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2006年6月10日 (土)

忘れ得ぬ人々(6)

深山克己君

横山君を除いて、付き合いの一番永かった友達である。他の友達は知り合っても、永い時は十年以上も消息が無いのが普通で、彼の様にひょいひょいと時を嫌わず顔前に現れ、お茶を呑みながら下らぬ話に笑い興じた友は他に無い。

戦後十数年学校のの先輩が始めた石油販売の代理人みたいな事から,同時に松阪産業という土建屋さんの手伝いなど、私から見ると全くえたいの知れない仕事をやって、糊口をしのいでいたようだ。いや糊口と言っては失礼で、もとは廣島特産の針屋さんでも大手にうちで、戦後つぶれても所有不動産は私などの及ぶ所ではないから,その収入でゆうゆう暮らしていたに違いない。廣島一中時代からよく遊んだ話は耳にタコが出来る程聞かされたものだ。
学校時代も別誂えの制服でのし歩いていたやんちゃな連中のひとりで、とても私ごときがつき合うような男ではなかった。戦争のおかげで平等の付き合いが出来る様になって、軽口も叩ける間になったというわけだ。

しかし昔を誇るようなことはからきしなく、物やらかな口調で、人をほめる事が上手で、横山君は特に気に入っていたようだ。相談相手ナンバーワンといってよかった。私との関係はあくまでも横山君を介しての関係で、時に会話の真意確認の為に,或は取り次ぎ伝言のために私が必要なことがたまにあっただけである。
中電の幹部とは極めて懇意のようで良くゴルフなどで交友を深めていた。
学校同期の松本勳君とは公私にわたって特に昵懇にしていた。

ズバリ彼の人柄をいえば愛情のかたまりといえるかもしれない。友を愛し,妻を愛し,子や孫を愛し、凡そ裏切る事は無かった。彼の口から人が傷付くような言葉が出た事を知らない。
よくしゃべる方だから、何か表現のし損ないがあるはずのもんだが、それが感ぜられない。万事善意の気持ちから発せられることがよくわかった。

70歳頃から脚部の血管の流れが悪くなり何度も外科手術を受けた。しかしよくなることなくだんだんひどくなって歩行困難に陥った。同窓会にも気力を振り絞って出て来たが、奥さんの手を借りる事が多かった。晩年にはとうとう家から出る事も容易でなくなった。弱みを見せない語り口はむしろ痛々しさを感じさせた。
気遣いの激しい性格で、極力私たちに心配を掛けない様努力を惜しまなかった。だから電話での話はまるで健康者が語るような口ぶりだった。わたしたちはそれに騙されたような気が今思えばする程だ。

生前元気な時の付き合いは限りなく印象深い。思い出がおおすぎてとても言葉では言い尽くせない。
逆境に沈んだ経験の多い私には彼の温容といたわりは特に支えになった。いつも明日への活力となった様に思う。
一般的な激励とか叱咤とかいったものとは全然違う,一緒にくるしみを受け止める性質のいたわりだった。

永い闘病の末、平成13年10月2日私たちの気づかぬ間に亡くなった。知らせを聞いてすぐ悔やみに出かけ棺に収まったばかりの彼の温顔を拝んだ。葬式は丁度同窓会東京大会の日に重なり,私は欠席の予定だったから幸い葬儀の末席に列らなることが出来たが,横山君はそれもできなかった。
今生きていて一番寂しいのはこの友を失った事のような気がしてならない。Miyama1
Miyama2
Miyamayokoyama

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