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2006年6月14日 (水)

忘れ得ぬ人々(9)

宮口克己君

彼とは生涯8ヶ月の付き合いしかない。たまたま同じ会社の同じ課で机を並べたという、偶然があった。
この課は、調度課という外部との折衝の上に成り立ち、一人一人が会社の必要とする物資を購入する立場にあって、殆ど独断で商品などの選択購入決定権を行使していた。
もちろん課長の承認を得るわけだが、拒否されることは先ず無い。
鉱山会社だから、調達品目は大は当時でも何百万もする採金船から、米1俵、鉛筆1本まである。遠い辺境の鉱山は生活物資はなんでも必要とした。
彼の担当は運搬具関係だったか、食料品だったかなと思うがよく憶えていない。私は理化学器械例えばトランシットとか顕微鏡、ビーカー、フラスコそれに文房具もなどであった。
タイピスト4名、受付嬢1名の女子事務員以外は男子20名ぐらいいたかな。このうち3割は運送関係だったから、調達担当は10名そこそこという状況だった。従って仕事は最初から猛烈に忙しかった。
商品知識の全然ない私たち新米は一回聞いたらそれで終わりで、何度も聞いたりしたら怒鳴られる。教えている閑など先輩たちにもないわけだ。

同課に配属になった新米5名のうち大学出3名、専門学校出2名ということで、一番若い2名が彼と私だった。経験も浅いし、学力も劣るし、戦々恐々の毎日が続いた。同病相哀れむで、二人の仲は急速によくなった。
入社当時は朝から晩まで行動一緒が当分続いた。
彼の同級生が隣のビルに居るというので、連れて行かれて、たまたまその男が私の郷里の食堂の息子で一級上だった山本さんと分かり、小学校以来の再見で驚く。何かあるとよく行き来したものだ。

仕事になれて夏になって、残業などというものの無い時代だから、8時間の労働時間では、時間が余りすぎた。
3時に夜が明けて、9時に暗くなる。勤務時間は午前7時から午後4時までだから、朝はテニス、午後は野球や卓球としっかり運動が出来た。もちろん映画やもろもろの遊びにも忙しかった。夢中で青春を謳歌した。

このころ(夏)は何時も彼と一緒だったかどうかよく憶えていない。
でも二人でハルビンに行こうという事になって一泊旅行をした。二人だけだったのだから、まだ引っ付きもっ付きが続いていたのだろう。
キタイスカヤはまだ完全なロシヤ人の街だった。レストランへ入ってもモデルン劇場に入っても、チュウリン百貨店でもロシヤ語でないと通じない。それでも二人は心臓強く渡り歩いた。
スンガリー(松花江)河畔はロシア人の家族の水遊びでふくれ返っていた。現地人や日本人にはこんな汚い河での水遊びなどの風習はなかった。
バレエなるものを見たのはこの時が始めてだった。なにがなんだか分かるわけが無いのだが、驚きあきれて見たのだが、先方こそあきれた事だろう。
ロシア人のヌードショーも夜宿の案内で見に行ったが、日本には無かったショーだけに、まだ清純無垢のわれわれにはいささかどぎつ過ぎた経験だった。

この前後に徴兵検査があり、それぞれ年末には帰国して軍隊に入る事が決まった。
10月11月になると昼の時間は急速に短くなり、会社の勤務に追われる様になった。それでもビルの横の空き地にスケートリンクが特設され、休憩時間などには練習に励んだ。一緒に大同公園の池に暗くなってから出かけて滑ったりしたもんだ。児玉公園(本格的な公営リンクがあった)にも遠征して大使館の連中と仲良くなり、パーティに招待してもらったりしたことがある。
12月に入ると送別会はひっきりなしに行われた。もう内地への帰心矢の如しで足が地につかない感じだった。
私は20日ごろ新京を去ったが、二人が何時わかれたか記憶に無い。

80年も生きると、8ヶ月はほんの僅かな期間だ。こんなに鮮明に記憶が残っているのは、畢竟共にハルビンに遊んだ思い出があるからである。
どうしても忘れ得ぬ思い出の人の中に入れたい。
(写真左、前の男、中パン食い競走一番左が宮口君、左現在のニッケビル)
Miyaguti_1
UndokaiNikke

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