« DVD録音 | トップページ | 長沙 »

2006年5月15日 (月)

私の戦場初体験

この世の中はいつ何が起きるか予想はつかない。
だから私は何事も自然に逆らわない様に勤めている。特に先にあきらめて掛かるのが私の趣味のようなものだ。即ち前途を楽しみに半ば夢想して過ごす。
人と争うことは嫌だ.憎むこと恨むことも嫌、人ごとに介入することは特に嫌いだ。

ところが、軍隊に入って、私の夢想はことごとく壊され、閉ざされ続けた。
何事も強制された世界で、何一つ自分の意志で事を通すなど出来っこなかった。言わば人形師の居ない操り人形だった。
軍隊である以上何時かは戦争を体験することになる事は勿論覚悟していた。そしていつの日か死に直面する事になるだろうとも思っていた。

私は昭和19年1月26日部隊の材料廠長に任命されたばかりの、所謂民間から徴兵で現役部隊に入隊し、予備役編入後即徴用された幹部候補生上がりの将校だった。
私が新たに勤務することになった部隊はこれ又対ソ戦に備えて昭和16年6月急遽動員された東京周辺の兵隊の多い招集部隊であった。当然兵員と私の関係は全く馴染みの薄いものであった。

私たちの部隊独立自動車第31大隊はソ満国境警備に就いていたが、昭和19年4月5日に駐屯地の東安省斐徳を貨車輸送で出発して、4月13日蕪湖から揚子江をフェリーで遡江し、武昌に入ったのが4月26日だった。

もちろん部隊の行動は上級司令官の臨機の命令による。誰も予定を教えてくれるものはない。
私の材料廠長任命も熟年の前任者を召集解除してのものだったから、この作戦従事を予定してのものだったかもしれない。勿論私一人だけでなく部隊長以下大幅な人事異動が同時に行われていた。

同年5月10日第1次湘桂作戦が始まり、5月30日武昌を出て、150キロ南西の陳家屯という所に移動,待機、6月30日やっと作戦行動を開始して、全軍の最後尾付近をのろのろと前進を始めた。

主として夜間行動が多いので、交代で運転しながら他の兵は幌付きの荷物台で雑魚寝が普通だが、間もなく道路が敵の破壊等でなくなり、山の稜線を走る事になる。平坦な所は一つもない。こうなると一般兵も落ち着いて寝ては居られない。下手をすると、車ごと転落、転覆するかもしれない。もちろん間断なく襲って来る、敵機の空襲に備えて無灯火の行進だから、ボンネットに一人座って誘導したりする。

敵の空襲の激しさに部隊は延々何十キロに亘って、他部隊の車両の間に混じって散らばってしまい、部隊命令は初期のもの以外は全然到達せず、我が自動車部隊は典範にもない、訓練もした事のない事態に遭遇していた。

夜が明けると、敵の飛行機には格好の目標で、ほとんど無抵抗な目標物を思う様に攻撃して来た。友軍の飛行機は始めの1週間ぐらい飛んで来て援護してくれてたが、間もなく壊滅したらしく、制空権は敵さんのものだった。
私は部隊の兵器係を兼任していたので、車の損害を掌握する義務があったのだが、そんな事など出来る訳がない。
無線機一つ持たない部隊だから、何事も伝令を走らせなければ事が足りない。
各部隊混在の山稜線道路だから、車から離れて、へとへとになる程歩いても何程も先へ行けない。

朝になると車を隠すのに忙しく、空襲が始まると兵はクモの子を散らすが如く逃げ隠れた。情けないとも何とも言いようがない。30歳前後の家庭持ちの多い召集兵の部隊だから、飛行機と戦う意欲などは全然ない。
始めの2、3日は鉄砲を向ける兵もいたが、敵もさるもの直ぐ反撃して来て反復銃撃を繰り返すので、却って危ないと止めてしまった。

運悪くガソリンタンクに銃弾を受けた車両は、炎上するし、弾薬を積んでる車はいつまでも破裂を止めず、車の渋滞に拍車を掛けた。

初め頃はダダッと銃撃されて、身体が震えて止まらなくなる経験もした。やはり覚悟していても死の恐怖は考えている以上のものだとわかった。
先日も書いたが、P-40に追っかけられて、もう終わりかという体験もした。
たまに、如何にすべきか迷って、部隊本部を徒歩で捜し廻ったが、その所在が掴めない。途中であった他の中隊長に相談しても、夜逃げしたのかななどと茶化されてことにならない。

8月2日長沙に着いてやっと連絡がとれる始末。どうやら飛行機に追っかけられて姿を隠すのに精一杯だったらしい。ぞろぞろと山の峰の一本道をもつれ合って行くのだから、いずれ先で会えるとの思いがあるから誰も無理して急いだり、横道へそれるなどという事はない。上も下も安心しての?行軍で、相手のある事とて予定通り作戦が進むわけがないと皆承知していてのことだった。

骸骨だけになった車の残骸が道路脇や山上に無数に取り残された。
長沙に入るごろには、延々とそこら中、友軍兵士の転がっている姿が目に入る。元気なのか病気なのかわからない。
たまに水をくれと手を振る兵士や気息奄々の応答も出来ない兵士も居る。
はじめての生の戦場はやはり凄かった。絵に描いた様な勇ましいものとはまるで違っていた。

私自身も、一番最初に困ったのは、足の指に出来た水虫、うじゃけて靴が履けなくなった。自動車部隊だから運転台にはだしで乗ってればよいのでよかったが、歩兵なら即刻落後するところだろう。
そして山頂を行くのだから、水の補給は大変だったし,来る日も来る日も、乾パンだけの食事にも参った。
雨は少なかったが、却ってぎらぎら輝く太陽に皆疲れた。

後方を行く新米の我々の戦争とはこんなていたらくだった。5月10日の作戦開始地点から2百キロ行くのに地上の敵は全く見る事もなく、只腐敗したり、白骨化した敵兵や馬の屍体にたまに遭遇するだけで3ヶ月経過した。
すでに今遥か2百キロ前方の衡陽を攻撃中の友軍部隊はさぞかし大変だろうなと、勇敢で経験豊富な同胞に頭を下げるばかりだった。

|

« DVD録音 | トップページ | 長沙 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/157907/10079689

この記事へのトラックバック一覧です: 私の戦場初体験:

« DVD録音 | トップページ | 長沙 »