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2006年5月16日 (火)

長沙

昭和19年8月2日遅ればせながら長沙に入る。
先に到着している部隊本部の指示する市街の真ん中の廃屋を利用して宿泊地を設定する。
勿論任務が補給修理にあるので、それにふさわしい場所を選定する。
輸送任務のある,各中隊はすでに長沙ー易俗河間約100キロ間のピストン輸送業務に参入している。
各中隊ごとに区画分けされて,リレーする事もあれば,通しで搬送することもある。集荷場所から次の集荷場所までで、第1線部隊に直接配達する事は,軍直轄部隊である我が部隊にはなかった。即ち第1線からは遥か後方の輸送隊だったわけである。本来なら一番安全な部隊なのである。
しかし現代戦は空中からの攻撃があるから、100%安全と言うわけには行かない。
我々の区間だけで焼かれて骸骨になった車が、私の数えたところでは80台以上あった。もちろん全部うちの部隊ということではない。それまでにこの区間を通過して前進した全部隊の中のやられたものである。
昼間は廃屋、樹木、土塀などの蔭に遮蔽し、夜間に行動するパターンは終戦まで変わる事はなかった。
だから渡河点などどうしても明かりを要する場所は特に空襲を激しく受けた。だからその近辺が焼かれる車が多かった。遮蔽場所がないし、退避するのに時間がかかって朝になったりするわけである。

8月下旬赤痢にかかった。食事が原因と思われるが具体的な事はわからない。下痢が激しくて、一日40回ということもあった。世間慣れした当番兵が椅子に穴をあけ,下にバケツを、ベッド脇に置いてくれたので、簡単に用足しが出来た。20日ぐらいかかったので、9月1日部隊前進には置いて行かれる事になった。もちろん側近のものだけ残り、隊は部隊とともに前進した。
9月に入り,ある日米軍B24の4,50機の大編隊が襲撃して来た。絨毯爆撃で半分は焼夷弾のようだった。
破壊力はさほどなく、後で付近を見て回ったが、すでに破壊され尽くしている長沙市街だから大火災になることはなかった。
我が隊にも、2台車が残っていたが難を免れた。
状況報告に地区司令部に出かけたが、その際係員から映画の上映が司令部の地下広間であるから、見に来いと招待を受ける。映画の題名は『新雪」だった。
字幕が支那語になっていたが、こちらには関係はない。凄く感動した。映画など見るのは何年ぶりだったろうか。
終世忘れ得ない思い出である。もう一度見たいと気をつけているのだが、再上映という話を聞いた事がない。
青い山脈によく似たいい映画だったが。
司令部近辺には沢山の日本兵が座ったり,寝転んだりしてごろごろしていた。何のためだったか未だにわからない。
2日後部隊を追求する。
部隊本部は湘潭県上田冲、我が隊は本隊は板塘に1隊は衡山に駐留することになった。板塘は地図上広東橋となっていたので、その通称に従った。
私のブログに出て来る広東橋は軍の陣中日誌に記載されてる正式名称「板塘」のことである。

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