« 忘れ得ぬ人々(6) | トップページ | 地震 »

2006年6月11日 (日)

忘れ得ぬ人々(7)

述本主計君
私の親友、水田君、深山君と彼は奇しくも皆廣島一中の同級生である。
山口の学校の水泳部にいた事は在校時から知っていた。同期に高原君という全国的にも著名なスイマーがいたので目立たなかったがおおらかな、好感の持てる選手だった。プールが下宿の近くにあったので、ときどき休日の大会には見に出かけた事もある。いつのことか覚えていないが一中の水泳部の歌とかで”カッパやめらりょうか”という歌詞の入った歌をよく楽しそうに披露してくれたことが記憶にある。私が習い覚えて他の席で歌ったりしたもんだ。
学校時代でなくひょっとしたら軍隊での事かもしれない。
彼は就職先が新京の満洲電業本社(康徳会館=現在の長春市役所)で、奇しくも私の勤め先満洲鉱山の隣のビルだった。だから格別用事がなくてもばったり会う事があった。徴兵検査の結果同じ関東軍の同じ自動車第3聯隊に入隊、しかも同じ第2中隊で2班と3班に配属となり、朝に夕に顔を合わせ、声を聞いて過ごすことになった。
二人とも動作が軍人らしくなく、よく鉄拳制裁をくらっていて、直ぐ隣の班だからその模様がよく聞こえ、同病相哀れむの例え通り急速に仲良しになった。
幸に二人とも甲種幹部候補生に合格、東京遊学も成し遂げた。
会える時は兄弟以上の付き合いをしたと思う。初年兵のとき営内靴を盗られて、零下30度の戸外を裸足で歩かねばならず困って居るとき、彼の親戚の1年先輩の河上さん(後の岩国市長)(別の中隊だったが)に頼んでくれて都合付けてもらった事がある。
将校になってから所属部隊が別れたので、滅多に会う事はなかったが、昭和18年ガス掛将校の教育でチチハルまで行き、2ヶ月間訓練を受けたとき同じくガス掛将校だった彼と同道したことは、不思議な縁だったと思う以外に無い。往路ハルビンで同じく同級生の土倉君(満洲電業ハルビン支店勤務)の部屋に泊まり込んだりしたことは忘れる事ができない。

戦後は外地で働いた二人はいずれもその職場を失い、落剥して互いの消息は知る由もなかったが、ある時岩国でばったり遭遇、聞けば廣島の家が原爆でなくなったので、津田の親戚に引き上げ、やっと岩国米軍の通訳の仕事を得て、こちらに来たのだという事だった。幸運にも二人とも生還したのだが、それからの道程は楽ではなかった。
私も爆撃で家を失っていたし、岩国時代はお互い生活に追われて会う事はほとんどなかった。
私が事業をしくじって廣島の横山君を頼って移住し、生活の基盤をようやく得たころ、ひょっこり彼が私を尋ねて来て、進駐軍を今回止める事になり、横山君のところへ世話になりたいからよろしく頼むという。
ちょうどその頃私は横山君の会社をやめ、クリーニング業をやっていた。横山君の援助で始めた仕事だったので、彼とは深く繋がっていたのでよろしい、大歓迎だと早速強く彼を横山君に推薦した。
参謀役の太田久孝君が亡くなった後で、相談相手を失っていた横山君も待ってましたといわんばかりに招き入れた。

後年述本君も古手の社員との間でトラブルがあったのか、二度ばかり相談しに私を訪ねた事があったが、折悪しく事業拡張のため九州方面に長期出張中で彼の願いを聞く事ができなかった。その後ガンに倒れた事を聞き、横山君らと見舞に訪れたが、ガンの事は本人は知らされていないらしく,回復を信じて頑張っていた。
間もなく医者の予言通り推移し県病院を訪れたときは意識朦朧として我々に気づいたかどうか、深山君の提唱でクロレラを用意して持参したのだが時既に遅しの感じであった。
昭和47年6月3日死去したのだが、50台の全く早い、惜しくて悔やまれる最後であった。
交際期間は合計しても極めて短く、思い出した様な出会いばかりだったが、友情の懐の深い信頼の置ける、やはり忘れられない友人であった。Nobemoto

|

« 忘れ得ぬ人々(6) | トップページ | 地震 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/10474448

この記事へのトラックバック一覧です: 忘れ得ぬ人々(7):

« 忘れ得ぬ人々(6) | トップページ | 地震 »