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2006年5月19日 (金)

そうせい侯

又又戦場での話である。
長沙まで行く途中、米軍飛行機にこてんぱんに叩かれて、私の気力は萎え切っていたと思う。
おまけに赤痢にかかって、体力もすっかり落ちた筈だ。餓鬼の様になってただろう。
後に軍医がよく助かったなあ、完全に危篤状態だったのにと洩らした。
もちろん自分では死ぬとの意識はまるでなかったが。

一応病気が回復したので、約100キロ南方の広東橋に居た我が隊に昭和19年9月中旬やっと追いついた。
そこでは既に修理工場を開設していたのだが、隊長の私が居なくとも業務は何の遺漏もなく進められていた。
正に私の出る幕はなかったわけである。
材料廠というのは技術屋集団の別名みたいなものだから、一般修理は勿論、無くした器具、壊れた部品など思いも掛けない様な仕事も出て来る。
兵隊の中には板金十数年、鋳物十年、旋盤8年、電工何年などなど、民間で多年の経験を積んだものばかりである。
素人の私はふんふんと感心しながら、彼らの仕事ぶり眺めるだけの生活といってよかった。
自動車修理といっても、各中隊にもそれなりの技術者がいて、パンクや部品交換などは勝手にやるのだから、工場を開設しても当座はそれほど仕事は無い。
遊んでいてはもったいないからと、宣撫工作に力を入れ始めた。そうでないと私の出る幕が完全になくなるせいもあった。
犬養兵長、池本兵長、河原衛生伍長などなどよく働いてくれたなあ。考えてみると敵情のある中、敵国の人民の中に単身で入り込み、施療したりなど口実を作って彼らと接触し、花咢郷地区の治安を保ち、僅か3、40名の部隊を平穏に過ごさせてくれた。
食料など軍から殆ど支給はなく、自給に任せられていたのだが、飢えることも無くまあまあの食事で過ごせたのだが、犬養始め給養担当の3、4名は魔法の杖でも持っていたのだろうか。
一度でも私が口を出したことは無いし、相談を持ちかけられたこともない。

考えてみると、当時まだ23、4歳の若造の私に対して相手は大部分が妻子を持ち、若い者でも私より何歳か年上のものばかりだった。先に述べた様に技術的経験は大したものであった。
桂林に入ってアルコール工場建設の命令が出ても慌てることは全然なかった。
1、2ヶ月で自動車を走らせ、部隊に輸送業務を実行させるまでになった。
幕末長州の毛利侯が家臣の言上になんでも「そうせい」といったという話があるが、それでも名君の名が高い。
私は名は高くなかったが、「そうせい」で過ごさざるをえなかった。

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