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2006年6月17日 (土)

忘れ得ぬ人々(12)

 村井一郎さん

昔の中学校は5年制だった。私が1年に入学したときには、村井さんは5年生ではるかに大きな怖いお兄さんだった。
4キロ以上ある砂利道の国道を朝な夕な徒歩で、時に一緒に通ったものである。

村井さんのお父さんは小学校の校長だったし、よく目をかけて頂いていたので、先輩という以上に敬愛の情を持って接したつもりであった。
当時は上級生に対する挨拶は軍隊式の挙手の礼だった。
うっかり挙手を怠ったりすると、すぐビンタが飛んで来る時代で、下級生は戦々恐々として通学した。だから4キロの道は流石に長かった。朝はまだ皆急ぎ足だから、滅多に追い越す事はないが、午後の帰り道はよほど怖かった。

途中で待ち伏せして、ビンタをくれる上級生もあったりした。昔も今もこの年代はいじめたり悪さをしたりするのが面白くてたまらないときだから仕方がない。
そこへ行くと、この村井さんは私をかばってくれたりして、その蔭に隠れる様にして通ったものだ。
私の方が村井さんのうちより、5百メートルくらい学校よりだったから、都合が良かった。

村井さんが卒業後慈恵会医大に入られ医者を志して居られる事はうわさで知った。
しかし、戦後になるまで、消息はお互いに分からなかった。

昭和21年6月7日私は戦地から帰還して、廃墟となった我が家を見、外地にあった就職先はなくなり、すぐにも自活の道を模索しなければならなくなった。
東京へ行けば何とかなるだろうと、入京制限の厳しかった東京へ策を弄してもぐりこみ、進駐軍関係の仕事を拾った。

しかし戦地で貰った結核がひどくなり、帰郷せざるを得なくなった。
ところが翌年春、マラリア熱が発生し、すでに開業して居られた村井さんに診てもらってなんとか命を救われた。
結核の治療などに通院しているうちに、俳句をやってみないかと勧められ、同人に入ってぼつぼつ真似事を始めたりした。
村井さんは戦地で軍医として勤務しておられたとき、同じ部隊に俳人の牧村莫愁湖氏がおられ指導を受けられたらしい。村井さんもまだ新米ほやほやの時だったようだ。
しかし治療の合間に熱心に句をひねって居られた。

私は遊んでは居られないので、職探しに奔走して居るとき、恩師の元校長(即ち村井さんの父)が農業会に入る様勧められ、取りあえずそちらに勤務する事になった。
結核もじょじょに良くなり、通院はなくなったが、親交は続く事になった。
昭和26年の句集第1集、28年には第2集を発行された。この間27年に御父君をなくされたが、医業ともども俳句活動も盛んで、新聞等にも数多く掲載されるなど、地元句会の先達となられるに至った。

私が百貨店の経営に携わったとき、社歌と音頭の作詞をお願いし、作曲は恩師の中川先生にお願いして、社員に歌わしたり踊らせたりしたこともあった。

昭和52年本格的な句集「真珠筏」、昭和59年には句集「芽柳」が発刊された。
この頃は私は前記の事業をしくじり、広島に移住していたので、滅多にお目にかかる事は無くなった。しかし村井さんは旧交を忘れず、これらの本を贈呈してくださった。
もともと文学的才能の乏しい私には、俳句などという短い文句の中に自然を読み込むなどという芸当は、まったく無縁の存在でしかなかったので、村井さんの期待は初手から裏切ってばかりだった。

季節季節の挨拶や旅先での吟句などしばしばいただいたけど、理解出来ない事がおおかった。
平成17年の年賀状に
 芽柳に来ぬかも知れぬ 人を待つ
とあったが、訪ねる事のないままに、その年9月7日あの世に先行されてしまった。

住む世界が違いすぎたというか、頼りにならない後輩にさぞかし愛想をつかれたことと恥ずかしい思いでいっぱいである。Murai1
Murai2

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