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2006年4月19日 (水)

人生五十年

人生50年といってた時代のわたしの50歳は1970年だった。
この年は大阪万国博覧会が何といっても話題のトップと言ってよい。親孝行のつもりで一人の実母と家内の両親に声をかけた。家内の母には体調が悪いからと断られ、母と義父と私の3人の旅となった。
6月17日朝未明に車で出かけ、昼過ぎに一応会場に着いて外回りを見聞し、予約していた奈良の宿に泊まる。しかし先方の都合で二日目は若草山の中腹の平城ホテルという宿に移される。
この頃京大阪方面には電話予約を受け付ける所はもうなかった。

18、19日と会場に通う。
連日30万、40万人の人出なので田舎者の我々にはちょっと対応が難しかったらしい。
アメリカ館やソビエト館は凄い行列で、母の言葉では”みにもかわにもならん”とこぼされつづけた。珍しいというだけでは楽しみにはならなかった風である。
こちらも苦痛な親孝行で楽しい気持ちにはなれなかった。

20日に山陰方面を通って帰ろうというので、丹波に向けて出発する。
途中道を間違えて篠山の近くの山中に入り、福知山に出る頃には午後も大分遅くなった。
これでは鳥取まで行くのは大変だと、途中で湯村温泉を見つけて宿を捜す。簡単に見つかりやれやれと安堵する。
後年夢千代日記で随分有名になったが、当時は鄙びた温泉で、ただ道路脇に湯煙が吹き出て、卵など茹でてたのが何とも珍しかった。
ともかくその夜は大きなカニが丸ごと1匹づつ付く豪勢さで、母親は残した料理を翌朝食べたりしたほどである。
二人とも温泉に4、5回出たり入ったりして、今度はすっかり喜んでくれた。
最初の日の東大寺や奈良見物と最後のこの温泉が一番親たちを喜ばしたようである。

夏休みの終わる頃、家内と娘一人をつれて再度見物に出かけた。今度は勝手は分かってたので、宿は予約せず会場の案内所で取って貰い、長岡京の錦水館に泊まる。
今度も連日60万人を超える人波で、もううんざりする。日本庭園の側でぐったりして腰を下ろしている写真が残っている。楽しくも何ともない見物だった。

この年は事業が佳境に入り、九州各地に出店したりして、多忙を極めていたのだが、10月2日母の直ぐ下の弟が癌で死去し(70歳)、やっと葬儀に出席出来たが、駆けつけるや親族代表の挨拶をやってくれと言われて戸惑ったりした。
叔父は無口の一撤者で、蓮根田を5400平米も一人で作る程の豪農といってよかったが、癌には勝てなかった。

この年は50歳の節目を祈願する意味もあって、正月そうそう一家をつれて(飼い猫まで乗せて)金比羅神宮に参詣した。
翌日は、栗林公園から屋島そして鳴門海峡まで足を伸ばし、帰りはどの港も自動車でいっぱいで本土に渡れす、暗い夜道をぶっとばして松山まで帰り、最終のフェリーで呉経由で深夜帰宅した。乱暴な日程の旅行だったが、まだ血気盛んだったんだなと述懐する。Sinbol_tw
Osakabanpaku_1
Komuna
Hitononami
Hitoyasumi
Nara_park

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