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2006年6月 1日 (木)

錦帯橋

昨日朝食のとき、今日岩国に行こうやと私が突然言う。家内はいいよと直ちに応ずる。
もっとも先日、4月に岩国の妹らを伴って行った吉野山などの写真を届けるべく焼き増ししていたので、近いうちにとの予感はあっただろうが。
天気はよいし、善は急げということもあった。
公園の菖蒲の花はどうかなと期待していたが、大部分は蕾のままで、あと10日は必要だろう。さつきもぼたんももう終わりで花に見るべきものはない。
客足も従って少なく,公園の噴水も上がっていなかった。
猿回しが客寄せの太鼓を打つも、冷たく素通りするだけの観光のおばさん連中のあとについて、悲しく私もよそ目に通りすぎる。

しかし何時見ても、何処から見ても、錦帯橋は美しい。
3百年の昔、こんな橋を造ってみようと決断した殿様はやはり偉かったと思わざるを得ない。
学識、風流心、そんなに裕福とは思えない小藩主に、財政を超えた文化意識がふつふつと滾っていたに違いないと思うのである。
三代藩主吉川広嘉はこの一事で歴史上に輝いている。Kintaikyo_1
Hiroyosi
Yarikokasimatu

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2006年6月 2日 (金)

懐かしい地図

私は中学生の時、地理の先生にえらく誉められた事がある。
クラスの皆の前で、試験の成績が抜群で、100点ではもったいない、110点つけてもよいぐらいだ。ただ100点以上はないからしかたがないがと。
昔の試験は問題一つについて、知ってる事を記述せよ式の問題で,現在の様な○×式ではなかったから、求める回答以上に書いていたという事である。
地図は生来好きで、日本であろうと外国であろうと、ありさえすれば飽かず眺め暮らす事が多かった。
幼年期には地球地図で太平洋に大きな島が隆起し、日本の国土が突然広がり、いろいろな名前を付けて,山川を表示したり、南洋委任統治の島々も大きな大陸になったりしてと、空想をたくましくしたもんだ。
確かに他の子供と違っていたので、年下の子供以外遊ぶ相手は少なかった。

昨年満洲に行った時、長春の旧ヤマトホテルを見学した際、その売店で新京時代の地図を売ってたので買って来た。
単なる土産のつもりだから、中を改めもしなかった。ただ地図と言われただけで欲しくなったのである。

帰国してちょっと開いてみて、昔の青写真が黄変した様なものなので,見辛くてやはり騙されたかと放っておいた。
最近何かの機会に書物の間から出て来たので、詳しく見てみると、私が住んでいた会社の寮がきちっと載っているのを見て、これはと驚いた。東光寮の名前はないが、満業社宅とちゃんと書いてある。3階建ての大きなマンションで、もちろん食堂喫茶、娯楽室、大浴場がつき、前に野球2試合できるほどのグランドが広々と付属していた。
近所には満山社宅もあり、夏の早朝食事前に通ったテニスコートもちゃんと表示されている。
(満業は満洲重工業、満山は満洲鉱山の略称、東光寮は両社の合同独身者寮)
夏は午前3時には夜が明けるのだから、7時に始まる出勤時間前のひと時、テニスで汗を流したわけである。会社の位置は矢張り表示がしてある大同大街の康徳会館(現長春市役所)の北隣のビル(表示は日本会社とある)である。

6時半迎えに来てくれる会社のバスで出かける。食事は概ね社宅の家庭持ちの先輩の馳走に預かる事が多かった。
昼飯は寮から届けてくれるなど、よその会社は知らないが、新入りの私など大喜びの待遇のよさであった。

先般旅行の際、勤め暮らした会社ビルは遊覧バスの窓から昔ながらの姿を懐かしく眺め,感嘆の声を洩したものだが、毎日寝起きした寮の健在を地図でとはいえ、発見出来てなつかしく嬉しかった。
1940年当時のことだから、もう66年前の地図という事になる。
(付属地図の一番上の真ん中が新京駅、真ん中の道路が大同大街,ロータリーが大同広場、地図の右下角付近に満業社宅と表示されている)SinkyoSinkyo2

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2006年6月 3日 (土)

終戦、桂林から鹿児島まで

1945年2月14日に我が部隊(独立自動車第31大隊)は桂林南方30km周家村に駐屯し、陵豊方面への輸送業務に従事と部隊陣中日誌にはある。
私の隊(材料廠)は2隊に分かれ、1隊は本部と同行し、1隊は部隊最後尾を前進していたので、周家村に入ったのは2月下旬だったと思う。
3月に軍命により、アルコール燃料製造のための要員教育に私以下2名(中井技術伍長、安藤上等兵)、柳州の軍貨物廠に出向き2週間の集中講義を受ける。
直ちに、指導に基づき甘藷や焼酎など材料収集に当たったが、焼酎以外は当面の間には合わないと判断し、焼酎の収集に全部隊を挙げて努力する。その都合上市場のある会稽村が工場適地と見て、中井伍長を長とする集成1ヶ小隊を編成,同地に駐留せしめた。
工場設備は金谷一等兵などベテラン技術兵の昼夜を分たぬ努力で完成。直ちに稼働に掛かる。この間の日時は記録がなく不明。
方面軍が5月7日に反転を開始しているので、4月初めには工場稼働は開始したと推定できる。
同時的にアルコール用キャブレータの制作、取り付け,試運転を実施し、その成功を見て、路上運転を始めたのだが、馬力不足で行詰まる。
桂林駅に放置されてあったトロッコ利用を思いつき、トロッコの車輪を自動車の車輪ハブに取り付け,鉄路幅員に合わせるなどして、鉄路利用を始める。
夜間のみの運転だが、1トラックでトロッコ10台を牽引して、一日5〜10トラック輸送を実行、多大の成果を挙げる。
軍司令官の賞詞をいただく。が、7月中旬反転命令下り、大隊は周家村、会稽村を撤収、7月20日〜23日に武昌に向かって出発。
尚反転の報道は中国軍にはよく知れ渡っていたとみえ、6,7月には情勢極めて悪く,焼酎の集荷も難しくなった。
6月には会稽村で大規模の襲撃をは受けたりして、本隊の救援を要したこともあった。戦死者1名を出した。
8月4日大隊本部は湖南省祁陽(張家舗)に到着、駐留の間8月15日戦争終結。
17日各隊長集合の上、終戦の命令受領。
昼夜兼行にて、敵を排除しながら、武昌に向かう様指示を受ける。
8月22日長沙に大隊が到着すると同時に武装を逐次解除される。自動車、自動火器、弾薬は殆ど押収される。
8月30日徒歩にて長沙を出発、取りあえず岳州に向かう。
9月2日大隊本部賀勝橋に入り、当地で抑留生活に入る。
1週間遅れて到着した我が隊は、約4km南方の民家に抑留されることとなる。
10月1日完全武装解除を受ける。但し中共軍の動き活発なため、各隊数丁づつの小銃弾薬は携帯を許される。
食料の配給は米一人宛一日300g、副食物は自給。
1946年3月崇陽方面(150km南方)の道路河川の改修を下命、各隊から1ヶ小隊づつ徴集、集成中隊長として現地に向かう。
4月19日内地帰還命令が下り、作業を中止して、昼夜兼行で帰隊、即日大隊本部から逐次武昌に向け出発。
我が隊は4月29日賀勝橋を出発。
4月29日大隊本部武昌発、揚子江を小舟に分乗して下る。
5月3日我が隊武昌着、6日武昌発。
5月11日大隊本部南京上陸。13日鉄路上海へ。15日上海到着収容所に入る。
5月22日我が隊南京上陸、私は喀血病臥す(肺結核と診断さる)。担架に乗せられての行動となる。
5月24日我が隊上海到着、収容所に入る。
6月1日上海港発、武装なき駆逐艦にて帰国の途につく。
6月6日鹿児島港到着、検疫、市内に一泊。
6月7日専用列車にて西鹿児島駅出発。帰郷の途に就く。

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2006年6月 4日 (日)

食中毒

昨夜何の食あたりか、吐いたり下げたり、一騒動してしまった。
原因はどうやらもずくのせいらしいということになった。他に生で食ったものがないと言うのが根拠。
もずくと言っても酢で殺してあるし、同じものを食べた家内はなんでもないし、どうも腑に落ちない面も有るのだが。
昨日午後あともう少しで夕食という時間だった。急に気分が悪くなり、これは戻すかなと予感がしたので,便所に入り便槽にかがむ。とたんにゲ、ゲッと吐き始める。昼飯から大分時間がたっているから、殆ど原型を残さぬ黒や赤茶けた食物である。1回で収まったかと思ったが,未だ気分が悪い。又衝動が来る。そしてしばらくして又来る。
最後はぬるぬるした粘液ばかり。
念のため下痢はどうかとしゃがんだが、こちらは健常な便。
とにかくまもなく夜のことだから、なにも食わずに寝込む。
中毒騒ぎは何十年振りであろうか。
夜半午前1時、急にまた吐き気がする。用意していた洗面器に戻す。粘液ばかりで実はない。
そのうち、嘔吐の勢いで、下の方がおかしくなる。
慌てて便所に飛び込む。今度は激しい下痢。20分ぐらいつづく。最後は水みたいな便が出ておしまいになる。
やれやれこれで腹の中は空っぽになった。
たまには腹の中の清掃が出来てよかったかなと、朝起きてやっと元気を取り戻す。
こんなことでも、かなりエネルギーを消耗したのか、重湯を呑んでから又12時近くまでぐっすり眠る。

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2006年6月 5日 (月)

忘れ得ぬ人々(1)


山県孝人さん、生涯を通じて一番忘れ得ぬ人である。
小学校前の時代には、彼の弟の文雄さんが歳は一つ上だが仲良しだった。大きい病気をしたので小学校入学は一緒だった。秀才だったので私はいつも教えられ役だった。だが二年のとき亡くなった。亡くなるということの悲しさがまだよく分からない年頃だった。彼が居なくなっても、国道を挟んですぐ斜め向かいの彼のお宅に、相変わらず通った。
目当ては大量の蔵書だった。
奥さん(彼の母)や女中さんの目をかすめる様に、無断で図書室に入り込み,むさぼる様に手当たり次第本を読んだ。
何時間もいるのだから、しゃがんだり、すわったり、ころがったりして、体位は子供の事だから自然に変化していただろう。ぎっしり並んだ棚の本を引き出しては読むというより眺めたという方が当たってるかもしれない。普通の本を十歳になるかならないかで分かる筈がないからである。ちょいちょい見つけられて、呆れ声を出されたりしたが、こちらは自分のうちと間違えたように、いや、そんな意識すらなかったと思うが、文雄さんがいた時と同じ様に自然体を崩す事はなかった。
夕方になると、奥さんがその本を持って帰りうちでお読みと、追い出されるのを常とした。
余談だが、私の親兄弟祖父母まで入れて近眼は私だけである。この乱読のせいである事は間違いない。

こんな調子だから、入り浸っているうちに、文雄さんの直ぐ上の孝人さんとは、自然に兄弟みたいになってしまった。
男の兄弟が5人いて、孝人さんが4番目で4つ年上(いつもタカボウと呼ばれていた)、文雄さんが5番目で、その上は中学やら大学で、私など相手にしてもらえなかった。書物の多いのは、これら兄弟のために鉄道省の高級官吏だった父親が購入したものが殆どだったと思う。

タカボウはどちらかというと勉強より運動好きといってよかった。だから学校から帰って来るとすぐ私を見つけて、お屋敷につれだされた。お屋敷とは、丁度私の家と国道を挟んで対面したところで、山県家を将来新築するためか、お城のように石垣に巡らされた大きな松が十数本点々と周囲に植えられた敷地のことで、真ん中に砂場があって、相撲でも柔道でも、幅跳び高飛び何でもござれで遊ぶには絶好の場所だった。

当時私の家も父は外国にいたので、ここのお父さんもうちにいなくても当たり前の様に思っていた節がある。
週に一度、或は半月に一度、帰宅されるのだが、それはそれはお迎えの儀式が大仰で、小さい私には何とも不思議な気がしたもんだ。なんだこの子はとじろりと睨まれると怖かったので、こそこそ逃げ帰ったりした。

前置きが長くなったが、孝人さんはやさしい兄貴だった。この頃の思い出の一番目は鉱石ラジオを上の兄貴らの手助けで作って、相撲の放送などイヤホンで聞かされて驚いたりしたことだ。
又お屋敷で幅跳びや高飛びの練習を毎日の様に繰り返し、この御陰で小学校の6年のとき、どの競技会か忘れたが高飛びで第2位に入ったことがある。運動の得意でない私も高飛びだけはその後しばらく得意であった。

小学校4年のとき、山県一家は全部引き払って東京へ引っ越した。別れの辛さは今でも思い返したくないほどだ。

次の孝人さんとの再会は私の中学1年の夏になる。当時高知高校の生徒だった孝人さんは、彼から見れば懐かしい故郷であるこの地に触れたかったのである。ひょっこり帰って来て、しばらくの間親戚に寝泊まりして、毎日私のうちに来て、海に誘い出す。何しろ高知の荒海で鍛えているので、格が違う。
海水浴場などというしゃれたものはない田舎だから、家から直距離で3キロぐらいの,海端まで出かける訳である。
元来は江戸時代に埋め立てられて出来た村だから、海岸は高い石垣が2段3段延々と続いていた。所々樋門があって、排水調節をやっていた。そこが泳ぎの場所だった。
小さいうちは樋門の内側で泳ぎの練習をするのだが、それでも小学校時代溺れたことがあって、怖がっていた私を徹底的に扱いて、海が何でもなくなる程にしてくれたことは、後々まで有り難く思い浮かべる事が多い。

昭和15年1月私は徴兵のため、入隊を控えて、どうしても死ぬる前に、陛下の居られる東京を見てみたいと決意し、山県の家を訪ねた。一週間泊めていただき、宮城を始め,思い残す事のない様にあちこち訪ね歩いた。
ただ、孝人さんが京都の大学にいて、帰らないので会えなかった。残念なので電報を打って、帰路立ち寄る事にしたのだが、途中立ち寄った上諏訪温泉で、湯上がりの始末が悪かったらしく風邪を引いてしまった。
京都の孝人さんの下宿に入った時は38度以上の発熱で寝込んでしまい、お医者を呼んでくれる始末。とうとう丸2日寝たきりで過ごした。
入隊まであと10日足らずになって母親が随分慌てたらしいが、なんとか怒られただけですんだ。

次の年の4月、東京の幹部候補生学校を卒業して見習士官になり、関東軍自動車第3聯隊への帰還の途中、本籍地の関係からか、孝人さんが広島の第5師団に入隊していたので、その部隊を訪ねた。
営門で待っていた私のところへ一つ星の二等兵さんが、駆け寄って来て、私に不動の姿勢で挙手の敬礼をして、「山県二等兵、お呼びで参りました」と叫んだのには思わず苦笑した。
私も母と妹を伴っていたので、まあまあと挨拶程度のはげましで別れたのだが、その場面の光景は今でも鮮烈に思い出される。

戦後昭和21年9月、私は一旦は学業を志して上京したのだが、変心して進駐軍のCivil Censorship Detachimentに勤めることになり、山県の家に下宿させてもらうことになった。
孝人さんとは雑魚寝ではあったが、翌年の1月中程まで寝食を共にすることになってしまった。
食料事情が悪く、いつもひもじい思いの毎日だったが、彼にいつもやさしく激励の声を掛けられ、甘える事が出来た。
私の心情は本当の弟だった。
間もなく私は軍隊から持ち帰った結核がひどくなり、帰郷せざるを得なくなった。
その後も音信の絶える事はなかったのだが、なかなか警咳に接する機会を得なかった。
もちろんそれ以後も私は仕事の関係などで、上京の機会は多く、山県の家には度々訪問することはあったが、他郷に就職していた孝人さんとは会う事ができなかった。

昭和43年6月7日突然孝人さんが訪ねて来た。夕食を共にし懐旧談に花が咲き夜の更けるを忘れた。翌日宮島まで出向いて大きなしゃもじを購入し、帰郷する彼に駅頭にて手渡しする。なんのつもりだったか今思い出せない。

それから二十年、繁忙に取り紛れて会う事もなく、年賀状と暑中見舞いのみがお互いの健康を表示してくれていたが、昭和63年の1月病気で亡くなったとの訃報を息子さんからその年末突然いただき、ああ!万事は終わったと嘆息したことだった。
あまりにも早く失った大切な兄貴であり、竹馬の友だった。Takato
Oyasiki

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2006年6月 6日 (火)

忘れ得ぬ人々(2)

 水田穣君
彼を意識し始めたのは、世田谷の陸軍機甲整備学校の関東軍輜重兵幹部候補生隊で所属中隊は違うが、同じ部隊の彼が私の寝台の隣に寝起きする事になってからである。学生時代にも、社会人としても、軍隊に入ってからも初年兵時代は、全然言葉すら交わした覚えは無い。軽やかな動作とぞんざいな口のきき方で、私と身長体重とも変わらないこの男が何か私に警戒心を起こさせたことから始まった。いやでも終日寸時の暇もなく接触続けた訳だから、気にするなと言われても無理だったろう。
朝起きるとから彼の動作は機敏で、いつも後背をなめさせる彼に時には敵意を抱いた事もあったし、脅威に感じた事もあった。もたもたするなやと罵言を浴びさせられたり、こうせーいやと手を出されたりしたこともあった。もちろん茶目っ気たっぷりな軽口だから怒る気になるようなものではない。しかし彼にはいつも幼児かなにかのような下に見られて居たような気がする。
同じ学校の同学年でもクラスが違っていたし、学生時代にはバレー部に居たそうだが、部が弱かったので、関心が無く私の記憶外である。
しかし身のこなしが良かったので、銃剣術はうまかった。巖流ではないが飛燕のわざがあった。当然軍隊に入ってから習ったのだろうからスタートは皆同じだ。しかし200名からの幹部候補生隊内の大会で小柄な彼が準決勝まで進んだのには改めて感心させられた。
彼は帰隊後まもなく第七野戦輸送司令部付きに転属し、私は他の部隊への転属を繰り返し、2週間ばかりこの輸送司令部付きとなって、彼と机を並べた事もあったが、すぐ又私の最後の部隊となった独立自動車第32大隊に転属し、袂を分かったまま戦後を迎えた。私の部隊は1944年4月中支に転戦し、司令部は内地に帰還したので、彼は虜囚の屈辱を知らない。
戦後マツダ(当時東洋工業)に帰ってから(入隊前の会社)はサッカー部で活動し、マツダ(当時東洋工業)が全国制覇を何度もしたときに、マネージャーとして活躍した。彼のおかげで試合を見物に出かけたりしたこともあり、マツダのファンになった。現在のサンフレッチェが芳しくないのが悔しくてならない昨今である。
又後日昇進した彼一人の案内で大きな工場を一巡りしたこともある。
マツダのレンタカーの常務を退いて、学校同期の友人(社長)の誘いで私と一緒の会社に入ったが、慣れない小企業の仕事には随分苦労したようである。組織のないひとりひとりの働きで持っている会社だから、慣れるまでは大変なのだ。特に社内外の人間関係に悩まされ続けなければならない。私も例外ではないが会社初期の男4人女3人の社員時代に入ったから、人間関係はすぐ克服した。だから私は長続きしたし、何度も退職したり復職したりしても、大手を振ってまかり通れた。
水田君の時代は百人近い社員の大世帯だったから、外部からふらっとやって来て、雑多な社員に号令してもからきし応えない。
昔と違って上司の権威など無いに等しい。むしろ邪魔かもしれない。数年もたたないうちに嫌気がさしたか、又縁故を頼りにプラスチック関係の会社に鞍替えした。
その後も憂さばらしによく私を訪ねてくれたものである。身のこなしの軽やかさは一向に衰える事なく、まさに神出鬼没といってよかった。
もうマツダ当時の華やかさは微塵もなかったが、といって偉ぶる所は当時からなく、一兵卒の気軽さで誰にも接触していた彼だが、私的な悩みもいくらかあったようで、苦悩を時折もらしていた。
ガンでマツダの病院に入っているという事を伝え聞いて驚いて見舞に行ったりしたが、可成り永い闘病の末遂に再起する事はもうなかった。
昭和も終わらんとする63年2月17日訃報を聞いた。葬儀は稲荷町の某寺で盛大に行われた。往時のサッカー仲間で日本の名選手の一人二宮氏の弔辞が心を打った。
(風呂場で私の頭に手をかざしている、富士裾野で右端の手をかざしている、山口雪舟庭で右端にいるのが水田君)Bath
Susono
Joeiji

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2006年6月 7日 (水)

忘れ得ぬ人々(3)

長谷川啓三さん

昭和15年3月新京の満洲鉱山株式会社に一緒に入社した沼静雄君と二人は、まもなく学校の8年先輩である旨の自己紹介を受けて長谷川さんと面会した。事前に承知していて、待ち構えていた感じだった。
数日後担当課が決まり、私は長谷川さんの引きで、調度課に所属する事になった。沼君は現地でいいと熱河省の倒流水という鉱業所に決まり、数日後に赴任した。
住まいは東光寮という3階建ての横長の大きなマンションで、独身寮だから部屋数は多かった。
当初は2名1部屋だったが、同部屋の壇上君がまもなく現地赴任したので、あとはずっと一人暮らしであった。
寮は満洲重工業の社員と共同利用で、学校一年先輩の重工業社員市橋侃二さんもこの寮に居られた。

幸運な事にそばに長谷川さんがついているので、私の仕事は勉強と同時に進行すると云った具合で、仕事にも慣れたが遊びの方も毎日毎晩の指導で上達した訳である。
忘れる事が出来ないのは、長谷川さんの一番の仲間高橋さんが、同じ課の同僚で立教出身のボクシング選手経歴の持ち主であったことだ。
鉱山課には相撲部出身の巨漢が二人もいるということで、よく夜の街で起きるごたごたもどこ吹く風の趣があった。
ダンスホールなどでも、喧嘩が起きると、買って出る勢いで、相手を跳ね飛ばし投げ飛ばし、痛快な締めくくりとなったことを目の当たりしたことが2、3度あった。パンチの凄さはこの時始めて経験したことだった。
満洲鉱山といえば矢張り新京では著名な存在だった。
まだ当時は日本女性の進出は遅れていて、男女比は10対1などといわれていた。
だからどうしても盛り場は荒れた。警察も日本人には無関心を装った感じがこく、喧嘩などで捕まっても翌日には無罪放免と云った具合だった。現に長谷川先輩も一晩ブタ箱暮らしをしたことがあった。比較的に冷静で喧嘩には加わらなくて調停役の立場だったが、それでもしょっぴかれたことがあったわけである。

長谷川さんは学校時代野球部のキャプテンとして全国大会で準優勝したことがあり、満山チームも彼の主導でかなり強かった。夏は日が長いのでダブルヘッダーが楽に出来た。社内対抗はもちろん外部とも良く対戦した。
会社全体が新興の意気に燃えていた。
私も小学校以来の野球に参加して、社内対抗、寮内対抗にいずれも優勝して美酒に酔った経験がある。

この年12月私は入営のため休職し、1月関東軍に入隊した。
昭和17年3月東京にて幹部候補生教育終了と同時に見習士官に任官、原隊復帰の帰路4月7日新京に立ち寄り、先輩同僚に久濶を叙し、その晩長谷川さんの社宅に泊めていただいた。当時新婚ほやほやの家庭で、お世話になったはいいが、隣室が気になって眠れなかった思い出がある。

昭和45年(1970)何十年振りかの長谷川さんからの年賀状が勤め先宛に来ていた。早速礼状と無沙汰のお詫びを書く。
1972年6月3日長谷川さんが来広、久しぶりの対面に感激する。注文に応じて市内を遊覧する。
同年の10月13日再度来広され、呉の海上総監部や旧潜水学校跡、第6号潜水艇記念碑などを案内する。
長谷川さんの叔父さんが同艇の副長だった由で、毎年の如く記念祭があるのだそうな。潜水艇現物を見たいという事だったので、あちこち捜した訳だった。遂に見つけられなかったが、後日調査したところ江田島の第1術科学校にあることがわかった。
1975年10月27日満山会に出席し記念写真をわざわざ送付いただいた。
1981年4月14日呉での記念祭の帰路立ち寄られる。流れ川で慰労宴を開いたのだが、気分が悪くなり途中で切り上げて宿に案内する。
1983年7月21日奥さんより昨日死去したとの知らせを頂戴し、悔や状などはすぐ送ったが遂に永世の別れとなった。
(写真は左が音戸での長谷川さん、中が満山社内野球優勝、右は第6号潜水艇)Hasegawa_1
Yakyu_1
Sensuitei

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2006年6月 8日 (木)

忘れ得ぬ人々(4)

栗栖哲男君
十年も前になるか直腸ガンを手術して、経過は悪くなかったのだが、その影響もあったのか歩行が難しくなり、近辺に住む我々同級生の集まりにも次第に出席してこなくなった。
いつも是非皆に会いたいと身体の不自由をこらえて、最後はタクシーを飛ばして30キロの道をやって来ていた時もあった。がある時を境に家の中を歩くにも杖が要るし、家から道路に出る階段を超える事が難しいので、それすらも出来ないと悔しそうに言っていた。
彼も平均以上の長寿を得たが、もう2年生きて親と同年までと漏らしていたそうだ。その望みを果たす事なく昨年3月14日旅立った。

彼は学生時代から文芸部に属し、よく学友会雑誌に小説などを発表していた。当時私はクラスも違っていたので、普段の付き合いはなかった。そうした文芸作品から受ける印象から、文学青年だと勝手に断定していた訳である。
卒業後は学校の気風から海外に進出するものが多く、彼は日満商事という貿易会社に勤める事になった。私も同類で満州鉱山なる会社に就職したようなしだいで、同期の卒業生の3割が海外や海外勤務地を持つ会社に就職した。
しかし当時も彼は北京、私は新京在住で格別な交際は無かった。

戦後は当然海外の就職先を失って、彼は高等学校の先生を永くやっていた。どうした経緯でなったかは知らない。
高きを望まず、マイペースの道を選んで、最後は田舎町の高校の校長で終わったようだ。
しかし相変わらずの文学好きで、書き物は数多く残して居るらしい。朝日新聞にはよく時評を投書し、時に発見してやるなあと感じ入ったこともあった。八十数回投書欄に掲載されたとのことである。息子さんの嫁さんの話では皆ファイルに綴じ込まれているそうだ。

私と親しくなったのは戦後も大分経ってからで、何度目かの同窓会の席で、サカヅキを差しつ差されつする間に、酒の勢いで饒舌になった彼の講釈に同調してかららしい。私は文学などには縁が無い男だが、本を読むのは小さいときから大好きだった。正に乱読で小説も科学書も哲学書でもスポーツ書でも、地図や写真も百科事典すらも私の読書の範囲にあった。だからいまだにその癖は直っていないのだが、その辺が読書好きの彼と共鳴したようだ。
この頃を境に急速に仲良くなり、年には何度も開かれる会合での再会が楽しみになるようになった。
卓越した人生哲学は学ぶことが非常に多かった。聞き役に廻る事が殆どだったが、現実に教師を務めた彼の発言には,常人のおよばざるものがあり、示唆を受ける事が多かった。特にごく最近の若者の話題は、切実で具体性に富み,非常に参考になった。

彼と交わした手紙は年賀状か暑中見舞いぐらいのものであるが、ときどきその中の文章に触れ、彼一流の鋭い短評を戴き,時に感銘を受けたりしたものだ。朝日新聞好みの批判力はさすがだった。
文学をやる程に筆まめだったのか、交遊範囲も広く、特に学友のうち中国からの留学生などの消息は彼を措いて得られなかった。支那語専修組出身の北京勤務で戦争中からのコネクションもあったのだろうが。

永いだけで、下手な処世をしてきた私には、暗夜行路に突如光をくれたような、有り難い助言者で有り続けた彼を失った事は、羅針盤を失った船の様な感慨に陥らざるを得ない。
健在の折りまだまだもう少し彼の謦咳に接しておけばよかっと後悔する今日である。
(写真のいずれも右側が栗栖君)Kurisuiwamoto
Kurisuyokoyama

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2006年6月 9日 (金)

忘れ得ぬ人々(5)

丸山定男先生

中学2年のとき、颯爽とした青年教師が教壇に立った。
開口一番「ねばならぬ」=ought to be と、のたもうた。
この学校は校長が3S精神を説き、この若い数学教師も挨拶そこそこに、自分の処世訓を黒板に大書して、数学に向かう心得を諄々と説かれた。
丸山定男先生といった。後に知ったのだが,前任地別府中学から、赴任されるとき結婚された、まさに新婚ほやほやさんだった。勢いがよかったのも無理からぬことであった。

早速皆の学力程度を調べるといって、試験を始めた。
結果は後に京大の湯川教室に学んだ、角井君が合格点の80点をたった一人取っただけで、あとは全員50点以下の不合格という発表だった。私はそれでも辛うじて50点取ったので,この時を境に目に留まったのかもしれない。

問題、宿題と授業中から帰宅してまで数学の問題に追っかけられ通した。
夏休みも3年の時から呼び集められて、補習教育が実施された。
御陰で数学だけは自信が持てる学力になった気がした。

後年専門学校の入試のとき,第1日に数学があり、翌日数研と言う受験雑誌社が正解はこうだというビラを配ってくれたので、見たら悪くても95点はあるなと、俄然楽な気になった覚えが有る。

4年のとき、担任でもないのに、我が家を訪問され、そんな資力はないと渋る親爺を長時間粘ってとうとう承諾させて、広島高校を受験したことがあった。ほかにも数名白羽の矢を立てられて一緒に受験したが,全員落選の憂き目を見た。
ただ一人前記の角井君だけは山口高校理科に入学、入学式に答辞をよんだという話を聞いた。

卒業以来いつまで我が中学におられたかは知らない。戦争中は混乱して皆それどころではなかった。

1981年1月、地元在住者が全国の同期生に呼びかけ、初の全国大会が行われ当然の如く丸山先生も出席された。
卒業以来44年振りのことなので、先生はすでに郷里の徳島で教鞭をとっておられ、懐かしい教え子たちだからと特別の意気込みでやって来られた感じだった。2次会3次会と夜を徹して飲み明かした覚えがある。

挨拶はいつも「ねばならぬ=ought to be」で始められ、処世訓は健在だった。
同期生会にはいつでも出席させてもらうから、呼んでほしいとの申し出があり、次回からは欠かす事なく温顔を拝する事が出来た。

1995年4月12日何回目かの同窓会に先生が依然健在で出席され、24人の我々教え子の前で最後の言葉になると宣言の上、私は今年米寿になる、君たちは喜寿だ、お互い目出たい今日を私の出席の最後としたいと話され、別れを惜しんだ。
96年に夫婦揃って入院という事態に陥られ、97年の元日に奥さんが先立たれた。
入院中も元気な手紙を再三頂戴し、こちらが励ましを受けるていたらくで、遂に恩返しらしいことは何も出来なかった。
97年8月には長文の手紙をいただき、98年1月12日には私の寒中見舞いをよく気配りのできた立派な手紙だとお褒めくださるなど、最後まで私の教師であった。
2002年2月26日永の旅路に着かれた。同窓たちはその前に見舞いに徒党を組んで押し掛けたりしたらしいが、私は遂にその機会を得る事ができなかった。
(写真左はは81年同窓会、中は先生、右は米寿別れのスピーチ)56gantyu
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2006年6月10日 (土)

忘れ得ぬ人々(6)

深山克己君

横山君を除いて、付き合いの一番永かった友達である。他の友達は知り合っても、永い時は十年以上も消息が無いのが普通で、彼の様にひょいひょいと時を嫌わず顔前に現れ、お茶を呑みながら下らぬ話に笑い興じた友は他に無い。

戦後十数年学校のの先輩が始めた石油販売の代理人みたいな事から,同時に松阪産業という土建屋さんの手伝いなど、私から見ると全くえたいの知れない仕事をやって、糊口をしのいでいたようだ。いや糊口と言っては失礼で、もとは廣島特産の針屋さんでも大手にうちで、戦後つぶれても所有不動産は私などの及ぶ所ではないから,その収入でゆうゆう暮らしていたに違いない。廣島一中時代からよく遊んだ話は耳にタコが出来る程聞かされたものだ。
学校時代も別誂えの制服でのし歩いていたやんちゃな連中のひとりで、とても私ごときがつき合うような男ではなかった。戦争のおかげで平等の付き合いが出来る様になって、軽口も叩ける間になったというわけだ。

しかし昔を誇るようなことはからきしなく、物やらかな口調で、人をほめる事が上手で、横山君は特に気に入っていたようだ。相談相手ナンバーワンといってよかった。私との関係はあくまでも横山君を介しての関係で、時に会話の真意確認の為に,或は取り次ぎ伝言のために私が必要なことがたまにあっただけである。
中電の幹部とは極めて懇意のようで良くゴルフなどで交友を深めていた。
学校同期の松本勳君とは公私にわたって特に昵懇にしていた。

ズバリ彼の人柄をいえば愛情のかたまりといえるかもしれない。友を愛し,妻を愛し,子や孫を愛し、凡そ裏切る事は無かった。彼の口から人が傷付くような言葉が出た事を知らない。
よくしゃべる方だから、何か表現のし損ないがあるはずのもんだが、それが感ぜられない。万事善意の気持ちから発せられることがよくわかった。

70歳頃から脚部の血管の流れが悪くなり何度も外科手術を受けた。しかしよくなることなくだんだんひどくなって歩行困難に陥った。同窓会にも気力を振り絞って出て来たが、奥さんの手を借りる事が多かった。晩年にはとうとう家から出る事も容易でなくなった。弱みを見せない語り口はむしろ痛々しさを感じさせた。
気遣いの激しい性格で、極力私たちに心配を掛けない様努力を惜しまなかった。だから電話での話はまるで健康者が語るような口ぶりだった。わたしたちはそれに騙されたような気が今思えばする程だ。

生前元気な時の付き合いは限りなく印象深い。思い出がおおすぎてとても言葉では言い尽くせない。
逆境に沈んだ経験の多い私には彼の温容といたわりは特に支えになった。いつも明日への活力となった様に思う。
一般的な激励とか叱咤とかいったものとは全然違う,一緒にくるしみを受け止める性質のいたわりだった。

永い闘病の末、平成13年10月2日私たちの気づかぬ間に亡くなった。知らせを聞いてすぐ悔やみに出かけ棺に収まったばかりの彼の温顔を拝んだ。葬式は丁度同窓会東京大会の日に重なり,私は欠席の予定だったから幸い葬儀の末席に列らなることが出来たが,横山君はそれもできなかった。
今生きていて一番寂しいのはこの友を失った事のような気がしてならない。Miyama1
Miyama2
Miyamayokoyama

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2006年6月11日 (日)

忘れ得ぬ人々(7)

述本主計君
私の親友、水田君、深山君と彼は奇しくも皆廣島一中の同級生である。
山口の学校の水泳部にいた事は在校時から知っていた。同期に高原君という全国的にも著名なスイマーがいたので目立たなかったがおおらかな、好感の持てる選手だった。プールが下宿の近くにあったので、ときどき休日の大会には見に出かけた事もある。いつのことか覚えていないが一中の水泳部の歌とかで”カッパやめらりょうか”という歌詞の入った歌をよく楽しそうに披露してくれたことが記憶にある。私が習い覚えて他の席で歌ったりしたもんだ。
学校時代でなくひょっとしたら軍隊での事かもしれない。
彼は就職先が新京の満洲電業本社(康徳会館=現在の長春市役所)で、奇しくも私の勤め先満洲鉱山の隣のビルだった。だから格別用事がなくてもばったり会う事があった。徴兵検査の結果同じ関東軍の同じ自動車第3聯隊に入隊、しかも同じ第2中隊で2班と3班に配属となり、朝に夕に顔を合わせ、声を聞いて過ごすことになった。
二人とも動作が軍人らしくなく、よく鉄拳制裁をくらっていて、直ぐ隣の班だからその模様がよく聞こえ、同病相哀れむの例え通り急速に仲良しになった。
幸に二人とも甲種幹部候補生に合格、東京遊学も成し遂げた。
会える時は兄弟以上の付き合いをしたと思う。初年兵のとき営内靴を盗られて、零下30度の戸外を裸足で歩かねばならず困って居るとき、彼の親戚の1年先輩の河上さん(後の岩国市長)(別の中隊だったが)に頼んでくれて都合付けてもらった事がある。
将校になってから所属部隊が別れたので、滅多に会う事はなかったが、昭和18年ガス掛将校の教育でチチハルまで行き、2ヶ月間訓練を受けたとき同じくガス掛将校だった彼と同道したことは、不思議な縁だったと思う以外に無い。往路ハルビンで同じく同級生の土倉君(満洲電業ハルビン支店勤務)の部屋に泊まり込んだりしたことは忘れる事ができない。

戦後は外地で働いた二人はいずれもその職場を失い、落剥して互いの消息は知る由もなかったが、ある時岩国でばったり遭遇、聞けば廣島の家が原爆でなくなったので、津田の親戚に引き上げ、やっと岩国米軍の通訳の仕事を得て、こちらに来たのだという事だった。幸運にも二人とも生還したのだが、それからの道程は楽ではなかった。
私も爆撃で家を失っていたし、岩国時代はお互い生活に追われて会う事はほとんどなかった。
私が事業をしくじって廣島の横山君を頼って移住し、生活の基盤をようやく得たころ、ひょっこり彼が私を尋ねて来て、進駐軍を今回止める事になり、横山君のところへ世話になりたいからよろしく頼むという。
ちょうどその頃私は横山君の会社をやめ、クリーニング業をやっていた。横山君の援助で始めた仕事だったので、彼とは深く繋がっていたのでよろしい、大歓迎だと早速強く彼を横山君に推薦した。
参謀役の太田久孝君が亡くなった後で、相談相手を失っていた横山君も待ってましたといわんばかりに招き入れた。

後年述本君も古手の社員との間でトラブルがあったのか、二度ばかり相談しに私を訪ねた事があったが、折悪しく事業拡張のため九州方面に長期出張中で彼の願いを聞く事ができなかった。その後ガンに倒れた事を聞き、横山君らと見舞に訪れたが、ガンの事は本人は知らされていないらしく,回復を信じて頑張っていた。
間もなく医者の予言通り推移し県病院を訪れたときは意識朦朧として我々に気づいたかどうか、深山君の提唱でクロレラを用意して持参したのだが時既に遅しの感じであった。
昭和47年6月3日死去したのだが、50台の全く早い、惜しくて悔やまれる最後であった。
交際期間は合計しても極めて短く、思い出した様な出会いばかりだったが、友情の懐の深い信頼の置ける、やはり忘れられない友人であった。Nobemoto

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2006年6月12日 (月)

地震

今朝5時、がたがたとガラス戸の揺れる音で目覚める。
地震だ!と頭上の棚の本を見上げながらおもむろに起きる。
少しひどくなる。
すぐベッドを離れる。
瞬間芸予地震を思い出す。ベランダに逃げ出すためにガラス戸を開ける。
テレビのスイッチを入れる。2、3分地震ニュースはない。
そのうちテロップが流れ出す。
広島は震度4らしい。
まあまあだなと思ってると、ニュースが地震に切り替わる。呉などが震度5という。震源は大分県中部。
呉、今治、西予、佐伯などがひどい。西瀬戸内一帯が皆震度4。
これなら芸予地震より大分軽いなと思ってる間に止まる。10秒くらいだったか。
芸予のときは先ず棚の本などがばらばら落ちて来てから始まったが、こんどはそれがない。
マグニチュード6.2という。軽くてよかった。
しかし地震は嫌なときでもやってくるから困る。

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2006年6月13日 (火)

忘れ得ぬ人々(8)

 織田善行君
学校の1年生のとき、鳳陽寮の一学期(個室は学期ごとに変わる)確か彼は我々の真下の階の室に居たと思う。当時の写真から推定出来る。
さして付き合いはなかったが、その上下の関係で時折言葉のやりとりが行われたことで顔見知りになった。
記憶はそれから飛んで戦後になる。私が農協に勤めていた頃、あるとき彼が金を貸してもらえんかと相談に来た。誰に聞いて来たか定かではない。呉の土建会社の岩国出張所に勤めていたとき、その会社の金策でやってきたのだ。勿論組合員でないのだから員外貸付になり、制限がきびしいのだが、同級生だから情実で貸した訳。30万円だったと思う。
1年ぐらい続いたと思うが、彼が会社を止めるから一応金を返すが、この後は貸さない方がいいと言って去って行った。この会社はその後倒産したと聞いている。
彼は呉市役所に再就職し順調に出世して、水道局長までなった。

昭和34年(1959)学校同期の廣島地区同窓会が中の棚の松鶴で開かれたとき、出席者11名の中に彼も入っている。若いときだから随分賑やかだったが、何を話したかなどは覚えていない。
1964年に彼を訪ねて呉の給食センターに紹介してもらい、洗剤を売り込みに行った記録が残っている。
横山君が同じく柔道部だった関係で、極めて親しく、よく行き来して飲み歩く事になった。もちろん横山君を介しての行動ではあるが。彼と生前の思い出はほとんどこれに尽きる。
廣島で主催する同窓会には積極的に協力してくれた。いやの一つも言わない酒好きだが,アルコールに強い、温厚な誠実無比の男だった。

又廣島でクラス会をちょいちょいやったが元気なときは必ず出席してくれた。又忘年会、新年宴会など数えきれない程やったが、いつも遠くから一つ返事で参加してくれた。
最後の年1995年正月の新年宴会はその前年腸がんを手術した後が良くなく,出られないという事だった。
その年8月19日同郷の栗栖君から織田君が4月に亡くなってるよと連絡をくれる。
2、3日後横山君と打ち合わせて悔やみに出かける。深山君は足の具合が悪く歩けない状況になっていたので、私が代行した。
体型的にも筋肉質の頑健な身体をしていたが、ガンには勝てなかった。丈夫なばかりに発見が遅かったのだろう。
前述した様に、横山君が凄く信頼していたので、私も連れられた感じの友人だが、篤実そのものといっていい、地味だが落ち着きのある性格は私に無いものだけに羨ましく敬愛せざるを得なかった。
(写真の真ん中の男が織田君)
Odazenkou

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2006年6月14日 (水)

忘れ得ぬ人々(9)

宮口克己君

彼とは生涯8ヶ月の付き合いしかない。たまたま同じ会社の同じ課で机を並べたという、偶然があった。
この課は、調度課という外部との折衝の上に成り立ち、一人一人が会社の必要とする物資を購入する立場にあって、殆ど独断で商品などの選択購入決定権を行使していた。
もちろん課長の承認を得るわけだが、拒否されることは先ず無い。
鉱山会社だから、調達品目は大は当時でも何百万もする採金船から、米1俵、鉛筆1本まである。遠い辺境の鉱山は生活物資はなんでも必要とした。
彼の担当は運搬具関係だったか、食料品だったかなと思うがよく憶えていない。私は理化学器械例えばトランシットとか顕微鏡、ビーカー、フラスコそれに文房具もなどであった。
タイピスト4名、受付嬢1名の女子事務員以外は男子20名ぐらいいたかな。このうち3割は運送関係だったから、調達担当は10名そこそこという状況だった。従って仕事は最初から猛烈に忙しかった。
商品知識の全然ない私たち新米は一回聞いたらそれで終わりで、何度も聞いたりしたら怒鳴られる。教えている閑など先輩たちにもないわけだ。

同課に配属になった新米5名のうち大学出3名、専門学校出2名ということで、一番若い2名が彼と私だった。経験も浅いし、学力も劣るし、戦々恐々の毎日が続いた。同病相哀れむで、二人の仲は急速によくなった。
入社当時は朝から晩まで行動一緒が当分続いた。
彼の同級生が隣のビルに居るというので、連れて行かれて、たまたまその男が私の郷里の食堂の息子で一級上だった山本さんと分かり、小学校以来の再見で驚く。何かあるとよく行き来したものだ。

仕事になれて夏になって、残業などというものの無い時代だから、8時間の労働時間では、時間が余りすぎた。
3時に夜が明けて、9時に暗くなる。勤務時間は午前7時から午後4時までだから、朝はテニス、午後は野球や卓球としっかり運動が出来た。もちろん映画やもろもろの遊びにも忙しかった。夢中で青春を謳歌した。

このころ(夏)は何時も彼と一緒だったかどうかよく憶えていない。
でも二人でハルビンに行こうという事になって一泊旅行をした。二人だけだったのだから、まだ引っ付きもっ付きが続いていたのだろう。
キタイスカヤはまだ完全なロシヤ人の街だった。レストランへ入ってもモデルン劇場に入っても、チュウリン百貨店でもロシヤ語でないと通じない。それでも二人は心臓強く渡り歩いた。
スンガリー(松花江)河畔はロシア人の家族の水遊びでふくれ返っていた。現地人や日本人にはこんな汚い河での水遊びなどの風習はなかった。
バレエなるものを見たのはこの時が始めてだった。なにがなんだか分かるわけが無いのだが、驚きあきれて見たのだが、先方こそあきれた事だろう。
ロシア人のヌードショーも夜宿の案内で見に行ったが、日本には無かったショーだけに、まだ清純無垢のわれわれにはいささかどぎつ過ぎた経験だった。

この前後に徴兵検査があり、それぞれ年末には帰国して軍隊に入る事が決まった。
10月11月になると昼の時間は急速に短くなり、会社の勤務に追われる様になった。それでもビルの横の空き地にスケートリンクが特設され、休憩時間などには練習に励んだ。一緒に大同公園の池に暗くなってから出かけて滑ったりしたもんだ。児玉公園(本格的な公営リンクがあった)にも遠征して大使館の連中と仲良くなり、パーティに招待してもらったりしたことがある。
12月に入ると送別会はひっきりなしに行われた。もう内地への帰心矢の如しで足が地につかない感じだった。
私は20日ごろ新京を去ったが、二人が何時わかれたか記憶に無い。

80年も生きると、8ヶ月はほんの僅かな期間だ。こんなに鮮明に記憶が残っているのは、畢竟共にハルビンに遊んだ思い出があるからである。
どうしても忘れ得ぬ思い出の人の中に入れたい。
(写真左、前の男、中パン食い競走一番左が宮口君、左現在のニッケビル)
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2006年6月15日 (木)

忘れ得ぬ人々(10)

中川安一先生

麻里布小学校5、6年のとき担任だった。
私たち一組の56名の子供の大部分にとっては怖い先生だった。後年の同窓会にていつもその述懐を聞いたもんだ。
騒ぐと竹のねぶちの鞭が容赦なく頭に下った。忽ちこぶの山脈が出来上がった。
幸い私は一度もそれを食らった事は無い。優良な生徒だったわけだ。
メンタルテストが全校であって、私は抜群の成績をあげ天才ではないかと言われたりした。
この意識が災いした。上級の学校に進むに従って化けの皮が剥がれて行った。
しかし、先生や親はその意識を捨てきれなかった感じが強い。
後年人に騙されて財産を失い、事業を始めても肩入れしてくれた先生を裏切り、倒産したり破産寸前まで行った。
勿論先生にも金銭的に損失を掛けた。

結果的には良い思い出は少ない。
しかし先生は異常な程よくしてくれた。子供たちの頭を刈ったり、遊び道具を時間掛けて作って、みなにそれを使って遊ばしたり、十数人の子供らを自宅につれてゆき、ご馳走してくれたり、又他の小学校のグランドにまで連れて行き野球などの練習をさしたり、ほんとに熱心な指導者であった。
当時流行した小学野球にも熱心で、他校を招いて練習試合を度々行ったりした。
強いチームにはなれなかったが、わたしも選手の一員として何度も出場した。

また音楽にも熱心で、ピアノやクラリネットはうまかった。また歌声は実に美声でほれぼれするほどだった。よく教室で歌ってくれたものだ。
怖い原因は芸術家気質の感性の強さにあったらしい。

私は大好きな先生だったし、その清廉潔白さには孤高の姿を感じ、亡くなるまで尊敬の念を抱き続けた。
卒業時に君は将来軍人になると良いと言われたのだが、怯懦な性格は治し難いと自覚していたので、その意には従わなかった。
が、結果的には徴兵検査で軍隊に入り、将校になって軍人としての経験を半ば強制的にもつことになった。
自画自賛になるが、部下たちには戦後も忘られる事無く、アルコール燃料では司令官の褒賞を受けたり、先生の予感が当たっていたのかなあと思ったりしている。53nakagawaGantyuiri

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2006年6月16日 (金)

忘れ得ぬ人々(11)

中岡武彦君

1998年の6月18日古い友人の一人で、私自身の掛り付けの医師でもあった中岡武彦君がガンで亡くなった。
彼の専門分野みたいなものだが、肺結核の手術が専門だったから少し外れていたかもしれない。
医者の不養生の類いに当たるのではと、門外漢の私は思ったりしている。

中学校の同期生の世話を永年の間先頭に立ってやってくれ、友人の敬愛を集めていた彼が今いなくなると後がどうなるだろうかと、いささか心配であったが、お寺の住職の菊谷君が死ぬときは俺に任せとけとばかり、うまく取り仕切ってくれている。従って却って前よりも几帳面に毎年同じ4月8日に同じ場所で行われることになったりした。

彼が旧制高校の生徒だったとき、私の入った専門学校が同じ町にあり、偶々街頭で出会ってつもる話になり、試験でカンニングをあげられて困ってるんだとしょげてたが、その挙げた先生がイギリス人の私の学校とかけもちの先生で、私も大分以前に前の席の友人と答案用紙を見せ合って捕まり白紙から書き直さされた経験があり、カンニングを挙げる名人だなあと言いつつも、私の経験からまあ大したことにはならないだろうよと、慰めて別れたことがあった。

今でもそうかも知れないが、学生と云うものは他の勉強はよくするが、先生の授業などはいい加減に聞き、後でノートを貸し借りして試験に間に合したりしたもので、間に合わなかったのがカンニングということになるという因果関係である。
もともと中学時代は裕福なお医者の息子で、あまり勉強はしないほうだったから、1年浪人して高校に入ったぐらいだった。

しかし、その後医学の道を志した彼が、肺結核の外科手術で名を挙げ、その道ではかなり有名な存在だったと聞いている。戦後しばらくして国立病院の医師から独立して個人で開業することになった。
その当初から私は公私ともに掛かり合いが深まって今日に至った訳だが、その人柄から名医として尊敬され、私の義父などはあの先生の薬が一番よくきくと、くすりまで先生のせいにしていたほどだ。
もちろん友人関係を利用して勝手な言い分で、病気やくすりの相談を持ちかけたが、嫌な顔を一つするでなく応じてくれ、安全と安心は彼任せといってよかった。

大体惜しい人間程早く死ぬるもので、先立った友人にはそうしたのが多く、私達どうでもいい様な人間とか、憎まっれっ子だったものばかりが残されたようだ。この友人などはもう早いと言うには当たらないけれど、特に戦争世代の私達には非業の死を遂げた友人も多くこの傾向が強い。

政治家を志したもう一人の友人と、正月には回し接待で、一日呑み明かしたりしたものだが、年々多忙になり、いつしか立ち消えになってしまった。
正月でも急患があったりして、酔っぱらって席を立たなければならなくなることが何度も起きた。医者は人並みに休んでは居れない仕事だった。
誠実な彼は特に職業意識は強かった。彼からの辞退がこの会を終わらしたと思っている。

もちろん友情が醒めたわけでなく、その後も何十年親交は途切れる事はなかった。
空気の様になくてはならない関係だったが、それぞれの寿命は容赦をしてくれなかった。
こまめに書いた手記など私にくれたりしたこともあったが、今ははかない遺槁となってしまった。
後年いつだったか、これら手記などを纏めて「日見ず貝」という立派な冊子を作り、私も贈呈を受けた。
その中に小学、中学時代から浪人して高校、大学と正直に経歴を載せている。
根は実直な人柄の仁徳すぐれた医者らしい医者だった。
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2006年6月17日 (土)

忘れ得ぬ人々(12)

 村井一郎さん

昔の中学校は5年制だった。私が1年に入学したときには、村井さんは5年生ではるかに大きな怖いお兄さんだった。
4キロ以上ある砂利道の国道を朝な夕な徒歩で、時に一緒に通ったものである。

村井さんのお父さんは小学校の校長だったし、よく目をかけて頂いていたので、先輩という以上に敬愛の情を持って接したつもりであった。
当時は上級生に対する挨拶は軍隊式の挙手の礼だった。
うっかり挙手を怠ったりすると、すぐビンタが飛んで来る時代で、下級生は戦々恐々として通学した。だから4キロの道は流石に長かった。朝はまだ皆急ぎ足だから、滅多に追い越す事はないが、午後の帰り道はよほど怖かった。

途中で待ち伏せして、ビンタをくれる上級生もあったりした。昔も今もこの年代はいじめたり悪さをしたりするのが面白くてたまらないときだから仕方がない。
そこへ行くと、この村井さんは私をかばってくれたりして、その蔭に隠れる様にして通ったものだ。
私の方が村井さんのうちより、5百メートルくらい学校よりだったから、都合が良かった。

村井さんが卒業後慈恵会医大に入られ医者を志して居られる事はうわさで知った。
しかし、戦後になるまで、消息はお互いに分からなかった。

昭和21年6月7日私は戦地から帰還して、廃墟となった我が家を見、外地にあった就職先はなくなり、すぐにも自活の道を模索しなければならなくなった。
東京へ行けば何とかなるだろうと、入京制限の厳しかった東京へ策を弄してもぐりこみ、進駐軍関係の仕事を拾った。

しかし戦地で貰った結核がひどくなり、帰郷せざるを得なくなった。
ところが翌年春、マラリア熱が発生し、すでに開業して居られた村井さんに診てもらってなんとか命を救われた。
結核の治療などに通院しているうちに、俳句をやってみないかと勧められ、同人に入ってぼつぼつ真似事を始めたりした。
村井さんは戦地で軍医として勤務しておられたとき、同じ部隊に俳人の牧村莫愁湖氏がおられ指導を受けられたらしい。村井さんもまだ新米ほやほやの時だったようだ。
しかし治療の合間に熱心に句をひねって居られた。

私は遊んでは居られないので、職探しに奔走して居るとき、恩師の元校長(即ち村井さんの父)が農業会に入る様勧められ、取りあえずそちらに勤務する事になった。
結核もじょじょに良くなり、通院はなくなったが、親交は続く事になった。
昭和26年の句集第1集、28年には第2集を発行された。この間27年に御父君をなくされたが、医業ともども俳句活動も盛んで、新聞等にも数多く掲載されるなど、地元句会の先達となられるに至った。

私が百貨店の経営に携わったとき、社歌と音頭の作詞をお願いし、作曲は恩師の中川先生にお願いして、社員に歌わしたり踊らせたりしたこともあった。

昭和52年本格的な句集「真珠筏」、昭和59年には句集「芽柳」が発刊された。
この頃は私は前記の事業をしくじり、広島に移住していたので、滅多にお目にかかる事は無くなった。しかし村井さんは旧交を忘れず、これらの本を贈呈してくださった。
もともと文学的才能の乏しい私には、俳句などという短い文句の中に自然を読み込むなどという芸当は、まったく無縁の存在でしかなかったので、村井さんの期待は初手から裏切ってばかりだった。

季節季節の挨拶や旅先での吟句などしばしばいただいたけど、理解出来ない事がおおかった。
平成17年の年賀状に
 芽柳に来ぬかも知れぬ 人を待つ
とあったが、訪ねる事のないままに、その年9月7日あの世に先行されてしまった。

住む世界が違いすぎたというか、頼りにならない後輩にさぞかし愛想をつかれたことと恥ずかしい思いでいっぱいである。Murai1
Murai2

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2006年6月18日 (日)

忘れないということ

今忘れ得ぬ人々と題してブログに書いているのだが、今の所亡くなった方ばかりを対象にしている。
その他にこれは「忘れ得ぬ」でなく、「忘れない」になると思うのだが、父母兄弟姉妹そして祖父母伯父伯母などの身近にいたひとびとはいつも心の片隅に生きている。もし書くとなれば別槁になるだろう。

思い出に耽ることは、若い人に誇れる?老人の特権だと思うのだが、これしか生き甲斐のないのも、私の様な老さらばえた人間の残された道だともいえる。

忘れるということは、新しい古いに関係はなさそうだ。昨日今日のことでも直ぐ忘れて思い出せないことはしばしばだ。未だ若い家内なども良く忘れる。特に置き忘れなどは激しい。私は置き忘れはあまり無いのだが、聞いた事などは直ぐ忘れる。

そこへ行くと、今ブログに書いている人たちとの交流などは不思議な程憶えている。もっとも日記に書いているからでもあるのだが、日記の効用は今更説くまでもあるまい。やはり普段から心にかかった物事は書くという事で印象が深くなり、忘れぬ意識に繋がるわけだと思う。

ただ頭の中で憶えているというだけではいつかは忘れるだろうし、コンピューターの様には行かない。コンピューターでも故障も起きるし、うっかり消滅さしてしまう事だって度々ある。紙に書いても何時間違って捨ててしまうかもしれない。ことほど左様にわすれないということは大変な事なのだ。

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2006年6月19日 (月)

忘れ得ぬ人々(13)

小田博三君

彼とは学生時代の思い出は全くないと云える。
そもそも学友のほとんどはその授業の場でなく、課外の平常生活の場で親しくなる事が多い。
彼は市内出身だったから、学校寮に入らなかった、すなわち自宅からの通学だったわけである。だからクラスも違っていたし、知己になるチャンスが偶然意外になかった。

最初に知り合ったのは、確か満洲国の新京だったと思う。卒業以来半年ぐらい経ったある日、誰が提唱したかクラス会をやろうということになり、日本料亭の「青柳」に集合したことがある。全部で19名だった。その中に彼が混じっていた。協和服が板についた感じで、あまりしゃべらない落ち着いた感じの男だった。
その時も親しく語らった覚えが無い。ただ徴兵検査の結果の話がでて、部隊名を言い合った時、5名(野村、小林、述本、小田、そして私)が同じ部隊だったのに驚いた。その一人がこの小田博三君だった。その時はよろしくと言って別れた。

入隊しても中隊は違ってたし、幹部候補生隊でも、同部隊のものが二十数名もいるのだから、顔は知ってても親しく話す事はあまり無かった。近しくなったのは、私が転属を繰り返し、昭和17年11月13日第7野戦輸送司令部勤務となったとき、そこに彼がすでに早くから勤務していた。水田穣君も一緒だった。
仕事の上の先輩だから、よく教えてくれた。その丁寧さに心を打たれた。まさに兄貴の如く感じたわけである。
だが、まもなく11月24日に私は自動車第31大隊に転属させられたので、交際は遠のいた。
幸い私の仕事が、兵器情報掛将校だったので、司令部との関連業務が多く、彼のおかげで随分助かった。

昭和19年4月5日自動車31大隊は中支作戦参加のため、支那派遣軍隷下に入ったため、彼らとは別れる事になった。彼らは後に内地に帰還したと聞いている。

彼との縁故はいはばこの十日に過ぎない。しかし戦後15年目の昭和35年5月21日始めて同窓会が母校で開催され、早速出席して彼のお世話になることになった。
この時から毎年行われる事になり、私はほとんど出席しているので、出席率は第2位となっている。彼も世話人としていつも取り仕切り役となっていた。
だから同窓会では終始彼には随分世話になった。無口で温厚な彼は後に山口ガスの社長を永く勤め、地元では尊敬を集めていたらしい。
彼の自宅に招かれて、ホームバーで奥さんの接待を受けたり、同窓会の翌日に今日は閑だからと、自動車で母校界隈から近隣まで思い出の地を連れ歩いてくれたり、彼なりのしみじみと身にしみるもてなしを思い出す。

平成8年学校の会報に彼の死去が報じられていたので、驚いて電話を入れたところ、奥さんから1月27日心臓が悪くなり手術をしたが及ばなかったとのことを聞いた。
体格は私などよりずっと立派で、背は高く大人の風格が有り、いつも堂々としていた彼だが、目に見えぬ所に欠陥があったとすれば致し方ない。クラスのためにも惜しい人を失った感が深い。
山口名所の瑠璃光寺の直ぐ山上の墓地に葬られている。Oda1
Oda2
Oda3

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2006年6月20日 (火)

身体が痛い

もう何ヶ月も手の痛みに悩まされ続けている。
もっとも始めは左手の親指に始まって今は右手の親指が一番痛い。
瓶の蓋や毎朝のジャムの蓋さえ痛くて回せない。洗面器のカランは回せるのだが。
死に病にしては少し勝手が違うなあと嘆息しているのだが、こんな風にして一歩一歩遠回りして死の縁に落ち込むのだろうか。
時々は体全体の節々が痛む。身体全体が何かで締め付けられた感じである。
しゃがんでも痛い、後ろを向いても痛い。
もうやけくそで動いている次第。

しかし、しょっちゅう痛んでいた頭だけは最近は痛んだ事が無い。不思議だなあ!

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2006年6月21日 (水)

忘れ得ぬ人々(14)

田所健次君

私の大好きな男なのだが、思った程幸福な生涯を終えたと思えないので、偽名で載せる。
専門学校合格者の名前が私と一緒に神村と彼が新聞に載っていたので、あれっ、これ誰と不審に思った。
私の知らない男だった。後で聞くと徳山から転校して来たばかりの生徒だとの事だった。
一緒に京都まで受験しに行った親友は名前が無い。そちらが合格してくれればよかったのにと、がっかりすると同時に心配になった。
電話の無い時代だから声はかけられない。

が、入学してから、田所君が同じクラスにいることがわかり、直ぐ親しくなった。おとなしい、ひょろっと背の高いぼそぼそとはっきり物を言わない男だ。

1年ぐらいして、彼がどのクラブにも入らず退屈してるらしいことに気がついて、私の所属している卓球部に入らないかと誘うとすぐ応じてくれ、部長やキャプテンにお願いして入れてもらった。私同様素人だから一からの修行である。
すこし短気と見えて、ねばりがない。まなじりを決するのはよいが、簡単にミスする。
私も下手だったが彼はまだ下手だった。でもそれで却って仲がよくなった。
寮を出てから、1ヶ月後に私は彼の近所の下宿に引っ越した。
朝の賄いはお互いのすぐ近所だったから、一緒に食べ終わると同じ教室に、そして終わると同じクラブに向かうのだからいやでも親しくなる。口喧嘩程度はちょいちょいやったが、とうとう卒業するまで友情は続いた。
私が音楽好きなら彼もついてきた、映画の方は彼の方が熱心で三宅邦子のファンだったが、私は霧立のぼるの方がよかった。口争いはこの程度だった。
学業の方は彼の方が成績がよかった。ノートを借りるのはもっぱら私の方だった。

就職は私は外地志望だったから、満洲重工業系の試験を受け、9月にはその日のうちに合格し、先に父親に報告に帰った程だった。
ところが、田所君はどこを受けてもパスしない。帝人も宇部窒素も駄目だ。成績の良い男がどうしたんだろうと心配になって来た。
とうとう年を越してしまった。
ーーー(私の日記から引用する1月10日)田所が今日学校に来ない。病気でもしたかと思ったが、昨夜訪ねたときはぴんぴんしていたのだし、おかしいと思っていたが、念のため行ってみると居ない。結局晩になって彼が訪ねて来たから聞くと、就職面会に徳山に行ったとの事、再三のこととてくさっているのだろうが、又今度は目でやられた、もうどこへでも行くさと失敗した様な事を言って済ましている。なんだか可哀想である。(中略)
何しろ一昨年は石崎さん、昨年は羽村さんと二年続いて中学同窓会から徳山曹達へ入社しているのだし、今年は後続なしと思っていたがこれあるための田所の二度の不運の失敗と思えば、思えないこともない様な気がする。どうかそうであってくれれば良いと、良友田所の為に祈りたいのである。ーーー
ーーー(又日記から1月16日) 田所は我が予想に違わず徳山曹達に入った。これで同窓会も楽しく出来るというもの。慶賀すべきことだ。
 今日はほんとに楽しい日であった。ーーー
彼のうじうじしたはっきりしない性格が嫌われたのかもしれない。面接はやはり要領がいるが、かれは地を変える事が出来ない男だった。
でもよかった。彼の永年住み慣れたところの良く承知している会社に入ってよかった。

私が満洲から入営のため帰国して彼が東京支店に居ると聞き、上京して彼を渋谷に訪ねた。
しゃんしゃんやれよと励ましたが、うん頑張るといってすこし人が変わった感じがした。
戦後兵隊にも行かないで、会社に残り10年目に会ったときは課長になっていた。
一年先輩の羽村さんが彼は同期の一番だよ、すごいぞと自慢してくれた。
最新のコンピューター室を管理し、会社の成長を自慢げに説明してくれる彼に変身していた。

それからの彼がどうだったのか、私には理解出来ない。いくらたっても昇進しない。
他の先輩たちは部長重役となられたのに。
2度程彼の家を訪ねた事があるが、部下たちが訪問していたりして、なかなか人気が有るなと思ったりしたことがある。只うじうじした消極的な態度は変わらなかった。

その後も相変わらずの彼の性格から、同窓会には決して出てこない、私が世話人になって心配してるときも、どうしても会いたいから出て来いと電話したが矢張り駄目、1994年にも電話したが動かなかった。
とうとう諦めたのだが、何が彼をそうさせたか分からない。
いつの間にか同窓会名簿から外されていた。音も無くこの世から消え去った感じであった。
後で調べると平成7年3月1日天に昇っていた。悔いの残る別れであった。

Isimototamura

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2006年6月22日 (木)

忘れられない写真

終戦の前日落とされた爆弾の穴、我が家も吹っ飛ばされた。復旧には自力で数年以上掛かった。
Bombhole

無数の爆弾の隙き間で生き残った母は、このままで済まされるかと、爆弾穴を利用して作った蓮根を掘る。

Hasuhoruhaha2


中学時代の仲良し組、錦帯橋を毎日朝に晩に渡って通学した。

Nakayosi

貧しくても楽しかった新婚旅行はここだった。山口!

Kameyama

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2006年6月23日 (金)

古い戦友のたより

先日も書いたが老いるともう思い出しか楽しみは無い気がする。
そして日記などを読み返して、そのときの状況など思い返して、映画のシーンになぞらえる。
特に戦争体験、捕虜体験などは特異な経験だけに新鮮さが残る。
昭和24年の10月6日の日記にはこんなことを書いている。
「ひどい雨ではないがここ数日続く雨に家のなかまでじめじめして気持ちが悪い。僕の部屋なんか、それでなくても北側にあるので、すっかり黴臭くなってひどい臭気だ。
今日は八幡宮の例祭。雨にたたられて事にならないが、それでゆっくり休めるだけが有難い。
大井駒二君から2、3日前叉手紙が来ていたが、よく忘れずによこすと感激する。戦争中の事は何もかも忘れたい。特に対人関係は全部白紙に帰したいと強く思い、その積もりで文通も全部止めてしまっているのだが、三年後の今日も忘れずによこしてくれるのをみると、やはり嬉しい。」
とある。

戦争を忘れたいなどと書いたのはその痕の悲惨さがただ事でなかったからだ。人も我も絶望に目がくらみ、死の幸福に思い縋っていた。
戦争中終始伝令役をしてくれてた大井君など、私の身辺に連日へばりつくようにして行動していた者には、忘れられない対象だったのであろう。
彼とは後日上京する機会が増えてしばしば会う事になった。
もう一人私の当番をして個人的な世話をして呉れてた浅川孝君とは、必ず彼の勤め先の日本橋のレストランに上京の都度一回は食事に行っていた。そこのマスターとも親しくなった程だ。
この浅川君は一時栄養失調で下痢が止まらなくなり、本人は嫌がるのを無理矢理に易俗河の兵站病院に入院させたことがある。一緒について行き必ず治して帰れと男泣きして別れた。留守宅の姉さんにも手紙で細かい経過を送ったりした。翌年4月武昌で彼は元気な姿で帰って来た。そして一緒に帰国した仲間だった。

東京滞在が4、5日になるときなど、近在のものをここに集めたりしてくれたものだ。
その二人も数年前に相次いでそれぞれの訃報を頂いた。
悲しいけどこれが人間の宿命だ。Asakawa
Kyujomae
Tokyo_tower_1

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2006年6月24日 (土)

日本敗退

やはりブラジルは強かった。
全く大人と子供の試合を見るようだった。
素人の私が所見を述べた所で仕方がないが、日本人として思う事をひとこと言わして貰いたい。

ブラジルとは個人技に大きな差があった。いつかのテレビでも報道してた様に、小さいときから犬などと争って球拾いするなど、素質が違っている感じがする。
他の国とは体格差が大きかった。オーストラリアなどは20cmも身長が高く、同じ土俵で戦うには無理があった。
日本人でも背の高い人は多いのだから、その人たちに目を向けなければならない。
バイオリンなどと同じく技術の錬磨には時間がかかる。4、5歳から始めなければ本当の素質とはならないなどと思ったりする。

又戦場での経験を言わして貰えば、けものみちの様な山道を走って、戦場に向かう時、中国人の身軽さに驚いて、同等の条件下で戦ったら、とても彼らには勝てないなと嘆息した事がある。
長い時間の鍛錬がその身体を作るのだ。個人の体格を含めた素質も勿論大切だが、それだけでは世界に通用しないと思うのである。
サッカーの世界でも前途は正に遼遠である。

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2006年6月25日 (日)

植物園散歩

昨朝、雨になるかも知れんと言いながら、心せくままに家内に促されて、又いつもの植物園に出かける。
やはり空が気になるか人は少ない。
御陰でゆっくり山の上まで広く散歩が出来る。
花は菖蒲とあじさいが盛り。何人ものカメラが集中している。
往きは身体が重くて、ぐずぐず言いながらの道行きだったが、帰りは思いがけず足取りが軽くなる。
途中で拾った枯れ枝の杖も、下り坂で置いて帰る。
天候は悪いどころか、1時間もすると青空を見せ始め、軽い食事を終えて、出口に掛かった頃には夏日がかっと射す。
予報もたまには狂う。Shobuike
Shobu
Ajisai

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2006年6月26日 (月)

南瓜


戦後郷里に帰還して、爆撃で壊廃した田畠に母や弟妹の力で、僅かに稲などの生産が続いていたが、秋になるまでは食う物は無い。
もちろん僅かな配給はあったが、到底十分とはいえない。
農業をなりわいにしていても、自給も出来なくなっていた。前年の食料の貯蔵は爆撃で家もろとも吹っ飛んでしまっていた。
この時さっそく役に立ったのは、さつまいもと南瓜だった。
整地の出来ないままの土地にでも、植え付けが出来る。
又軒先を利用して棚を作り、南瓜の蔓をはわした。
これなら稲よりずっと早い。
しかし、いもはまだしも南瓜はうまくなかったなあ。
いまだにあの不味かった味は忘れられない。

我が家では今南瓜が食事に良く出て来る。凄いうまさだ。
どこのかと聞くと外国のだろうという。
今は甘い物はいくらでも口にする事ができるから、南瓜のお世話にならずとも気にする事も無いが、戦後のあのときこんな南瓜が作れたらなあと感慨深い。
昨日もスーパーで南瓜の切身を見たら鹿児島産とあった。やはりおいしかった。
(写真は左は家の周辺の爆弾痕、右は南瓜棚)Bakugekiato
Kabotya

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2006年6月27日 (火)

戦前青年の視点

最近のドラマなどの筋立てを見ると、私達の世代の戦争前後の表現に不可解なものが多い気がする。
もっともその時代に生きた作家がつくるのでないから、江戸時代や戦国時代の描写と同じく、作家の考え方でいろとりどりの解釈が出て来るのは仕方がない。
ただ前の大戦は半世紀少し前である。生存者は数百万人もいる。作家たちも自分の一念だけで書かないで、経験者からよく聞き取りして書いたらと思う事が多い。

二十歳になったら、軍人にいやでもならされる。これは明治以来厳然たる日本国民男子の義務だった。
国を守る意識の上で戦争は明らかに男子の役割とされていた。(事実はこの大戦で完全に覆されたが)
その上昭和6年以降戦争が続いていたから、軍人である以上死に一番近い事を覚悟しなければならなかった。
だから男も女もこの兵役が前提となって、結婚を考えた。
特に男は99%兵役を考えていたと思う。仮に病気などで兵役を免れても、それでは結婚もためらうのが常識であった。
もちろん男女の中だから恋愛とか交際などは当然起こりうるだろうが、先を急ぐ事情を持つ家庭以外は兵役が済んでから嫁を貰うというのがしきたりになっていたと思う。

私は中学を卒業する直前、近所に住んでいた再従兄弟が白木の箱で帰って来た。やんちゃな一人息子で、兄貴的存在だったが、よくいじめられたり、可愛がられたりしたものであった。いやでも深刻に受け止めざるを得なかった。

後3、4年もすれば、ああなるかもしれないと予感がしたものだ。
死ぬる前に出来る限り好きな事がしたいと凄く思う様になった。
上級学校に行くのも、先生や親などの意見は聞かなかった。
学生生活も自分の意志でかたくなに行動して親を怒らせた。
就職も満洲に行く事を一人で決め、親は勿論叔母たちの反対を無視した。
入営直前には1週間上京して宮城周辺をさまよい歩いた。陛下との別れのつもりだった。ひとかどの忠臣気取りだったかも知れない。
だから戦場ではことさらに身を危険に晒して、死をおそれるなど感じた事もない。
海ゆかばを歌い、昭和維新の歌を高唱し、自らの士気を鼓舞するとともに兵にも強要した。

郷土には幕末以来無数の、死地に身を投じ、或は義を重んじて自ら刃に伏した若者たちがいた。
私も先人の意志に共鳴しつづけた。
若気の至りというのはこのことを言うのだろうと、後によく分かった。

少なくとも当時は徴兵検査、兵役2年以上を先ず考えて青年期を通り過ぎた。
命を掛けて戦う意志だけは皆持たざるを得なかった。
今の若者と同列に考えて貰っては困るのである。男の社会でのと但し書きをつけなければならないかもしれないが。

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2006年6月28日 (水)

忘れ得ぬ人々(15)

沼静雄君
彼とはクラスも違っていたし、学生時代には声一つ掛けた覚えは無い。
同じ会社(満洲鉱山)に入ったのだから、入社試験時には自己紹介ぐらいはしたのだろうが、それも記憶に無い。
しかし私の昭和15年1月22日の日記に満洲就職者8名が、市内の料亭「山吹」に集ってすき焼き会をやって大いに騒いだとある。その中に沼君の名前もあるから、すぐ打ち解けて話し合ったことだろう。
そして3月16日には下関から関釜連絡船で一緒に赴任したのだから、それ以後はいやでも親しく付合った筈だ。
以下その時からの経過を私の日記から転載しよう。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3月18日
 16日朝雪を冒して出て呉れた近親の人々と駅頭の決別を最後に一路新京へと鹿島立った。
(中略)
 関釜連絡船の混めること、私の記憶に曽てなく殆ど死闘を続けたというも過言に非ず。
夜半を通じて満足に寝ぬるなし。頭脳呆然として判断力鈍りたるを覚ゆ。この時同行の士大崎、同人友相川氏、及び沼の3人なるに釜山駅に至りて電業に就職の土倉、述本、西の新たなる同士を加え、寝台車に陣取って賑やかに進む。
 話は弾みて、大いに退屈を紛らすを得たり。車窓外の朝鮮風景は赭土、灰土露出し殺風景極まりて、人心を荒廃せしむること甚だし。不愉快を感ずるに至れり。
 平壌に至る頃既に日暮愈深く我々寝台券を有せざるもの数人は寝台外のトランクその他に腰掛けて休息せざるを得ず。車外に出んとすれば、出入り口、通路混みて通過するを得ざらしむ。
 安東の税関吏の冷淡さに万人口を揃えて非難悪口をなす。
 汽車愈進みて愈睡し、遂に安東を過ぎる頃より坐せるままにて2、3時間を転睡するに至る。
 奉天に近づきて眼漸く覚め、空漸く白み始めたり。どことて同じか満洲も亦朝は美しかり。
 茫漠たる曠野に朝日は照り映えている。衆人声を揃えて感嘆す。
 新京にゴールイン。粗削りのスケールの大きなまだ完成せざる、建設途上の新興都市を其処に見た。気味悪き都と私は名付けた。
(中略)
3月20日
 昨日は先輩長谷川さんに連れられて、アルコールを飲みに行った。久しぶりの酩酊でそれこそ前後不覚に陥る一歩手前まで行った。
 今日は始めて満洲らしい寒さで夕方自動車を待つのに冷たい空っ風に震え上がった。
 沼君と帝都キネマで活動を見たがちっとも面白くないので悲観した。何だか活動も学生時代ほどの興味がなくなった。外の事が余りにも私の興味をそそるからかも知れない。
(中略)
3月23日
 新京へ出てからもう6日になる。しかし会社はまだ何とも決めて呉れないので、毎日ぶらぶらしていなければならない。今日は会社のバスで戦蹟や会社の研究所なんかを訪れ、帰途支那人の市場を見て歩いた。
 塵と埃とに塗れた街というより、小道と云った方がよい。そこに露天で或いは薄暗い何だか洞穴の様な道の両側に店を並べている。こんな所で売るのだから安いのであろうと思ったが、言葉も通じぬし、何だか薄気味が悪いので手が出なかった。
(中略)

3月25日
 昨日は日曜日だったので、総務部長以下の課長連中と面会があった。そしてその後で勤務地、所属課が決定したのである。俺はひそかに希望し、期待していた調度課勤務と決定した。先輩長谷川氏が居られるので何かと便宜だから、外の課に廻されるよりは此の課に行きたかったのである。しかし何だかあまり人を頼り過ぎて自主独立の覚悟を失うは自分を毒することだから自分ながら警戒すべき事だと考える。
 沼君が倒流水鉱山(熱河省)へ決定したので、壮行会をやるというので長谷川さんを引っ張り出し飲む。すっかり酔っ払って夜は苦しいこと夥しい。もう酒なんか飲むまいと深く肝に命じた。
 おかげで今日は各課長、部長の講和があったのであるが眠くたくて欠伸ばかりが出て仕方がなかった。つくづく自戒すべき事なりと思わざるを得ない。もしこれを度重ねれば必ずや身体を壊して再び立つ能わざるに至らしめるであろうからである。
 6時過ぎ寮に帰って見ると家からの手紙が来ていた。妹の手紙で大したことは書いていない。大陸的なルーズに陥るなかれとは盖し名言だ。心すべき事と思う。
 
3月26日
 初出勤の日。調度係主任石原紫朗氏に会って、色々な事務に就いて、その他打ち解けたお話を伺った。その後長谷川さんの所の仕事の手伝いをする事にきまり、早速帳簿付け等をなす。仕事をするのが面白いので一生懸命やった。それでも新米の事とて記入するのが間違いはしないかとひやひやした。そして電話だけは苦手だ。
 5時頃になって仕事を片付け長谷川さん、沼君と一緒に映画を見に行き、続いておでんやで酒とおでんとご飯を摂る。酒が何だかいやで堪らなかったので、なるべく飲まぬ様にした。次いで新京会館に行ってダンスを見た。ネオンライトに映し出された色とりどりのドレスを着た踊り子たちの哀れな姿を見ると何だか哀感に襲われるのであった。
 それが済むと又おでん屋に入る。もう酒は嫌でちびりちびり唇をしたす程度で止めた。だから少しも酔いはしなかったし、自分もよかったと思っている。

3月28日
 昨日沼君が倒流水に赴任するについて壮行会を行なった。新京一と云われる銀パレスから野末のカフェーまで歩き廻って、深更に至ってふらふらする足に鞭打ってどうかこうか自動車で東光寮に帰った。
 床に就くや酔いがぐっと頭に来て落ちる様に眠ってしまった。
 翌日の今日は朝起きると頭が痛くてむかむかする、おまけに腹具合も良くない。これでも会社に出なくてはならないかと思うとうんざりする。朝食を摂りに食堂へ行くにも足がふらふらして何だか船に乗っているみたいな気持ちになった。
 それでも味噌汁を啜るとどうやら気持もよくなった。
 会社へ行っても何だか頭がぼーっとして意識を分明でない。これだけはどうにも出来ない気持であった。おかげで屡間違えをしでかす。その上今日は恐ろしく仕事が多くてやってもやっても後から後から仕事が出来て全く伸びてしまった。それでも頑張って漸く6時過ぎに片付けた。大抵の人はもう帰っていた。
 これだけの仕事をやってのけた後は流石に何だか嬉しい。
 新京に珍しい雨が降った。恐るべき胡沙が吹く風につれ一面に新京の空を覆っていたと見るや、まもなく雨が降り出したのであった。とにかく満洲の風のすさまじいのには驚いた。
 何処からも便りがない。沼もまだ帰らぬ。ほんとに淋しい晩だ。

3月29日
 沼君は同行の社員たちと賑やかに熱河に旅立った。
仕事があるので、会社の入口で別れた。幸運を祈るや切なり。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼とはほんとに十日間の一期一会だった。
文通もしたかどうか憶えてない。貰った手紙もない。日記にも記載がない。
しかし何故か今気になって仕方がない。ひょっとしたら私が本社に残り、彼が辺境に地に追いやられたという運命の差を、心の底で引け目に感じているのかも知れない。

彼の赴任した熱河省は当時でも治安状況の一番悪い地域であった。半ば彼が希望して赴任したと記憶しているのだが、それは彼の熊本男児としての矜持がさせたものと思っている。
私以上に根性の座った快男子だった。勇んで逆境に赴く気概を持っていた。
彼も当然兵役があった筈だが、どのようにしたのだろうか。

しかし戦後60年以上経っても彼の消息は分からない。私もあらゆる機会を利用して尋ね回ったが知る人はなかった。
学校の消息欄にも行方不明者として名前だけが載せられている。
学校に届けられた住所も下宿先が載ってるだけで、その下宿も随分前から所在不明である。只本籍が熊本県とだけある。これだけでは捜し様が無いのである。
(写真は彼から記念に貰ったと思われる彼の水泳写真ー彼は水泳部だった)Numa

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2006年6月29日 (木)

忘れ得ぬ人々(16)

松田房夫君と時岡のおばさん

私の思い出の中からは、この二人を別々には語れそうにない。
松田君はたまたま私が下宿することになった時岡さんの家に、ずっと前から下宿していたという因縁があった。
彼は母屋の二階に、私は別棟の茶室風の離れをあてがわれた。もちろん素人下宿である。
ご主人は元県庁のお役人だったらしく、停年後数年は経ってた感じであった。
松田君のお父さんと仕事かなんかでお知り合いで、頼まれて中学校時時代から下宿させていたらしい。
だから私は2年足らずだし、彼は7、8年居た事になる。彼はもう家族と同じ感じであった。
同じ家でも離れているのだから、一級下の彼とは朝たまに顔を合わせておはようを言うくらいのもので、言葉を交わす事はなかった。

ある時私は体操の時間にハンドボールに夢中になってた時、膝を逆にひねって転び、捻挫してしまった。
1ヶ月ぐらい接骨医に通うことになった。下宿のおばさんが松葉杖姿に驚いて、何にも出来なくなった私を母親代わりに手を添えてくれ、食事を賄いから取り寄せてくれたり、掃除をしてくれたり、しばらくは親身にお世話になることになった。
この時をしおに急速におばさんに親しみをおぼえる様になった。
朝の洗面や夕方の入浴以外にも、お茶菓子の接待をうけたり、まだ小学生の姉妹がいたのを、蛍狩りに連れて行ったり、家庭との付き合いもするようになった。

そのうち何時頃か松田君がアコーディオンの練習をやり始めた。私も音楽好きな方だから、ことさら気にする事は無かった。しかし後日分かったことだが、音楽会で演奏するための曲を毎日何時間も練習し始めた。これにはいささか参った。二階と離れだからかなり離れているのだが、何せアコーディオンは音が大きい。それを一生懸命に練習するのだから益々大きな音になる。だが夜やるのでないので私は専ら部屋から逃げ出す事にした。

少し以前から音楽好きな上級生や仲間とディスク同好会なるものを立ち上げ、市内の百貨店レコード部と提携して、洋楽の新譜発表会を主催したり、レコード鑑賞会を持ったりすることがあった。
そして彼もそのうち入会して来た。こうして、ごく自然に親しくなった。

彼は酒造家のぼっちゃんだから、お金の融通が利き、高価なレコードを購入して、蓄音機ともども私の部屋に持ち込み聞かしてくれたりした。
私は残念ながら、貧乏学生だから普段は音楽喫茶でねばるのが仕事みたいなものだった。
彼からの恩恵は正に旱天の慈雨で、竹針の先をカッターで切るお手伝いしながら楽しんだものだ。

そのうち隣家とも接触が出来たりして、私のこのころは随分楽しい明け暮れで終始した。この楽しさは終世忘れ得ぬものだ。
卒業の翌年には、軍隊入営が待っていた。就職地が新京だったせいか関東軍に入営命令が来た。
昭和18年ある上官の見舞いに斐徳(満州国東安省)の陸軍病院を訪れた際、患者の中から私の名を呼びかけた兵隊がいた。これが松田君だった。重砲部隊に入隊し訓練中キャタピラに足を踏まれて骨折したとのことだった。
その後半月ぐらいして私が盲腸炎で入院することになった。入院してすぐ開腹手術をしてうなっている最中、彼が牡丹江に後送されることになりましたから、挨拶に来たと言う。
内地に帰れるかも知れんからいいじゃないかと痛む中から声をかけたことを憶えている。

彼の部隊は後日バシー海峡で潜水艦にやられ、ほとんど全滅の悲運にあったと聞いた。このことは何度か「人間万事塞翁が馬」と題してホームページに載せたりした。

時岡のおばさんとは戦後もずっと文通がつづいたが、昭和32年11月28日時岡宅を訪れたことがある。
すでにおじさんは亡くなられ、おばさんは息子さんのいる和歌山県白浜に移住して居られた。
留守居の方にお願いして仏壇を拝ましていただいた。

時岡のおばさんからはその後この夏一度郷里に帰るからそのとき会いたいと手紙を頂いた事がある。待てど暮らせどお呼びがかからないうちに娘さんから訃報を頂戴した。

松田君については、親の跡を継いで醸造業にいそしんでいると、友人たちから聞いていたが、昭和56年3月26日夜東京在住の当時隣家にいた娘さんから42年振りに突然電話を頂き、松田さんから聞いたと言って私が無事生還したことを知ったと喜んでくれたことがあり、間接的に彼の活躍ぶりも聞くことができた。
しかし遂に再会を果たす事無く、平成8年11月1日亡くなったという校友会報の消息記事で彼の他界を知った。
(写真は左から松田君、隣の娘、下宿の子供ら)
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2006年6月30日 (金)

忘れ得ぬ人々(17)

斉藤七郎君
山口に居た3年間、共に一番よく遊んだ友達だった。
中市に旅館を経営している家の息子で、おっとりして気の優しい、余り勉強はしない男だった。
彼の家が街のど真ん中にあり、その一角に彼の家の貸家の昭和という喫茶店があった。もちろん目抜き通りに面していたし、主にクラシックを聞かせる店で、学生には人気があった。
試験のときなど、11時を過ぎて(かんばん後)斉藤君の庭を抜けて裏から入り、音楽を聴きながら勉強したりしたものだ。
どちらかというと無口な方で、趣味は無いに等しかったと思う。人が喜ぶ方について喜ぶと言った感じだった。
夏は椹野川まで行って泳いだりした。椹野川名物の蛍狩りは最初は彼の案内だったと記憶している。

軍隊に入って彼が同じ部隊に居るのに驚いた。他にも6名同級生がいたのだが、他の連中はほとんど満洲の会社に勤めていたので早くから知っていたが、彼は入隊してから始めて居る事を知った。
相変わらずのぼんぼんで、軍隊が好きなわけが無く、幹部候補生は志願しなかったと聞いている。
だから、中隊は違うし一度も会う事はなく、そのうち私が東京の幹部候補生学校を終えて帰隊してすぐ他の部隊に転属させられたりしたので、その後の彼の消息は知る由もなかった。

後日風の便りで彼も他の部隊に転属させられたとも聞いていたが、戦後仕事の関係で山口で1泊しなければならなくなり、斉藤旅館に泊めてもらった事がある。そこの人に聞いた所戦死されたと聞いていますということだった。
戦死とは輜重隊では珍しく、体格もよい呑気な彼がどうしてと思ったが、嫌な軍隊で生きる意欲を失ったのかも知れない。
学校の名簿でも削除されており、永らく思い返す事もなく、非人情に過ごしていたが、最近の会報を見ると、彼の姪御さんが卒業アルバムを学校図書館に寄贈された旨、記事が載っていた。それを見た途端、彼の母校を愛する魂は生きていたんだとショックを感じた。
Ssaito

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