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2006年5月31日 (水)

捕虜生活

戦後になってアメリカの捕虜になったものの話など聞くと羨ましくなったことがあった。そしてシベリアに送られたソ連の捕虜(?)の話を聞いて今度はその哀れさに憤った。
私の捕虜生活はそのどちらとも違っていたが、放任という自由があっただけに救われた思いが未だに残っている。
鉄条網はおろか境界もない。どこへ出かけようと自由である。
いつだったか公用で軍司令部のある咸寧に行く時、一人で汽車に乗った。賀勝橋から咸寧まで(いずれも中国湖北省)1時間だが、4、5両連結の列車はすし詰め以上で,機関車の冊回りや石炭車の上までぎっしりの人人である。こちらはむろん金を払った覚えはないが、一般の民衆は金を払って乗ってたのだろうか。運転は日本兵だし、汽車は日本のD番号だった。
戦争終了後もしばらくは日本軍が運営していた。
検問もなければ咎める人も居ない。軍服のままでなんでもなく行き来出来た。平和と言えば平和であった。
夜など唯一の盛り場であった賀勝橋の駅前(といっても駅舎があったかなあ、記憶にない)の商店街では、沢山の日本兵捕虜がうろうろ徘徊していた。
食堂などに入ると、見知らぬ中国人に酒を勧められ、コップいっぱい一呑みに呑む彼らの習慣作法に辟易したものである。
ただ、それでいて、三民主義青年団と名乗る民兵みたいなものが、漢奸狩りと称して、おそらく日本軍に協力したものだろう、しょっぴいて来て、街外れの広場で銃殺していた。つぎつぎと私が見たときは4、5人いただろう。死にきれずに夜通しうめいていて、眠られなかったことを憶えている。
その広場の一角には町民の便所が十数人用2棟あり、戸のない大便所は我々にはちょっと戸惑う代物だった。
朝などいっせいに横向きに並んでしゃがみ、用足しする姿は壮観とも言えた。もちろん女性はいない。彼女らは家の中で処理するとか。
ある時、押収した花柄の奇麗な琺瑯製の洗面器で顔を洗っていて、彼らに笑われたことがあったが、それが彼女らの便器であった。
この街へ来るのは部隊本部がここにあったので、本部に用事のある時だけで、普段は4キロ離れた農村部落の民家が私たちの収容所だった。
こちらは後ろの方に屋根付きの大きな便槽があって、板で橋渡しをしてあり、その上に股がって大便をする。後ろと言っても見通しがよいので日本の様に隠し所とは言えない。

軍の薬品を使って、施療所を開設していたので、住民がいつも押し掛けていた。何処の国でもただが一番よい。
虎に食いつかれたという大怪我をした、住民が担がれて来たりした。
虎がいるのかと驚いた。後日虎刈りをしてくれと住民に唆されて、近くの山を巻き狩りしたことがあったが、獣道は四方に張り巡らされていて流石に気持ち悪かったが、とうとう出ては来なかった。
ハリネズミかセンザンコウか知らない不思議な動物を持ち込んで来るものもいた。田舎の住民は皆人なつこかった。
ただでは悪いと思ってか、施療のお礼に勝手に持ち込むのである。

ただ、無性に腹が減った。1日300gの米では、1食めんこにお粥でせいぜい6分目である。
なけなしの身の回り品と交換で、近くの民家で茶碗一杯の飯を恵んでもらったことも何度かあったりした。
近くの小川や沼は絶好の釣り場だった。ゲンゴロウ鮒がかなりいたが、すぐ取り尽くした。ハヤは無数にいたがこちらはあまり腹の足しにならない。野草は食えるものは何でも食った。春先には蛙が一番おいしかった。
とにかく1年近くに及ぶ耐乏生活は、後には動くことさえ容易くはなかった。
同居していた、中国人の老人でも没法子(めいふぁーず)だ、死ぬを待つだけだと何もしないで寝ていた。

兵隊たちも寝たり起きたりの毎日が続いた。要は少しでも空腹を忍ぶのが一番重要だった。
それでも娯楽は麻雀をトップに凄く盛んであった。器用な兵隊が駒をつくった。
演芸会も盛んだった。東京周辺の兵隊が主力だったから芸人は多かった。
自由放任というのはこういうことであった。

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