民家に抑留されることとなる。
10月1日完全武装解除を受ける。但し中共軍の動き活発なため、各隊数丁づつの小銃弾薬は携帯を許される。
食料の配給は米一人宛一日300g、副食物は自給。
1946年3月崇陽方面(150km南方)の道路河川の改修を下命、各隊から1ヶ小隊づつ徴集、集成中隊長として現地に向かう。
4月19日内地帰還命令が下り、作業を中止して、昼夜兼行で帰隊、即日大隊本部から逐次武昌に向け出発。
我が隊は4月29日賀勝橋を出発。
4月29日大隊本部武昌発、揚子江を小舟に分乗して下る。
5月3日我が隊武昌着、6日武昌発。
5月11日大隊本部南京上陸。13日鉄路上海へ。15日上海到着収容所に入る。
5月22日我が隊南京上陸、私は喀血病臥す(肺結核と診断さる)。担架に乗せられての行動となる。
5月24日我が隊上海到着、収容所に入る。
6月1日上海港発、武装なき駆逐艦にて帰国の途につく。
6月6日鹿児島港到着、検疫、市内に一泊。
6月7日専用列車にて西鹿児島駅出発。帰郷の途に就く。

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コメント

 はじめまして、並木と申します。
4月に父が他界し、遺品の整理をしておりましたら、独立自動車第31大隊、
第一中隊に所属していた資料が出てまいり、この部隊の事を、調べてここにたどり着きました。所属中隊が違うので、父の事をご存じでしたら、幸いです。
独立自動車三一大隊第一中隊陸軍軍曹
並木茂重、中隊長は陸軍中尉小林六郎です。
語り継ぐに書かれている内容から、ほぼ
間違いないかと思い、このコメントの欄に
書きました。
ご連絡でも、頂ければ幸いです。

投稿: 並木 茂雄 | 2008年6月14日 (土) 12時44分

私のブロッグ”終戦、桂林から鹿児島まで”を見て頂いた由、有り難うございます。
お父上の事は名前は承った気がしますが、実際に面識があったとは思われません。
ご存知かとも思いますが、自動車大隊というのは兵器、燃料、弾薬,糧秣などの輸送を任務とする部隊の事ですので、
一個中隊約230〜250のトラックを保持して,仕事をしています。(大隊では千台を超えています)
しかし実際の輸送業務は分隊単位(4、5台)で行動することが多く、ご尊父(階級から見て恐らく分隊長だと思います)のような下士官を中心にして行動して居ります。
この大隊はほとんど軍又は方面軍に所属し、後方の自動車廠や貨物廠から物資を預かり,前線の指定された部隊に送り届ける役割を担いました。(詳しいことは私のホームページhttp://homepage3.nifty.com/hatukaiti-viefo/の中の”私の軍隊生活”を読まれればこの大隊の作戦行動概要が分かると思います)

中隊長の小林六郎中尉は私の一期先輩の友人でして、満洲時代には同じ官舎の一室で暮らしていました。もっとも当時は彼は部隊副官でしたが、中支作戦が始まる直前第1中隊長に転任したのです。
人情味豊かな良い人間でした。(このブロッグ2006.10.7”忘れ得ぬ人々−26”に彼のこと記載しています)
作戦中は部隊の行動範囲は何百キロにも及びますから会うことも話すこともありません。
どこにいるかもわからないくらいです。自動車の行動半径が大きいのだから仕方がありません。
戦争が終わって、私が東京にいた頃,食料に困って千葉に在住している彼に助けを求めに伺ったことがあります。
裕福な農家の長男でしたから随分歓待された想い出があります。もう20年も前に亡くなりましたが。
その節奥様から丁重な御手紙をいただきました。
以上あまり参考にはならないかとも思われますが、同じ部隊だったということは、ある期間同じ運命を辿ったことですから、因縁は必ずしも浅くはないと思います。ご尊父について当時の事何でもご存知ならばお知らせくださると幸甚です。

投稿: sinoman | 2008年6月15日 (日) 19時14分

 早々に有難うございます。
実家から持ってきた遺品が少ないので、
百ヶ日の法事に成田に行きますので、
他の資料も探してみます。

判っている範囲での当時の事を書きます。

父は、第一補充兵として昭和15年9月5日千葉連隊区に応招。

16年5月1日に東部17部隊に入隊、
第二中隊に編入16年7月24日
独立自動車第31大隊に転属
第一中隊に編入8月10日神戸港出発
13日釜山上陸、16日鮮満国境通過、
18日満州国東安省密山県虎林着、
25日同県斐徳着、16年11月一等兵
17年7月上等兵、18年1月兵長、
18年6月伍長、独立自動車第三十一大隊附き、19年4月7日華中に転用のため、斐徳出発、15日蕪湖着、25日揚子江を
のぼる、26日荻港、28日安慶、30日
馬当鎮、7月4日太平橋着、8月3日
長沙着、約一ヶ月駐屯、26日長沙出発、
9月1日衝山着、9月3日上田沖に後退して、ここで約三ヶ月駐屯、稲刈り作業多し。
11月15日上田沖発、12月17日零陵
通過、栄養失調者多し、

20年3月中華民国広西省桂林県良豊郷周家村にて、マラリア発病、

20年8月9日、湖南省零陵県長頭北方
一キロ地点にて、敵襲を受け、右下脛軟部盲菅銃創を受ける。

8月18日停戦協定を知る。
9月14日賀勝橋に至り、約7ヶ月の捕虜生活に入る。
昭和21年4月近々出発の命下る由。
19日、賀勝橋を発ち、帰還の途につく。
25日東武昌着、ジャンク船にて揚子江を
下る。5月10日南京着、14日汽車にて
南京を発つ、15日上海着、競馬場横の
収容所に入る。
31日駆逐艦に上海を発つ、河口にて一泊
6月1日上海河口発、3日鹿児島港沖着、
6日鹿児島港上陸、7日汽車にて鹿児島駅発、9日品川駅着、復員。

呂第5861部隊(独立自動車第三十一大隊)ですので、戦友会の会報で、5861会報と言う物が有ります。
昭和56年度版で、創立30周年です。
26年の6月に発足しました。
ほとんどの方が他界されて、現在どうなっているのか、判りません。
当時の会員名簿も有りますので、次回にでも書き込み出来ればです。

お知らせ有難う御座いました。

書き込みながら、父のノートを見ておりましたら、第一中隊の編成表が見つかりました、なにせ古い物で判別不能の箇所も幾つかありますが、写真を撮り拡大して見れば
なんとかなりそうです。

中隊長の小林六郎氏は、八日市場出身、
父は、印旛郡遠山村三里塚(現在の千葉県成田市三里塚)出身です。

投稿: 並木 茂雄 | 2008年6月15日 (日) 23時48分

昨夜の続きになります。
改めて、お書きになったホームページを
拝見させていただきました。
 父の兵隊時代の満州、華中での様子が
想像出来ます。
 父が恩給の申請の参考資料にしました
同年兵の方、村上 米信氏の資料が有ります。
 同じ中隊の第3小隊第12分隊長 軍曹
村上 米信氏の恩給申請の下書きの履歴書のコピーです。それと村上氏の書かれた、生と死は紙一重、と言う題名の短文が5861会報に挟まって入って居りました。
これは、原文を近々書き込み致します。

 後、父の負傷の記録、
中隊長 小林 六郎氏の書かれた現認証明書、マラリア発病の事實証明書、これには、小林中尉と軍医(31大隊附軍医少尉
山本 漸氏の名前と捺印が有りました。

村上 米信氏は、平成7年10月4日に
他界されて居ります。
 父は、大正9年9月生まれ、村上氏は、
大正9年4月生まれ、

拡大して見た中隊の編成表によれば、父は
収容班長となっておりました。
 拡大しても判別不能の所が幾つか有りますが、大分は、理解できました。

成田へ行けば、又新しく見つかる物も
あるかと、です。

 
   

投稿: 並木 茂雄 | 2008年6月16日 (月) 23時21分

父と同年兵の村上米信氏の手記を載せます。

生と死は紙一重   村上 米信

平成2年7月同じ思いの人、数人と5861部隊が居た斐徳とその周辺が
どのように変わったかと、訪ねる旅行の途中、列車は林口駅に停車した。
 その駅は、自分にとって47年前、死が生と分岐した出来事があった
思い出の場所だ。国家へのご奉公は、我が死をもってと、思い込まされて
いた若い時だったので、南方戦線にある部隊に転属したいと思っていた。
 そして
昭和18年8月20日頃、桂木斯に居た工兵第24連隊が南方に移動する
事になった。その部隊に5861部隊からも、転属兵を出すように要請が
あった話を聞き知った。自分は志願しても行きたかったので、
中隊事務室に行き、人事係りの加藤曹長に是が非でも自分に行かせてくれ
と頼んだ。
その時、曹長は、お前は創立当時から居るのだから、他の者に行かせろと、
なかなか承知しないのです。 それでも自分は若いし、独身者なので
戦死したって、泣いて困る妻子も無いと、無理矢理に頼み込んで、
行く事にして貰った。

第5861部隊からは、第1中隊からの自分と4中隊からの面家上等兵の
2人だった。
8月23日に出発する命令を受けて、自分が陸軍伍長で上級者だったので、
各部隊からの、転属兵20数名を引率して斐徳駅を出発して、林口駅に
到着したのは、夜の7時頃だと思います。

 この工兵24連隊は、フィリピンに着くと任務も名称も変わって
敵前上陸用船舶部隊の暁部隊になることは聞いていた。

 ここで次に出る汽車の待ち時間は、2時間半ばかりあったので、どうせ
戦地に行けばこの人達のなかに、命がなくなる者も出るかも知れないと思
って、自分は2時間の大休止にして自由行動を許した。
乗車時間までには、余裕があるようにはしてあったが、申し渡しした集合
時間になっても1名が帰って来ない。どんな事で遅れているのか、許可し
たのは自分だ。
 少々心配になって待って居るところへ帰って来た。無事だったのか
安心すると同時にこれが怒りとなって、その兵に自分はいきなりビンタを
2,3発お見舞いした。面家上等兵も、自分の気持ちを察して、班長殿に
こんなに心配させる。貴様は生意気だと、これまたビンタの重ね打ちを
くらわせる。

とにかく、そのうち乗車時間が迫った。 皆居る。
出発準備の号令をかけて、ふと気づくと、いつの間にか、じぶんの持ち物、
員数である極秘とされている99式防毒面が無かった。
さあ、大変だ。最も新しい軍事機密となる防毒面の紛失だ。
 外国のスパイの手に渡ったら、理由はともあれ、軍規の厳しい関東軍は
どうするか、頭の中は、かっかして、あいつだろう、あいつにやられた。
 何時やったのか、証拠もない。早く見付かってくれと思うことで、
いっぱいでした。
 だが列車は、翌朝には桂木斯駅に到着する。それから転属先の隊に行か
なくてはならない、桂木斯に着く迄に、自分の知らない場所に有る事を
祈りつつ、駅事務所に行き、事情を話して、探して頂くように、お願いし
旦捜した結果の防毒面の有無も、途中の停車駅に連絡も重ねてお願いして
とにかく行かなければならずに出発した。

此処まで来て、国に命まで捧げて、尽くそうと危険な場所を志願しながら
それとは反対に、もしかすると国の為にならない事が、自分の意志ではな
いが身の回りにおきつつある。頭はその心配でいっぱいでした。
 停車駅で事務室に駆け込むが、無しの一言でした。最後の桂木斯駅に
望みを託したが駄目でした。
自分には引率の兵を隊に渡す責任がある。翌朝、目的の部隊に到着して
担任の将校に引き継いだ後、自分はこの度の引率中に、防毒面を紛失して
現在持っていない事を報告した。

 それから、その部隊に転属したのだから、将校に指示された下士官室に
行ってはいたが、自分ではその為の、次の命令が、どのような形になって
下されるか、見当もつかず全く生きた気持ちはなかった。どんな命令でも
仕方がないと一応の決心はついて居ましたが、それでも心配で心配で、た
まりません。その後は夕方になっても命令は出ずに、そのままの状態でし
た。これでは軍機漏洩と同じになると思いこんで、この責任の為に自決し
ようとして2,3日かかって気持ちの整理をした。

 下士官室には、他の下士官の軍刀が有った。軍人らしくその軍刀でと
一時思ったが、これから戦場に持っていく物に、汚れを残しては、その人
に気の毒となり止めて、翌朝、便所に行き、ぶら下がろうと、下士官室か
ら電気コードを持ち出して、現場でいよいよ生命とのお別れの準備をして
いる時に、起床ラッパが鳴り響いて、大勢があちら、こちらと走り回るよ
うになって、実行のタイミングがずれて失敗となりました。
 当日の午後になって将校が来て、この件ではもしかすると軍法会議にな
るかもしれないので我が隊への転属編入は見送りになり、明日は原隊復帰
の命令が出ると言われた。

 通告を受けた原隊よりは、川鍋上等兵が迎えに来て、これで転属は無し
となって落着した。原隊復帰の翌日は、創立記念日だったが、自分には防
毒面の事は済んでいない。
 軍法会議の可能性も含んでいるので、岡倉副官の取り調べは2日ぐらい
続いたと思います。3、4日、は下士官室に潜って謹慎していたが、此処
でも生きた気持ちでなく、皆から村上は自殺の気有るぞ、警戒しなくては
と、思われて居ました。4,5日すると下士官が少ないので、お前も衛兵
につくように言われて、衛兵司令の勤務についた。

輸送司令部から連絡があって、

防毒面を発見したので、処分の方は自隊でするようにと通告があった。
 隊処分は10日の謹慎でしたが、既に一週間くらい実行していたので
後は3日ですんだ。防毒面が発見されたので、軽い処分で終わったが、
防毒面の事件もなく、何事もない転属のままだったら、 その後はどう
なったか?

24連隊に転属した面家上等兵、自分の代わりとして行った松本伍長他、
あの20数名も19年2月6日の朝、乗船がボルネオ沖で、敵の魚雷攻撃
を受けて撃沈されて、船長、部隊長はじめ皆が戦死したときに一緒に亡く
なられた。生き残った方が数名居られたが、それは甲板で衛兵勤務中で海
に投げ出された為だと後でその時の生存者から聞くことが出来た。

自分は防毒面の事があって、結果的には命拾いしたようになるが、
あの時は、死の方角に行っては、生の方角に引き戻され、又、行っては
戻される。死と生の中間に居て、どっちに行っても、不思議ではない、
生と死の紙一重をさまよった事になる。

亡き父の事を遺品の兵隊に行っていた時の
部隊名を知り調べ始めたら、自分の知らない世界、親父の青春、戦争、たくさんの事が判ってきた。
あまりにも私は、自分の親の事を知らなかった。このプログやホームページを見て
ずいぶんいろいろな事が判りました。

投稿: 並木 茂雄 | 2008年6月21日 (土) 00時03分

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