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2006年6月 7日 (水)

忘れ得ぬ人々(3)

長谷川啓三さん

昭和15年3月新京の満洲鉱山株式会社に一緒に入社した沼静雄君と二人は、まもなく学校の8年先輩である旨の自己紹介を受けて長谷川さんと面会した。事前に承知していて、待ち構えていた感じだった。
数日後担当課が決まり、私は長谷川さんの引きで、調度課に所属する事になった。沼君は現地でいいと熱河省の倒流水という鉱業所に決まり、数日後に赴任した。
住まいは東光寮という3階建ての横長の大きなマンションで、独身寮だから部屋数は多かった。
当初は2名1部屋だったが、同部屋の壇上君がまもなく現地赴任したので、あとはずっと一人暮らしであった。
寮は満洲重工業の社員と共同利用で、学校一年先輩の重工業社員市橋侃二さんもこの寮に居られた。

幸運な事にそばに長谷川さんがついているので、私の仕事は勉強と同時に進行すると云った具合で、仕事にも慣れたが遊びの方も毎日毎晩の指導で上達した訳である。
忘れる事が出来ないのは、長谷川さんの一番の仲間高橋さんが、同じ課の同僚で立教出身のボクシング選手経歴の持ち主であったことだ。
鉱山課には相撲部出身の巨漢が二人もいるということで、よく夜の街で起きるごたごたもどこ吹く風の趣があった。
ダンスホールなどでも、喧嘩が起きると、買って出る勢いで、相手を跳ね飛ばし投げ飛ばし、痛快な締めくくりとなったことを目の当たりしたことが2、3度あった。パンチの凄さはこの時始めて経験したことだった。
満洲鉱山といえば矢張り新京では著名な存在だった。
まだ当時は日本女性の進出は遅れていて、男女比は10対1などといわれていた。
だからどうしても盛り場は荒れた。警察も日本人には無関心を装った感じがこく、喧嘩などで捕まっても翌日には無罪放免と云った具合だった。現に長谷川先輩も一晩ブタ箱暮らしをしたことがあった。比較的に冷静で喧嘩には加わらなくて調停役の立場だったが、それでもしょっぴかれたことがあったわけである。

長谷川さんは学校時代野球部のキャプテンとして全国大会で準優勝したことがあり、満山チームも彼の主導でかなり強かった。夏は日が長いのでダブルヘッダーが楽に出来た。社内対抗はもちろん外部とも良く対戦した。
会社全体が新興の意気に燃えていた。
私も小学校以来の野球に参加して、社内対抗、寮内対抗にいずれも優勝して美酒に酔った経験がある。

この年12月私は入営のため休職し、1月関東軍に入隊した。
昭和17年3月東京にて幹部候補生教育終了と同時に見習士官に任官、原隊復帰の帰路4月7日新京に立ち寄り、先輩同僚に久濶を叙し、その晩長谷川さんの社宅に泊めていただいた。当時新婚ほやほやの家庭で、お世話になったはいいが、隣室が気になって眠れなかった思い出がある。

昭和45年(1970)何十年振りかの長谷川さんからの年賀状が勤め先宛に来ていた。早速礼状と無沙汰のお詫びを書く。
1972年6月3日長谷川さんが来広、久しぶりの対面に感激する。注文に応じて市内を遊覧する。
同年の10月13日再度来広され、呉の海上総監部や旧潜水学校跡、第6号潜水艇記念碑などを案内する。
長谷川さんの叔父さんが同艇の副長だった由で、毎年の如く記念祭があるのだそうな。潜水艇現物を見たいという事だったので、あちこち捜した訳だった。遂に見つけられなかったが、後日調査したところ江田島の第1術科学校にあることがわかった。
1975年10月27日満山会に出席し記念写真をわざわざ送付いただいた。
1981年4月14日呉での記念祭の帰路立ち寄られる。流れ川で慰労宴を開いたのだが、気分が悪くなり途中で切り上げて宿に案内する。
1983年7月21日奥さんより昨日死去したとの知らせを頂戴し、悔や状などはすぐ送ったが遂に永世の別れとなった。
(写真は左が音戸での長谷川さん、中が満山社内野球優勝、右は第6号潜水艇)Hasegawa_1
Yakyu_1
Sensuitei

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