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2006年5月 1日 (月)

それぞれの休暇

主人の姪の結婚式出席のため、昨日東京から帰って来た次女が、置いて来た子供らが心配で昼には大いそぎで帰京する。
デジカメで撮った結婚式の写真など41点が我が家のパソコンにコピーされる。
東京の孫たちの健在振りも記録されている。老人夫婦には何よりの土産である。
婿はゴールデンウイーク中、郷里の生家の片付けに精出すとのことで、この度はその謦咳に接することは出来ない。
海外など遊び歩く仲間たちをよそ目に、止むに止まれぬ絆に縛られて、折角貰った休暇をそれなりに有意義に過ごす訳である。浮かれ歩く人たちだけで、この日本は存在している訳ではない。
Tiyo_return_1

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2006年5月 2日 (火)

火も又凉し

「心頭を滅却すれば火も又凉し」という格言があるが、昨日は何となくその実例にあった気がした。
家内が昼前、娘の帰京を送って広島駅まで出かけたが、帰って来るなり、汗を拭く間もあらばこそ、ドレスをそこら中に脱ぎ捨てて、暑い暑いの連呼。こちらまで熱い風に吹き当てられた感じで驚く。
そういえば室内の寒暖計も30度近くなっている。
私はいつもの調子でパソコンに熱中して、作文に余念がなかったので、いっこうにこの暑さに気がつかなかった。
そういえば毛のジャケツが少し邪魔かなと、言われてから気がつく。
『心頭を滅却すれば氷雪も暖かし」という格言はないが、こちらはよく経験したし、挙げ句風邪をよく引いたものだ。
夏はその心配がないので、これからの消夏法には案外これがいいかな。

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2006年5月 3日 (水)

結婚記念日

今日は私と家内の結婚記念日である。
1950年(昭和25年)の今日5月3日、半ば廃屋の我が家で挙式した。親族総勢合わせても20名足らずだけの、披露宴を兼ねたものであった。何しろ爆撃で僅かに残った建物を修理した器だからそれ以上は入らない。
まことにささやかなものだった。だから記念写真も勿論ない。(そんな時代ではなかった)
それでも夫婦仲に異常はなく、お互い殆ど入院することなく、56年が過ぎた。
こんなに長く続くとは思わなかった。
人並み以上に波乱に満ちた生涯だった。先祖の財産は完全に失った、事業も倒産したり、転業を7、8回も繰り返したり、いつ家庭が崩壊してもおかしくはなかった。
よく付いて来てくれたと感謝以上のものをいつも感じている。
未だにお互い元気で福祉のお世話になってはいない。
後いつまで続くか、運任せとしかいいようはないが。

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2006年5月 4日 (木)

自衛論議

憲法改正論議が盛んである。
その本旨は自衛を明文化するということにある。
自衛ということは、敵が居て攻撃されるという前提がある。そしてその敵と戦うことを意味している。
戦えば勝たなければ意味がない。負けて国を失い、残された国民は他国の支配に委ねられるということだったら、戦う意味はない。

戦うということは、言葉で言うほど簡単なことではない。日常生活の暴力沙汰程度の単純なものではない。
まともに自衛力を作り上げるとなると、現在の自衛隊ぐらいで良いかという問題が直ぐ起きて来る。
先の大戦では、国民の総力を挙げて戦ったけど勝てなかった。
幸いに、多大の犠牲を強いられたけど、今日の如く復興出来た。
しかし原子力戦争が予測出来る次期戦争では、生半可な自衛力では太刀打ち出来ない。
真に国を守るというなら、希望者だけが自衛隊に入って訓練するというのではおかしい。それこそ韓国などと同じく国民皆兵制度でなくては、理屈が通らない。

国民全員が平時から、意識と実行力を身につけていなければ役に立たない.
明治維新前の武士と同じである。専門職のものだけでは戦いは出来ない。偉大な教訓が百年前に存在している。

憲法改正論議がそこまで進むかどうか、嫌なことは人にさすでは済まないぞ。
私自身は軍隊に入る前から、徴兵は覚悟していたし、各学校の戦争訓練は十年近く受けていた。それでも実戦では勝利を得ることは出来なかったのだ。Kogun
Akiyosidai
ClassKinrohosi

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2006年5月 5日 (金)

雑感

先日のNHKテレビで見た江戸時代の算術についての報道には驚いた。これだけ優れた学問があったということ、そしてそれを受け継ごうとしている人々がいるということにだ。
私の親爺の青少年期には、どこで習ったか可成り勉強したらしく、私が中学校時代に親爺に算術の問題を仕掛けられて、解けずにダメを押されたりして悔しがったことがあったりしたもんだ。
そろばんなど日本古来の学問もITなどに押されて霞んでしまっているが、昔でも凄い思考力で算術という学問を築き上げたことがあったことを忘れてはいけない。それが現代の学問の根底にあるからこそ、科学の進歩を揺るぎなきものし、安定さしているのではなかろうか。

昨今は外部から入る刺激に目がくらんで、じっくり思考する時間がない。思考するには基盤に安定した豊富な記憶がなければならない。
記憶は幼少期でなければ、本来貯蓄出来ない。
現在の時代趨勢にばかり捉われた教育で、果たしてこの将来に備えた学問の基盤を作りうるのであろうか.甚だ疑問とせざるをえない

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2006年5月 6日 (土)

アンインストーラ

パソコン業界の改造進歩の早さは今に始まったことではないが、本体だけの早さなら何とか付いて行くのだが、一旦変わるとなると、付属機器をどうするかが大問題である。

つい半年前私の使っているMacを一つ上のクラスに替えた。DVDの作成可能と、HDが160GBというのが魅力だったからである。
ところがプリンタとスキャナが使えない。古い方に転送してはそちらで作るという2度手間をかけて、処理して半年過ぎた。

だんだん手間を掛けるのが嫌になって、ソフトのバージョンアップは出来ないものかと思って、ある時そのメーカーのネットに入って調べてみると、どうやら対応したソフトがあるらしい。
早速ダウンロードして使ってみると何のことはない、先ずプリンタが簡単に使える様になった。
すでに新しいプリンタを買ってたので、ちょっと急ぎ過ぎて損したなと思った。
同じ調子でスキャナをと、ソフトを捜してダウンロードして、試みたがこんどはうまくゆかない。
手を替え品を替えてみたが、やはりだめ。生憎連休に引っ掛かってサポートに連絡も出来ない。休み明けにでもするかと、あきらめていた。

永年独学で誰ともパソコンの話はしないまま、今日まで来た私の師匠は、ネットか雑誌である。
たまたま寝転んで古い雑誌をめくっていると、同じ様な悩みで苦しんでいる人が投書していた。

機器類のドライブには古いソフトをアンインストールしないと、変更出来ないのがあるということが分かった。
単純にバージョンアップして上書きだけしたのではダメな場合があるというのである。
さて、それではアンインストール・ソフトがどこにあるのだろうと、もう一度メーカーのネットに入って捜したがわからない。

念のためインストール・ソフトをもう一度ダウンロードして、インストール・タグをプルダウンしてみた。あった!
そこにインストール2通りと、アンインストールが選択出来る様に、隠されてあったのである。

これだというので、先ずアンインストールをクリックしてダウンロードし、完了を見て、すぐ改めてインストールをクリックした。インストール完了してすぐ、スキャナをセットして試みた、なんのこともなく奇麗な仕上がりとなった。
休み明けにと思った連絡もしないですんだ。
もう少し早く気づけば損もしなくてすんだにと独学者は悔やんだ。プリンタは4台目を買ったが、スキャナはフィルムを入れて3台目で済んだのである。

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2006年5月 7日 (日)

エタノールエンジン

ブラジルがエタノールエンジンに力を入れているということは最近何かで聞いたことがあったが、今度こちらを訪問した中川農相が、ブラジルとサトウキビの生産に協力して、エタノールの増産と活用を全世界に呼びかけることを約束したという。
私は60年以上前、自動車部隊の材料廠長(部隊の自動車部品燃料の補給及び自動車修理を担当する中隊の長)として、戦場でガソリン不足のため、輸送が困難になり代替燃料として、甘藷や焼酎などからアルコールを生成し、自動車の部品を改造したりして、自動車を走らせたことがある。

専門知識を持たない我々が作った燃料であり、車だから到底使い物になる訳はなかったが、ガソリンがなければ車は動かないし、戦争続行は不可能だったから、わらでも掴む思いだった。
実際に走らせたのは、鉄道線路を利用して、車輪をトロッコのそれと交換し、夜間空襲を避けて輸送するという、非常手段によるものだった。なんとか実現出来て、軍司令官の賞詞を部隊として頂戴したのだが、(正確にいえば、部隊長に司令官から口頭で、その予定を告げられた訳だが)終戦直前だったので、うやむやになってしまった。本格生産に入る前に、駐留していた桂林を7月に撤退しなければならなかったからだ。
今になって思えば全くの笑い話に過ぎない。

しかし最近になって、広島県芸北町の大朝小学校で食用油の廃油を生成して、作った油でジーゼルエンジンを回して、学校のバスを運行していることが1年も前に新聞報道された。またごく最近では東京とかあちこちで矢張り同じことを企て実行している話がテレビ報道されたりした。

そこに今度はサトウキビの増産から始めようという訳である。
ガソリンに取って替わるためには、凄い技術の向上が必要であろう。値段もガソリンのそれ以下にならないと勝負出来ない。燃焼速度も遅いから、ロータリーエンジンの如く一方向に燃焼を続けるエンジンでないと無理だろう。
又供給手段も天然ガスと同じく、全世界的に施設が網羅されなければならない。
前途はまことに多難といわざるを得ないが、有害ガスの問題もあり、資源枯渇の憂いもあり、是非実現して欲しい問題である。
私には縁もゆかりもある問題だけに、強い関心を持たざるを得ない。

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2006年5月 8日 (月)

広東橋の一夜

戦争末期、もう退却しかないなと自覚していた当時、中国湖南省でも最南端に近い祁陽の山茶花畑の中に、隊の全車両を秘匿して、8月4日頃から駐留中だった。 連日空襲に来る敵機が珍しく現れないなと、住民から購入した豚一頭を調理して60名の隊員に食わしていたときである。 珍しく本部から伝令が、隊長集合の命令を伝えにやって来た。すぐその後について本部に行った。 部隊長命令は「戦争は停戦された。部隊は所期の目的地長沙に向かい、昼夜に関係なく速やかに前進する。各隊は各々妨害する敵あらば排除して前進すべし。」というものだった。時正に昭和25年8月17日だった。 翌早朝出発して約300キロ走り、元方面軍司令部のあった衡山に宿営するつもりだった。 この方面の輸送を受け持っていた時度々訪れた事のある、山紫水明の地であった。 到着時は夕刻に近かった。すぐ市街入り口の路上に停車し、指揮班長以下3名に偵察を命じた。 まもなく伝令兵が転がる様に走って帰り、警備隊が敵と交戦中と伝えた。 直ちに戦闘準備を発令、半分を指揮して、街を包囲する形で前進、発見した敵に猛射を加えた。 敵は間もなく撤退を始め、後背の山の斜面に向かって逃走するを一斉射撃を食らわせる。 警備隊は若い見習士官以下数名で幸い負傷者はなかった。 独断で撤収を促し、所属部隊まで伴った。 このためここに宿営不可能となったので、部下の勧めもありまだ80キロも先の、昨年前進途次約4ヶ月駐留したことのある広東橋まで行く事を決意した。 この広東橋については私のホームペー ジ "http://homepage3.nifty.com/hatukaiti-viefo/" の「私の軍隊生活・捕足2に詳記しているところだが、この帰路立ち寄った時発生した事は未だに本当だったのか、夢を見たのと違うかという気がするほどだ。 真夏とは云え、もう9時は過ぎていたであろうから、山間の部落は真っ暗で人の顔も定かには見えないのに、駐留当時親しくしていた現地人にいち早く連絡した兵隊がいたらしい。 いつものごとくテントを張って、正に休まんとしていた時、がやがやと数人の現地人が兵隊に導かれて私の所へやって来た。いまからご馳走するから来てくれというのだ。 有り難う、疲れているし、もういいよと断ったが頑として聞き入れてくれない。 指揮班長に後を託して、伝令など3名ばかり連れ、不承不承彼らの誘導する所に向かった。 彼らとは非常に仲良くやっていたと思っていたが、若干の疑心もなきにしもあらずで、油断は出来ない.敵国人であることは紛れもないのだからと身構えて着いて行った。 私の知らない長老らしい人などもいたが、ほとんどが何がしかの関係を持った連中たちだった。 急遽豚を殺したのかもしれないが、生肉など彼らもあまり食わないのではないかと思われる珍味を、山の様にして差しだし、さあ食えという。 一杯一杯飲み干す先方の作法に着いて行けず、悲鳴をあげるうちに、彼らは静かに語り始めた。 日本は既に戦争に負けて、連合軍が日本を占領している。あなた方の家族は殺されたかもしれない。あなた方が帰るところはもうないだろうという。 いや戦争は終わったけど日本が負けたわけではない。と、もちろん反論に勤めた。しかし彼らは沖縄、硫黄島など米軍に取られて、無条件降伏したのだと、こちらが知らない事をよく知っていて、対抗出来ない。 自分らが何としてでも守るから、部隊全部がここに残れと、異口同音に叫び出した。 とんでもない、馬鹿をいうな、日本軍と中国軍とは違うんだと席を立ち、一応馳走と好意に対する謝礼をしてながら別れた。 しかし彼らのいうことが本当であった。翌日長沙に入るとすぐ武装解除が言い渡され、無条件降伏したことを告げられた。近代式の連絡手段を持たないと思っていた彼らの方が、情報網は私たちより遥かに上だった。 それにしても、あの部落民ぐらいで、70名ばかりの部隊を養うなどという言葉が出されるであろうか。大きく見ても花咢郷一円で日本の一郡にしか過ぎない。 1年前に隣の花石県の県長の使いというのが数名で来て、宣撫をして欲しいと頼まれたことがある。 彼の国では政情不安が激しいので、こんなことが習慣になっているのかも知れなかった。 清国末期に軍閥が割拠して、滅亡の原因になったが、中華民国といえども当時は軍閥の大物に過ぎなく、民衆に苛斂誅求を加える中間層が数多く存在し、良民は困苦を強いられていて、私たちの方が未だましだと思われたのかも知れない。

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2006年5月 9日 (火)

広東橋余譚

昨日のブログで広東橋での出来事を書いたが、その後日譚といえるかどうか。
今考えると多少の影響を受けたかと思われることが、1、2ヶ月後に起きた。
戦勝国の中国は、祝賀気分があったかどうか、まだその醒めやらぬうちに国共内戦という事態に追い込まれた。
国の支配権の争奪争いである。

この戦争の発端となった満州事変当時、すでに中国大半を支配していたと思われた蒋介石の率いる国民党に対して、唯一最後まで抵抗していたのが、毛沢東、周恩来率いる共産党だった。
満洲で最大の軍閥の領袖張作霖の息子張学良は父を日本軍に爆殺された復讐の一念から、国共内戦を止め、一致して日本に当たるべきだと考え、有名な西安クーデターを敢行した。
捕虜監禁された蒋介石は張学良の慫慂を呑み、ここに国共の共同作戦が実現し、最終的に勝利を齎した訳だった。

しかし相手だった日本が無くなった後、国の指導権争いが起こる事は必然であった。
敗残の日本軍の中でも血の気の多い若者たちは、祖国の壊滅を知らされ半ば自暴自棄に陥るものも沢山居た。
誘われて共産軍や国民党軍に投ずるものは凄い量だった。

私の部隊にも国民党から誘いが入り、隊員6人が応募して入隊した。部隊全部では20名を超えたと聞いている。
下士官1、兵5のほとんどが妻子を持たない、血気盛んな東京近辺の出身者たちだった。
この当時知らされていた日本内地の惨状は多少の誇張は免れないが、到底立ち直れる状況にあるとは想像出来なかった。正に広東橋の住民がいう通りだった。
どうせ一度は捨てた命なら悔いなく中国のためになろうと考えたかどうか。
わたしは自暴自棄の一種と結論する。明治維新の若者たちの様な高邁な理念などはなかった思う。
ただ、中国の場合は別にして、インドネシア、ビルマなど、日本政府が国是とした八紘一宇の精神を本気で信じた若者たちが、遂に独立実現に協力した事実まで、その理念がなかったとはよう言わない。

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2006年5月10日 (水)

死の時の仕事

市立図書館で借りた本を返すために、大雨の中を出かける。
雨宿りのつもりで、かねてから気になっていた私の死直後の遺族の仕事などについて、役所の市民課の担当者にあって聞いた。
葬儀などは行わない様に子供や妻などに普段から言い続けているのだが、葬儀社などの手間を借らずに手続きがこちらでとれるかどうかなどについてであった。
相続人の者が、医師の死亡診断書を添えて届ければ、問題なく受理するし、焼き場使用の許可も出すとの事、後の戸籍の抹消など諸々の事は役所がしますとの、予想した通りの回答があった。
葬儀をする、しないなど、役所には関係なく、やはりこちらで決めなければならないが、しないなら、しないで簡単でしょうということだった。
問題は市役所以外の、金融保険関係など契約関連先との手続きを準備する方が大切だとのアドバイスを貰った。
さしあたりこのブログの契約などやはり脱退手続きがいるだろう。
あらかじめこちらが頃合いを見計らって、して置くのがいいのかもしれない。
生きているという事は、死の直前までいろいろ大切な用事があり、簡単におさらばとは行かないようだ。
しかし財産が皆無というのはこういう時には助かる。

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2006年5月11日 (木)

P-40

又戦争の話だ。一番嫌だったやりきれない思い出で充満しているから、度々思い出す。
第1次湘桂作戦が始まって(昭和19年5月)1ヶ月経った頃、制空権は完全に敵にあったようだ。
最初しばらく援護してくれていた日本の飛行機はもう全然姿を現さなくなった。爆音がしたら間違いなく米軍のP-40だった。ときおり遥か上空をP-38が飛ぶ事もあったが、襲って来るのはP-40だった。
午前、午後、夕方と定期便のごとくやって来た。特に朝のが怖かった。
夜をぶっ通して山稜をのろのろ走って、東天が白み始めるとすぐ車の隠し場所を捜しに掛かるのだが、運良く近辺にあればよし、無ければ偽装しなければならない。途端にぶんぶんと来られる事がある。
あちこち銃撃音が轟くと同時にさっと頭をかすめる低さで襲来する。
なかなかうまく隠し終わらない。そこそこにして逃げに掛かるのだが、瞬間に見つかってしまう。
引っ返して来て連射を浴びせる。
草っ原に伏せると敵から丸見え。飛行機を斜めにして覗き込む様にしてこちらを見る。笑っている様にも見える。
もちろんはっきりアメリカ人だ。
再度引き返して来る。少し移動して窪地に伏せる。ダダッと13ミリ弾が辺り一面に突き刺さる。危うく免れる。
一つでも当たれば即死、足でも手でも一本無くなる。いま生きてるんだから運がよかった。
3度も引き返して私を襲撃した飛行機はこの飛行機だ。機体にシャークの牙が描かれていたから間違いない。
戦争の写真雑誌に載ってたんだが、よく目についたもんだ。P40

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2006年5月12日 (金)

年寄りの冷や水

昨日私の部屋の掃除を兼ねて、少し模様替えをした。
部屋いっぱい物で埋まっているのだから、とりあえず邪魔物をベランダにひっぱりだして、踊り場を作らないとどうにもならない。
朝からぼつぼつと簡単にビデオ・オーディオラックとパソコン台を入れ替え始めた。
ところが、我が家はまだAirMacにはなってないので、配線がぞろぞろと一緒に動いて、簡単どころか大事になる。
オーディオ、テレビ、ビデオそしてパソコンとよくもこんなにと思う程、配線が錯綜している。
その裏にはホコリが綿毛のごとく積もって、なんども掃除機を掛けてからでないと、残った物までゴミに包まれてしまう。いやはや結局部屋全体の大掃除になってしまって、夜まで掛かって完全には復旧出来ない始末となった。

挙げ句の果て、滅多に使う事のない筋肉を酷使したとみえ、夜中に足に痙攣が来て、便所にまで行き難くなる。
今日は後遺症を残して、動くのも苦労、とんだ年寄りの冷や水とはなった。

それでも辛抱して、機器の調整を終わり昼頃やっとまともになってやれやれ。

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2006年5月13日 (土)

私のブラウザ

最近は一日中インターネットに繋がっているパソコン生活だから、ブラウザのお世話にはなりっぱなしである事は仕方がない。
現在昔から馴染みのExplorer、Macを使っているから半ば強制的にSafari、そしてごく最近評判につられてFirefoxの3本建てで済ましている。
何事も早く便利がいいなと思っているのはFirefox、一番のろくて手堅いなと思っているのはExplorer、Macには一番いいだろうと飽きずに使っているのがSafariなのだが、3者3様で実は1本化したいのだがそれが出来なくて困っている。

Safariは流石にMacには相性がよくて、他のMac付属ソフトとの連携もよく便利なのだが、一つ肝心なホームページの文書構成が間違って表示され、どんなにしても直らない。
表示ソースはこちらがインストールした通りになっているのに、画面表示は最初の1、2行が必ず最後になっている。
かなり永い間そうなのだが一向に改まらない。いろいろやってみたがわからない。

Firefoxは追加インストールした分がいつまでも表示されない。最後の分が一つ欠落している状態である。従って最後のインストール日も古いままで登録されない。
又ブログの場合は写真添付が1枚だけで、複数追加すると前の分が上書き消去されてしまう。

そこへ行くと、Explorerはゆっくりはしているが、間違いなくこちらのインストールした通りに、文章も写真も構成されて間違いない。ただメーカーのマイクロソフトが今後の対応を打ち切ったという話があり心配だ。

昔からブラウザによって、構成の仕方がまちまちで困る事は多かったのは承知の通りだが、勝手に行を替えたり、いつまでも表示がされないのでは、こちらが困る。
他人様のものを見るだけなら構わないのだが、自分のものだけに間違って読まれるのではと思うとやっぱり気になる。

ソフトのバグだろうと思うのだが、肝心な私にそれを咎める程の自信も勇気もない。
まあいいかと毎日使い分けて過ごしている今日この頃である。

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2006年5月14日 (日)

DVD録音

最近3ヶ月ぐらいの間に録音したNHK-FM放送の番組のうち気に入ったものを、33時間分DVDアルバムとしてDVD1枚に録音した。
私の様に病膏肓に入った老人で、聞くとはなしに好きな音楽に身を委ねて、寝たり起きたりするものには、なんとも都合の良いものだ。
終日聞いてもまだ半分しか行ってないのだから、手間は全然というほどかからない。
同じ環境に居られる人に是非お勧めしたい。
私の場合クラシックだが、もちろん音楽でも落語でも漫才でも何でも良い。私も落語ばかり集めたCDもある。
ただしこれは1時間ぐらいしか聞けない。CDだから。
まだDVDにする計画はない。ちょっとうんざりするだろうな。

DVDアルバム11   

プレイリスト1
1、エルガー/愛の挨拶/Cb:ゲーリー・カー/P:ハーモン・ルイス.aiff 04:54
2、チャイコフスキー/バイオリン協奏曲/V:庄司沙矢香/チョ・ヨンフム/フランス国立響.Sd2f 37:29
3、チャイコフスキー/交響曲マンフレッド/ベルナルト・ハイティンク/ロイヤル・コンセルトヘボ管.aiff 58:11
4、ティペット/ピアノ協奏曲/p:マルティーノ・ティシモ.aiff 33:57
5、ドボルザーク/チェロ協奏曲/C:ジャン・ギアン・ケラス/ピエロフラーベック/プラハ・フィル.aiff 40:19
6、ベートーベン/交響曲第7番/佐渡裕/スイス.ロマンド管.aiff 42:08
7、ベルク/叙情組曲/フォーグラー弦楽四重奏団.aiff 30:54
8、メンデルゾーン/弦楽八重奏曲/カメラータ・アカデミカ.aiff 33:04
9、モーツァルト/バイオリン協奏曲第3番V:ギャレット/ギュンター・ヘルビッヒ/ザール・ブリュッケン管.Sd2f 23:36
10、モーツァルト/弦楽四重奏曲K465/モザイク四重奏団.aiff 39:20

プレイリスト2
1、シューベルト/楽興の時/P:ティル・フェルナー.aiff 28:49
2、ショスタコビッチ/交響曲第8番/ベルバルト・ハイティンク/ロンドン響.aiff 70:34
4、ドップラー/ハンガリー田園幻想曲/Fl:工藤j重典/P:小坂圭太.aiff 10:13           
3、チャイコフスキー/弦楽四重奏曲第3番/ボロディン四重奏団.aiff 38:28
5、ドニゼッティ/コンチェルティーノ/Cb:ゲーリー・カー.aiff 10:55
6、ピエルネ/ピアノ協奏曲/P:スティーブン・クームズ.aiff 19:53
7、ブラームス/交響曲第1番/カルロ・マリア・ジュリーニ/ウイーン・フィル.aiff 51:56
8、ブルックナー/交響曲第8番/ヘルベルト・プロムシュテット/ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管.aiff 84:04
9、プロコフィエフ/バイオリン協奏曲ニ長調/V:五島みどり/ヤンソンス/バイエルン放送響.aiff 22:04
10、ベートーベン/ピアノ・ソナタ第26番/P:仲道郁代.aiff 17:23

プレイリスト3
1、グリンカ/悲愴三重奏曲Cl:コリン・ローソン/Fg:アルベルト・グラッチ.aiff
2、シューベルト/五重奏曲「ます」/Vla:今井信子/ほか.aiff
3、シューマン/女の愛と生涯Op42/Ms:アンネ・フォン・オッター/P:ベンクト・フォシュベル.aiff 23:47
4、ショパン、リスト/ポーランドの歌から3曲/P:ヤブロンスキー.aiff
5、ストラビンスキー/バレエ音楽オルフェウス/ネーメ・ヤルヴィ/ロイヤル・コンセルトヘボー管.aiff 30:55
6、デュティーユ/交響曲第2番/エッサ・ベッカ・サラステ/トロント響.aiff 28:16
7、ブラームス/交響曲第4番/イルジー・コウト/N響.aiff 38:57
8、ベートーベン/バイオリン協奏曲ニ長調Op61/V:リサ・バティアシュヴィリ/シャルル・デュトワ/N響.aiff 46:01
9、ベートーベン/弦楽四重奏曲OP59-3/カルミナ四重奏団.aiff 29:33
10、ベートベン/ピアノ協奏曲第5番『皇帝」/P:ラン・ラン/バレンボイム/ベルリン歌劇場管.aiff40:51
11、モーツァルト/弦楽四重奏曲K575/ハーゲン四重奏団.aiff 24:04
12、レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア第1組曲/小沢.aiff

プレイリスト4
1、シベリウス/ピアノ五重奏曲/P:エーロク・タヴァセルナ/シベリウス四重奏団.aiff 36:22
2、シベリウス/交響詩「フィンランディア」/シャルル・デュトワ/N響.aiff 08:18
3、シューマン/ピアノ五重奏曲/P:内田光子/ハーゲン四重奏団.aiff 30:25
4、シューマン/弦楽四重奏曲第3番/ハーゲン四重奏団.aiff 27:30
5、シュトラウス/喜歌劇こうもり序曲/フランク・ウエルザ・メスト/ロイヤル・フィル.aiff 08:00
6、スクリャビン/ピアノ・ソナタ第2番/P:マルク・アンドレ・アムラン.aiff 12:25
7、ベートーベン/P、V、Cのための三重協奏曲ハ長調p92/P:ルガンスキー/V:レーピン/C:マイスキー/佐渡裕/スイス・ロマンド管.aiff 36:40
8、ボロディン/弦楽四重奏曲第2番/ブロドスキー四重奏団.aiff 28:43
9、メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第2番/P:ジャン・イヴ・ティボーテ/ヘルベルト・プロムシュテット/ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管゙.aiff
10、モーツァルト/ピアノ・ソナタK330/P:ミハイル・プレトニョフ.aiff  18:30
11、モーツァルト/交響曲第41番/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/N響.aiff   40:26
12、ラベル/ダフニスとクロエ組曲第2番/バレンボイム/パリ管.aiff 17:33
13、レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲/小沢征爾/ボストン響.aiff 15:52
14、沖縄民謡/Cb:ゲーリー・カー.aiff 16:28

プレイリスト5
1、オネゲル/交響曲第5番/セルジュ・ボド/チェコ・フィル.Sd2f 21:50
2、シベリウス/交響曲第1番/シャルル・デュトワN響.aiff 40:23
3、ファリア/バレー音楽「恋は魔術師」から/エンリケ・マティス/メキシコ・シティ・フィル.aiff 13:03
4、ベートーベン/交響曲第3番『英雄」/オスカー・レヴァント/北ドイツ放送響.aiff 51:10
5、ベートーベン/交響曲第7番/ジェームス・レヴァイン/ミュンヘン・フィル.aiff 35:17
6、マーラー/交響曲第5番/クリストフ・エッシェンバッハ/フィラデルフィア管.aiff 74:11
7、モーツァルト/セレナードK361-ベルリン・フィル・メンバー.aiff 46:56
8、モーツァルト/ピアノ協奏曲第9番/P:ロアート・レビン/ロバート・ノリントン/スツッツガルト放送響.Sd2f 30:02
9、リスト/ダンテの神曲による交響曲/レオン・ポトスタイン/ロンドン響.aiff42:44

プレイリスト6
1、ストラビンスキー/バイオリン協奏曲/V:ジャン・ジャック・カントロフ/エフゲニー・スベトラーノフ/ロシア国立響.aiff 20:11
2、チャイコフスキー/交響曲第4番/ネルロ・サンティ/N響.aiff 46:12
3、ニルセン/交響曲第6番/ユッサ・ベッカ・サラステ/フィンランド響.aiff 31:50
4、バッハ/前奏曲とフーガ変ホ長調/Org:ミヒヤエル・セーンハイト.aiff 15:21
5、ピエルネ/ピアノ五重奏曲/P:ジャン・ユポー/ヴィオッティ四重奏団.aiff 35:16
6、ベートーベン/ピアノ協奏曲第4番/P:ラン・ラン/クリストフ・エッシェンバッハ/フィラデルフィア管.aiff 35:51
7、ポンセ/バイオリン協奏曲/V:ヘンリク・シェリング/エンリケ・バティス/ロイヤル・フィル.aiff32:13
8、モーツァルト/ピアノ協奏曲第24番/P:ラン・ラン/ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ響.aiff 31:02
9、モーツァルト/交響曲第39番変ホ長調K543/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/N響.aiff 32:33
10、ルーセル/交響曲第3番/ピエール・ブーレース/ニューヨーク・フィル゙.aiff 24:25
11、ワーグナー/楽劇「ニュールンベルグの名歌手」前奏曲/マリス・ヤンソンス/バイエルン放送響.aiff

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2006年5月15日 (月)

私の戦場初体験

この世の中はいつ何が起きるか予想はつかない。
だから私は何事も自然に逆らわない様に勤めている。特に先にあきらめて掛かるのが私の趣味のようなものだ。即ち前途を楽しみに半ば夢想して過ごす。
人と争うことは嫌だ.憎むこと恨むことも嫌、人ごとに介入することは特に嫌いだ。

ところが、軍隊に入って、私の夢想はことごとく壊され、閉ざされ続けた。
何事も強制された世界で、何一つ自分の意志で事を通すなど出来っこなかった。言わば人形師の居ない操り人形だった。
軍隊である以上何時かは戦争を体験することになる事は勿論覚悟していた。そしていつの日か死に直面する事になるだろうとも思っていた。

私は昭和19年1月26日部隊の材料廠長に任命されたばかりの、所謂民間から徴兵で現役部隊に入隊し、予備役編入後即徴用された幹部候補生上がりの将校だった。
私が新たに勤務することになった部隊はこれ又対ソ戦に備えて昭和16年6月急遽動員された東京周辺の兵隊の多い招集部隊であった。当然兵員と私の関係は全く馴染みの薄いものであった。

私たちの部隊独立自動車第31大隊はソ満国境警備に就いていたが、昭和19年4月5日に駐屯地の東安省斐徳を貨車輸送で出発して、4月13日蕪湖から揚子江をフェリーで遡江し、武昌に入ったのが4月26日だった。

もちろん部隊の行動は上級司令官の臨機の命令による。誰も予定を教えてくれるものはない。
私の材料廠長任命も熟年の前任者を召集解除してのものだったから、この作戦従事を予定してのものだったかもしれない。勿論私一人だけでなく部隊長以下大幅な人事異動が同時に行われていた。

同年5月10日第1次湘桂作戦が始まり、5月30日武昌を出て、150キロ南西の陳家屯という所に移動,待機、6月30日やっと作戦行動を開始して、全軍の最後尾付近をのろのろと前進を始めた。

主として夜間行動が多いので、交代で運転しながら他の兵は幌付きの荷物台で雑魚寝が普通だが、間もなく道路が敵の破壊等でなくなり、山の稜線を走る事になる。平坦な所は一つもない。こうなると一般兵も落ち着いて寝ては居られない。下手をすると、車ごと転落、転覆するかもしれない。もちろん間断なく襲って来る、敵機の空襲に備えて無灯火の行進だから、ボンネットに一人座って誘導したりする。

敵の空襲の激しさに部隊は延々何十キロに亘って、他部隊の車両の間に混じって散らばってしまい、部隊命令は初期のもの以外は全然到達せず、我が自動車部隊は典範にもない、訓練もした事のない事態に遭遇していた。

夜が明けると、敵の飛行機には格好の目標で、ほとんど無抵抗な目標物を思う様に攻撃して来た。友軍の飛行機は始めの1週間ぐらい飛んで来て援護してくれてたが、間もなく壊滅したらしく、制空権は敵さんのものだった。
私は部隊の兵器係を兼任していたので、車の損害を掌握する義務があったのだが、そんな事など出来る訳がない。
無線機一つ持たない部隊だから、何事も伝令を走らせなければ事が足りない。
各部隊混在の山稜線道路だから、車から離れて、へとへとになる程歩いても何程も先へ行けない。

朝になると車を隠すのに忙しく、空襲が始まると兵はクモの子を散らすが如く逃げ隠れた。情けないとも何とも言いようがない。30歳前後の家庭持ちの多い召集兵の部隊だから、飛行機と戦う意欲などは全然ない。
始めの2、3日は鉄砲を向ける兵もいたが、敵もさるもの直ぐ反撃して来て反復銃撃を繰り返すので、却って危ないと止めてしまった。

運悪くガソリンタンクに銃弾を受けた車両は、炎上するし、弾薬を積んでる車はいつまでも破裂を止めず、車の渋滞に拍車を掛けた。

初め頃はダダッと銃撃されて、身体が震えて止まらなくなる経験もした。やはり覚悟していても死の恐怖は考えている以上のものだとわかった。
先日も書いたが、P-40に追っかけられて、もう終わりかという体験もした。
たまに、如何にすべきか迷って、部隊本部を徒歩で捜し廻ったが、その所在が掴めない。途中であった他の中隊長に相談しても、夜逃げしたのかななどと茶化されてことにならない。

8月2日長沙に着いてやっと連絡がとれる始末。どうやら飛行機に追っかけられて姿を隠すのに精一杯だったらしい。ぞろぞろと山の峰の一本道をもつれ合って行くのだから、いずれ先で会えるとの思いがあるから誰も無理して急いだり、横道へそれるなどという事はない。上も下も安心しての?行軍で、相手のある事とて予定通り作戦が進むわけがないと皆承知していてのことだった。

骸骨だけになった車の残骸が道路脇や山上に無数に取り残された。
長沙に入るごろには、延々とそこら中、友軍兵士の転がっている姿が目に入る。元気なのか病気なのかわからない。
たまに水をくれと手を振る兵士や気息奄々の応答も出来ない兵士も居る。
はじめての生の戦場はやはり凄かった。絵に描いた様な勇ましいものとはまるで違っていた。

私自身も、一番最初に困ったのは、足の指に出来た水虫、うじゃけて靴が履けなくなった。自動車部隊だから運転台にはだしで乗ってればよいのでよかったが、歩兵なら即刻落後するところだろう。
そして山頂を行くのだから、水の補給は大変だったし,来る日も来る日も、乾パンだけの食事にも参った。
雨は少なかったが、却ってぎらぎら輝く太陽に皆疲れた。

後方を行く新米の我々の戦争とはこんなていたらくだった。5月10日の作戦開始地点から2百キロ行くのに地上の敵は全く見る事もなく、只腐敗したり、白骨化した敵兵や馬の屍体にたまに遭遇するだけで3ヶ月経過した。
すでに今遥か2百キロ前方の衡陽を攻撃中の友軍部隊はさぞかし大変だろうなと、勇敢で経験豊富な同胞に頭を下げるばかりだった。

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2006年5月16日 (火)

長沙

昭和19年8月2日遅ればせながら長沙に入る。
先に到着している部隊本部の指示する市街の真ん中の廃屋を利用して宿泊地を設定する。
勿論任務が補給修理にあるので、それにふさわしい場所を選定する。
輸送任務のある,各中隊はすでに長沙ー易俗河間約100キロ間のピストン輸送業務に参入している。
各中隊ごとに区画分けされて,リレーする事もあれば,通しで搬送することもある。集荷場所から次の集荷場所までで、第1線部隊に直接配達する事は,軍直轄部隊である我が部隊にはなかった。即ち第1線からは遥か後方の輸送隊だったわけである。本来なら一番安全な部隊なのである。
しかし現代戦は空中からの攻撃があるから、100%安全と言うわけには行かない。
我々の区間だけで焼かれて骸骨になった車が、私の数えたところでは80台以上あった。もちろん全部うちの部隊ということではない。それまでにこの区間を通過して前進した全部隊の中のやられたものである。
昼間は廃屋、樹木、土塀などの蔭に遮蔽し、夜間に行動するパターンは終戦まで変わる事はなかった。
だから渡河点などどうしても明かりを要する場所は特に空襲を激しく受けた。だからその近辺が焼かれる車が多かった。遮蔽場所がないし、退避するのに時間がかかって朝になったりするわけである。

8月下旬赤痢にかかった。食事が原因と思われるが具体的な事はわからない。下痢が激しくて、一日40回ということもあった。世間慣れした当番兵が椅子に穴をあけ,下にバケツを、ベッド脇に置いてくれたので、簡単に用足しが出来た。20日ぐらいかかったので、9月1日部隊前進には置いて行かれる事になった。もちろん側近のものだけ残り、隊は部隊とともに前進した。
9月に入り,ある日米軍B24の4,50機の大編隊が襲撃して来た。絨毯爆撃で半分は焼夷弾のようだった。
破壊力はさほどなく、後で付近を見て回ったが、すでに破壊され尽くしている長沙市街だから大火災になることはなかった。
我が隊にも、2台車が残っていたが難を免れた。
状況報告に地区司令部に出かけたが、その際係員から映画の上映が司令部の地下広間であるから、見に来いと招待を受ける。映画の題名は『新雪」だった。
字幕が支那語になっていたが、こちらには関係はない。凄く感動した。映画など見るのは何年ぶりだったろうか。
終世忘れ得ない思い出である。もう一度見たいと気をつけているのだが、再上映という話を聞いた事がない。
青い山脈によく似たいい映画だったが。
司令部近辺には沢山の日本兵が座ったり,寝転んだりしてごろごろしていた。何のためだったか未だにわからない。
2日後部隊を追求する。
部隊本部は湘潭県上田冲、我が隊は本隊は板塘に1隊は衡山に駐留することになった。板塘は地図上広東橋となっていたので、その通称に従った。
私のブログに出て来る広東橋は軍の陣中日誌に記載されてる正式名称「板塘」のことである。

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2006年5月17日 (水)

大学教授夫妻

長沙についてはもう一つ思い出すことがある。今度は帰り道の話である。
昭和20年7月20日から23日にかけて、我が部隊は桂林を撤退することになった。敵から見れば当然退却ということである。
この時、趙冰という大学教授夫妻を預かった。南京に行き、周仏海に会って保護を求めるとの話だった。
数年前書いた「私の軍隊生活」の中でこんな風に記録している。
ーーー この頃、前線にいた部隊が続々と後退して来る中に、歩兵部隊と行動を共にしていた、香港大学の教授と称する趙冰さん夫妻を、武漢まで乗せて行ってくれと頼まれる。ーーー
実はこれは私の記憶違いであったようだ。
最近便りを頂いた元戦友の某から、次の様な詳しいいきさつを聞いた。
ーーー私、犬養さんと同年兵で中国広西省の周家村に居ました頃、良峰郷の警備隊で一緒でした。彼が隊長で伍長でした。
その時国立広西大学の教授で趙冰という人が奥さんと二人で逃げ遅れて大学の近くに住んでいましたが、生活困難になり南京へ行きたいとのことで、部隊長の許可が出て私共のいる警備隊へ英語で喋って入って来ました。
 イエスタデイが解っただけですが、多分「昨日来ようと思っていたが来られなかった」と言ったのだと思いました。
奥さんは32歳で日本人そっくりの人で迚も気品のある婦人でした。その教授は50歳とのことで,シカゴ大学を出たとのことでした。
その教授と筆談でお話を致しましたが,ソ連へも行ったことがある。何処へも行ったことがあると世界中方々へ行ったことがあると言うので、「日本へ行ったことがあるか」とききました所、アメリカへ行く時横浜に3日間寄港したことがある、日本へ行ったことと言えばその時だけだとのことでしたので、思ったのですが,国際的には東京より横浜の方が有名なのだなあと思いました。ーーー
私は香港大学教授と聞いたと「私の軍隊生活」に書いているが、広西大学教授がほんとらしい。そして他の部隊から預かったと聞いていたが、そうではなかった。
私も一ヶ月行動を共にしたので、かなり詳しくいろいろ話したけど、身分などは一度聞いたら二度は聞かないものだけに、最初聞いたと思ったことが先入観になっていたのだろう。英語は確かにうまかった。こちらが下手なのでなかなか意思疎通が出来なかったが。
特別扱いはしない約束だったから、兵と同じ給養で貧しいものだったし、途中衡山では戦闘を交えた場面を見ていただろうし、どんな感慨を持って去って行ったか推量すべくもない。
長沙で武装解除にあって、彼らとは袂を分かったが、そういう経歴の人なら何とでもいい繕って、後世をうまく世渡り出来たのではあるまいか。
ずっと親日的立場を取って、行動した人だけに袖すり合うも多少の縁で、出方次第では拘束されて、漢奸として処刑でもされたら可哀想だと思っていたのだが、一応大丈夫だろうと一安心した。

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2006年5月18日 (木)

古いデジカメ御用

6年前に買って使っていたデジカメを2年少し使って、ある旅行で落として壊したのを機に新しいのと買い替えたのだが、修理してもらったら十分使える様になった。
しかし機能が140万画素で今となっては能力不足で使い難く、先般娘に孫のおもちゃにやると言ったが断られて、そのまま転がっていた。
いつだったか何かの時、そこで会った妹にデジカメは要らんかと聞いたことがあった。
84歳の妹がそのことを憶えていて、最近住いの近くのカメラ屋が無くなり、フィルムの現像焼付けするには遠方の店まで通わなければならなくなった。もう一軒の電気屋がデジカメで撮った写真ならプリントして上げるというから、あのデジカメをくれと言って電話して来た。年寄りは歩いて行ける所でないとダメだ、バスに乗ったりして遠くまで通うなど出来ないからという。
雨の中を1時間走って届けてやる。
呑み込みはいい方のばあさんだが、それでも女のこと器械は苦手の方。一応使い方を丁寧に教えて帰る。すぐメモするように言ってたから、なんとかこなせるだろう。
先般のこの地方の大雨洪水で、郷里の古い家が床上浸水に見舞われ、大修理をしたので、細かい所まで写真にして残して置きたいとのこと、デジカメならそのような役割はうってつけだろう。暗い所は自動的にフラッシュが効くし、絵を直ぐ確認できるし、乾電池4本が電源でどこでも補充が効くし、自分が奇麗に写らなければ嫌だということのない年寄りには丁度適当な筈だ。
捨てなくて済んでほっとしているところである。

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2006年5月19日 (金)

そうせい侯

又又戦場での話である。
長沙まで行く途中、米軍飛行機にこてんぱんに叩かれて、私の気力は萎え切っていたと思う。
おまけに赤痢にかかって、体力もすっかり落ちた筈だ。餓鬼の様になってただろう。
後に軍医がよく助かったなあ、完全に危篤状態だったのにと洩らした。
もちろん自分では死ぬとの意識はまるでなかったが。

一応病気が回復したので、約100キロ南方の広東橋に居た我が隊に昭和19年9月中旬やっと追いついた。
そこでは既に修理工場を開設していたのだが、隊長の私が居なくとも業務は何の遺漏もなく進められていた。
正に私の出る幕はなかったわけである。
材料廠というのは技術屋集団の別名みたいなものだから、一般修理は勿論、無くした器具、壊れた部品など思いも掛けない様な仕事も出て来る。
兵隊の中には板金十数年、鋳物十年、旋盤8年、電工何年などなど、民間で多年の経験を積んだものばかりである。
素人の私はふんふんと感心しながら、彼らの仕事ぶり眺めるだけの生活といってよかった。
自動車修理といっても、各中隊にもそれなりの技術者がいて、パンクや部品交換などは勝手にやるのだから、工場を開設しても当座はそれほど仕事は無い。
遊んでいてはもったいないからと、宣撫工作に力を入れ始めた。そうでないと私の出る幕が完全になくなるせいもあった。
犬養兵長、池本兵長、河原衛生伍長などなどよく働いてくれたなあ。考えてみると敵情のある中、敵国の人民の中に単身で入り込み、施療したりなど口実を作って彼らと接触し、花咢郷地区の治安を保ち、僅か3、40名の部隊を平穏に過ごさせてくれた。
食料など軍から殆ど支給はなく、自給に任せられていたのだが、飢えることも無くまあまあの食事で過ごせたのだが、犬養始め給養担当の3、4名は魔法の杖でも持っていたのだろうか。
一度でも私が口を出したことは無いし、相談を持ちかけられたこともない。

考えてみると、当時まだ23、4歳の若造の私に対して相手は大部分が妻子を持ち、若い者でも私より何歳か年上のものばかりだった。先に述べた様に技術的経験は大したものであった。
桂林に入ってアルコール工場建設の命令が出ても慌てることは全然なかった。
1、2ヶ月で自動車を走らせ、部隊に輸送業務を実行させるまでになった。
幕末長州の毛利侯が家臣の言上になんでも「そうせい」といったという話があるが、それでも名君の名が高い。
私は名は高くなかったが、「そうせい」で過ごさざるをえなかった。

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2006年5月20日 (土)

悔しい戦争の思い出

私は最近になって、終戦前後の部隊行動の中で、重要なミスをしていたらしいことに気がついた。
昭和20年夏、部隊本部から近く初年兵が入隊してくるから、山崎少尉以下に北京まで受け取りに出向かせるが、到着の暁には7名を我が隊に配属するというものであったと記憶していた。

ところが配属されてきたのは、19歳の松島健四郎二等兵1名だった。
そして別に2名既に風土病のようなものに犯され、足が腐ってあちこちから膿が出ている兵隊が我が隊の所属だというので会っては見たが、病室があったかどうか、そちらへ収容された様に思う。

当時の記録としては、手帳に鉛筆書きで西谷益男(19歳)、江端時雄(20歳)各二等兵戦病死とあるだけで、詳細はわからない。
今度改めて本部からの日誌の写しを見てみると、西谷益男二等兵は広西省全県永和郷沙子湾にてマラリアのため、昭和20年8月9日病死、江端時雄二等兵は同所にてマラリアのため、昭和20年8月10日病死とある。
正に終戦直前の移動の最中の出来事であり、直接見ていないので、状況は知る由もないし、遺体がどう処理されたかもわからない。

そしてこの他にも、私の隊員として鴨志田武雄(20歳)二等兵が長沙の兵站病院にて赤痢のため、昭和20年7月20日に、又伊藤武一二等兵(19歳)が同じく長沙兵站病院にて栄養失調症のため、昭和20年8月31日に病死していることが分かった。私の目の届かない所で、見たことも無い部下が亡くなっていたわけである。
(8月31日とは既に戦後である。病院は仕事を継続していたのだろうか)

当時の引率責任者だった山崎少尉にも聞いたことがあるが、随分昔のこと故詳細はまるでわからなかった。
私が当初7名の初年兵割当があると聞いてたのは、実際は5名だったことになる。
それにしても、5名のうち1名が実際に我が隊に入隊しただけで、残り4名は入隊しないまま死んでしまったということである。

言い訳になるかもしれないが、戦後私自身が戦災に遭い、命を保全することに汲々として、部下だったものたちの戦後の事など考えたことはあったが、どうする術も無かった。
生存者についてはいろいろ状況報告をしてくれるものなどあって、かなりのことは承知出来たのだが、積極的にこちらから行動するなど出来なかったし、やる気も起きなかった。

今顧みると、この4名の若人はあたら命を無駄に戦野に晒し、後方の軍部から一片の公報だけで死を知らされた遺族のことを思うと、いたたまれないし申し訳ない思いでいっぱいである。

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2006年5月21日 (日)

怪我

又やった!!と思った。右手の甲のすり傷が最近やっと治ったと安心していたのに、今度は左の人差し指の背中側が一寸洗面場の端に当たっただけで擦り剥けた。相変わらず血だけは若者並みに元気よく吹き出す。
やはり軽率なのだろうな、俺は。
老人並みに用心しながら暮らしているつもりだが、時折気が抜ける瞬間があるらしい。
幼少の時からの習い性だから、やはり修正不可能といったところか。

痛みが入った所で今日は筆止め。たまには簡単なのがいいだろう。

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2006年5月22日 (月)

四たび乾癬の事

私の宿痾乾癬のこと、4度目のブログになる。
この3月2日何年振りかで、手足の関節が痛み始めたので、これは間違いなく乾癬のせいだと若い病院の先生に訴え、こちらから頼んでチガソンと痛み止めを貰って呑み始め、3ヶ月経ってどうやら完全に進行は止まったらしい。
痛み止めの方は3週間も止めているが、痛みは出ない。
乾癬そのものはかなり薄くなったようだが、場所に寄っては新しい湿疹が出て来る。これは治ったとは言えない。
が、完治はしない病気だから仕方がない。

市民病院で1993年8月に関節症治療のためチガソンの服用を始め、翌年6月まで続けて一応完治したとの判断で、服用を止めたことがあった。今回はその経験をこちらの先生に訴えたわけである。

某大病院の副院長さんだった人が、この病気は完治はしないだろうが、生命に別状は無いのだから、やさしい薬でひどくなるのを押さえながら、墓場へ一緒に行くつもりで付合う以外に方法はないと、十数年前に言われたことがある。

その通り、もう八十をとうの昔通り越して今86歳である。人並み以上に生きらしてもらっている。
チガソンも最初は一日3カプセル呑んでたが、副作用がひどくて1ヶ月で1カプセルに減らした。経験の浅い先生も驚いていた。
若い先生を馬鹿にしてるわけではないが、何しろ発症以来20年の経験者の私だから、自信のこもった発言に先生も頷かざるを得ない。まあいいだろうとその通り処方してくれる。
そして今次の診察日にはチガソンも止めようと決心しているところである。

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2006年5月23日 (火)

日照時間

昨日のテレビで日照時間が4月5月随分少ないとの報道があった。農作物などの出来が悪くて、いつもと違った被害が出ているというのだ。
さもありなんと内心頷く。植物だけでなく人間にも何かダメージが来てる様な気がする。
何だかうすら寒い毎日で、春が来たといっても陽気になれない春で、時折ストーブを引っ張り出さなくてはならない。
自分でもちょっとおかしいので、歳を取ったせいにして納得していたのだが、そうでもないことが分かり、やはりこれも今年の天候異変の一つなのであろう。
ぬくぬくと大事に保護されて来た我々老人も、ここに来て人力の及ばないものが、天命を下さんとしているのをひたひたと感じている次第である

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2006年5月24日 (水)

韓国ドラマ

最近家内の韓国ドラマ好きにいささか圧倒され気味である。
私は一度も見たことはないのだが、家内から食事時の雑談にはいつも出て来るし、ビデオも大分増えた。
だからどこがどう面白いのかは、見てないのだからなんともコメントのしようがない訳である。
今家内との断絶の部分はこれだけである。

そもそもドラマなるものは、私は好きでない。特に歴史に出て来る様なものに、明らかに違った解釈なり、想像を付加したエピソードを入れられたりすると、嫌な気分になる。
もちろん新事実が発見されたとかいうことには、大いに興味をそそられるし、それによって私の歴史観が訂正されることを厭うものではない。
外国のものは、歴史も分からないし、風俗も珍しいぐらいしか関心がないし、心理的なもの以外には興味がわかない。
それも若い時のことで、こう老いぼれては、1時間も2時間も緊張を続ける訳にゆかない。
それでもほんとに好きなら見るのだろうが、繰り返すようだが好きでないのだから続く訳がない。
韓国どころか、アメリカも、中国も、その他も最近は全然見ることはない。
字幕を読むのに追っ付けないし、人名などはどれがどれだか区別がつかない。従って面白くもなんともない。

というわけだが、家内が最近どうでも韓国に行ってみたいと言う。ドラマに刺激を受けた訳である。
私がご免だというので、いつもリードしてあちこち旅行する妹らにも声を掛けるが、先般吉野の桜見物には全員ついて来たが、こちらはうんというものがいない。
娘にも話しかけるが、仕事が忙しくダメ、数日前には孫に話を持って行ったのだが、どうも皆仕事のあること、時間がとれないらしい。うんともすんとも応答がない。
うっかり輪の中に入ったら大変なので、友達を誘ったらと言ったり、外野席からのつもりで声をかけてる毎日である。

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2006年5月25日 (木)

薔薇

家内が薔薇を見に行こうというので植物園に出かける。
園内に入った途端くらくらとする。家内がどうしたというから、一寸気分が悪い、日射しが強いせいだろうと答える。
お茶をコインスタンドで1本買って飲み、少しスローで歩く。
真っすぐに一番上のバラ園に入る。丁度今盛りの時期。派手な色彩の、色とりどり、大小取り混ぜた美しい光景。
やはり薔薇は凄い。就中ラ・マルセーエーズの深紅は目に焼き付く。
花に感動することのあまりない私でもいいものはいい。

色彩に堪能した後は、山道を行き若葉の美しさに見とれる。
いつの間にか気分の悪かったことを忘れてしまった。
3時間後用心しながら無事帰宅。Rose
Rose2

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2006年5月26日 (金)

ガス欠

病院からの帰り道のことである。
緩い下り坂を下り切って、短く急な上り坂に掛かった途端、エンジンがくしゃみして、アレッと思った瞬間止まってしまった。アクセルをばたばた踏むとかぼそい声で嫌々する様な音を立てくしゃみをくりかえして、車は動かない。
ありゃ、これはガス欠だとメーターを見ると、針は0以下に落ち込んでいる。
うかつにもガソリンが無くなっていることに気づかなかった。
それでも、一日一度は買い物などに出歩いていた。その間メーターに一度も目をやらなかったわけである。

流石に最近は運転は慎重になったので、衝突事故はなくなったが、今度はこれが始まった。
坂の丁度半ば、下がるしかないが、後ろは道幅が狭く曲がって、交通の邪魔になる.ええままよとエンジンを切り、ブレーキして下りる。
さてどうするか。ケータイは持って来なかったし、いつも行くスタンドは3キロもある。近くの民家をちょっと覗いたが誰もいる感じはない。
仕方ない1キロ半先の、家まで歩いて帰ってから考えるかと歩き始める。
車の往来は激しい、でもうまく通り抜けてくれる。

ふと崖上に目が行った。
なんだここはバイパスのサービスエリアの下ではないか。
エリアの中にガソリンスタンドが確かある筈だと気づいた。
ちょっと行くと石段が上まで続いている。
上がり切って見ると、売店の一番向こう端にあった、スタンドが。

ことをわけて話して注入用の容器を借りて、3リットルほど入れてもらい、歩いて引き返す。
エンジンをかけると難なく動く。石段下そばの駐車スペースに車を移動して容器を返しに行く。
やれやれ。老いぼれると何もかも大変だあなと自嘲しきり。

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2006年5月27日 (土)

新しいガスコンロ

先般来、ガスコンロの乾電池の力不足の警告灯がつき、勝手に消えたりすると言って、家内が使えないとこぼす。
左側の強力バーナーは何でもないのだが、右側の標準バーナーが放っておくと消えるというのだ。
言われる通りに電池を入れ替える。
しばらく使っていると又同じ様に警告灯がつき始める。
又ダメだ、ダメだと言ってこぼしている。テスターで調べてみるといくらも電圧は下がってない。
取り替えなくてはならない程のことではない。

どうでも手を添えないと駄目な様なので、説明書を引っ張り出して読む。
標準バーナーの方は自動消火とかタイマーとかいろいろの機能に連動している。警告音が何段階もついて、ブザーまでなるようになっている。この多機能がくせ者らしい。
書いてある通り使い分けしなくてはどうにもならない。そう思って使うんだなと言う。
安全装置がよく働いて勝手に消えてくれるんだから、よいではないかと突き放す。

それでも家内は相変わらず使い難い、古い方がよかったと言い,言い、愚痴が絶えない。
二人しか居ない家庭だから、聞き役も楽ではない。

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2006年5月28日 (日)

住いということ

家というものはなくては困るし,あればあって手がかかるものだ。
建ててから33年になるが、既に屋根は一度葺き替えたし,風呂も炊事場も便所も皆一度改造した。
玄関戸も一度やりかえたが、又この夏を控えて網戸をつけることにした。そしてベランダの柱の一部が腐って来たので,補強しなければならず、ついでに何度目かの塗装もすることになり、来月早々取りかかって貰うことになった。
芸備地震では家本体には問題は起きなかったが、隣との境界のブロック塀が一部亀裂が入ったりしたので,修理のついでに、補強柱を3本立てた。
金も掛かるが手間もかかるし、近所には迷惑を掛ける。架設工事だけで全体の3割以上掛かるのだから、新築以上の単価になりそうだ。
先の短いものには、参考にもならない。
むしろ家とともに朽ちるのが一番自然の成り行きだったのではと、遅まきながら後悔しているところである。Beranda

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2006年5月29日 (月)

デジカメ御用未だ済まない

妹から突然電話がかかる。
デジカメのことだが(この18日のブログにも載せた、呉れてやったデジカメのこと)、電気屋に持って行きプリントしてもらったが、うまく写っていてよかったのだが、メモリは入れ替えないで良いのかという。
フィルムではないのから、何回でも使えるよというと、全部使ってもかと言う。
ありゃ、それは一度消去しなけりゃダメだよと言うと、そりゃあどうするのかと聞き返す。
説明書を読まだったのかと問うと、読んだけどよく分からんという。
付属品から一切合財持って行ってやったのだから、こちらには何もない。
3、4年前に使ったのだから、もう何処をどうするか憶えていない。
一番右のボタンがメニューになってるだろう。あれを二度続けて押せば1枚消去出来る。全部消すには上下へのボタンを押して、初期化に合わせメニューボタンをもう一度押せなどと、うろ覚えで話す。ちょっと長い話になるともうダメだ。混乱して来て、妹には理解出来ない。
結局まだ10枚撮った段階とのことなので、それなら一枚一枚消せと教える。50枚も撮った段階なら、電気屋に消してもらえと投げ出す。
だが、フィルムと違って、一旦消すとネガは残らんから、もう一度使いたいと言ってもダメだよと言うと、ああそうか、そこが違うのかと頷く。よくわかった、ありがとうと電話が切れる。
ほんとに分かったのかとちょっと心配。
ただでやっても、責任は残る。
年寄りは扱いづらいものだ。

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2006年5月30日 (火)

ゆる靴下

老いぼれると血行が悪くなる。当然のことで仕方のないことだ。
だからどこかへ行くとき靴下を履いても、帰宅したらすぐ脱ぐことにしている。
それでも少し時間が長くなると、靴下のゴムで締め上げられた所から上のふくらはぎは、パンパンに腫れ上がってさながら力士の足である。
この冬いつだったか、何かに「ゆる靴下」というのが、書いてあった。ちょっと読んでみると、靴下のゴムを除いたかどうかで、ゆるくした靴下らしい。
早速スーパーに出かけて、「ゆる靴下」をくれというと、店員さんは怪訝そうな顔をしていたが、しばらく捜してくれた。この店員さんは知らなかったようだが、2種類見つかった。早速合計5足買って帰ってそれ以後こればかり交互に履いて来た。
最近暖かくなったので、夏物をと又そのスーパーに出かけた。
そんなのあるかしらと言いながら、今度の店員さんも捜しに掛かる。
「ゆる靴下」というのは見つからなかったが、少しゴムが少なく緩めの『満足」というのを出してくれた。
ためしにやって見るかと3足買って来て、今日早速履いてみた。ゴムのあるところは、やはり筋がつく。がこころもち緩いと見えて、3時間履いても左程腫れ上がらなかった。
歳を取るということは、いろいろ気苦労があるんだよと言いたかったので、こんなブログを書くことにした。

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2006年5月31日 (水)

捕虜生活

戦後になってアメリカの捕虜になったものの話など聞くと羨ましくなったことがあった。そしてシベリアに送られたソ連の捕虜(?)の話を聞いて今度はその哀れさに憤った。
私の捕虜生活はそのどちらとも違っていたが、放任という自由があっただけに救われた思いが未だに残っている。
鉄条網はおろか境界もない。どこへ出かけようと自由である。
いつだったか公用で軍司令部のある咸寧に行く時、一人で汽車に乗った。賀勝橋から咸寧まで(いずれも中国湖北省)1時間だが、4、5両連結の列車はすし詰め以上で,機関車の冊回りや石炭車の上までぎっしりの人人である。こちらはむろん金を払った覚えはないが、一般の民衆は金を払って乗ってたのだろうか。運転は日本兵だし、汽車は日本のD番号だった。
戦争終了後もしばらくは日本軍が運営していた。
検問もなければ咎める人も居ない。軍服のままでなんでもなく行き来出来た。平和と言えば平和であった。
夜など唯一の盛り場であった賀勝橋の駅前(といっても駅舎があったかなあ、記憶にない)の商店街では、沢山の日本兵捕虜がうろうろ徘徊していた。
食堂などに入ると、見知らぬ中国人に酒を勧められ、コップいっぱい一呑みに呑む彼らの習慣作法に辟易したものである。
ただ、それでいて、三民主義青年団と名乗る民兵みたいなものが、漢奸狩りと称して、おそらく日本軍に協力したものだろう、しょっぴいて来て、街外れの広場で銃殺していた。つぎつぎと私が見たときは4、5人いただろう。死にきれずに夜通しうめいていて、眠られなかったことを憶えている。
その広場の一角には町民の便所が十数人用2棟あり、戸のない大便所は我々にはちょっと戸惑う代物だった。
朝などいっせいに横向きに並んでしゃがみ、用足しする姿は壮観とも言えた。もちろん女性はいない。彼女らは家の中で処理するとか。
ある時、押収した花柄の奇麗な琺瑯製の洗面器で顔を洗っていて、彼らに笑われたことがあったが、それが彼女らの便器であった。
この街へ来るのは部隊本部がここにあったので、本部に用事のある時だけで、普段は4キロ離れた農村部落の民家が私たちの収容所だった。
こちらは後ろの方に屋根付きの大きな便槽があって、板で橋渡しをしてあり、その上に股がって大便をする。後ろと言っても見通しがよいので日本の様に隠し所とは言えない。

軍の薬品を使って、施療所を開設していたので、住民がいつも押し掛けていた。何処の国でもただが一番よい。
虎に食いつかれたという大怪我をした、住民が担がれて来たりした。
虎がいるのかと驚いた。後日虎刈りをしてくれと住民に唆されて、近くの山を巻き狩りしたことがあったが、獣道は四方に張り巡らされていて流石に気持ち悪かったが、とうとう出ては来なかった。
ハリネズミかセンザンコウか知らない不思議な動物を持ち込んで来るものもいた。田舎の住民は皆人なつこかった。
ただでは悪いと思ってか、施療のお礼に勝手に持ち込むのである。

ただ、無性に腹が減った。1日300gの米では、1食めんこにお粥でせいぜい6分目である。
なけなしの身の回り品と交換で、近くの民家で茶碗一杯の飯を恵んでもらったことも何度かあったりした。
近くの小川や沼は絶好の釣り場だった。ゲンゴロウ鮒がかなりいたが、すぐ取り尽くした。ハヤは無数にいたがこちらはあまり腹の足しにならない。野草は食えるものは何でも食った。春先には蛙が一番おいしかった。
とにかく1年近くに及ぶ耐乏生活は、後には動くことさえ容易くはなかった。
同居していた、中国人の老人でも没法子(めいふぁーず)だ、死ぬを待つだけだと何もしないで寝ていた。

兵隊たちも寝たり起きたりの毎日が続いた。要は少しでも空腹を忍ぶのが一番重要だった。
それでも娯楽は麻雀をトップに凄く盛んであった。器用な兵隊が駒をつくった。
演芸会も盛んだった。東京周辺の兵隊が主力だったから芸人は多かった。
自由放任というのはこういうことであった。

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