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2006年4月 1日 (土)

動物園

昨日は、天気が良いので植物園に行こうと家内が言ったので、出かける準備をしているとき、ふと今日は定休日であることに気づき、急遽動物園行きに変更する。

植物園と違い見物客には老人夫婦だけなんて云うのはいない。ほとんどが子供連れ。それも家族が主で、いつも見る幼稚園児の団体は見当たらない。春休みだから仕方がないのか。予想以上に多いかったが、春を待ちかねての行楽だろう。

レッサーパンダくらいで、大して関心を引く動物は見当たらない。
子象と遊ぶ親象の微笑ましい姿とぎゃーぎゃー言う子供たちを睨みつけている虎二頭が印象に残るぐらい。

若い者たちには涼しくて気持ちがよいささやかな風でも、年寄りにはこたえる。日の当たる物陰を選んで歩く。
もともと足の鍛錬目的だからそれでよい。
売店に入りホットドッグ一つで腹を満たして、2時間ばかり歩き回り、十分堪能して帰る。Zo
PandaSaru

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2006年4月 2日 (日)

桜祭り

市の桜祭りで、桜土手に茶席が設けられるので、家内は誘われて友人と出かける。
折から雨模様の悪天候。予報では雷来も予想され、随分迷ってあちこち電話していたが、とうとう10時過ぎに出かける。さくらは開花の発表は聞かないので、まだ蕾のままではないのかと思われる。
桜祭りといってもこれでは様にならない。おまけにテントがけの中では、風流も何もない。風邪を引かねばと心配である。

全国ではもう満開を過ぎたところも多い。この地方はなぜか極端に遅れている。
昨年暮れからつづく異常気象のせいだろう。
うちの庭の桃はやっと蕾が赤くなって来た。春先からまるで予兆がなく、枯れたのではないかと随分心配さした。
ここに来てやっとほっとする。

となりに植わっていた山茶花はとうとう赤茶けて、枯死が確認出来たので家内が掘り起こして焼却してしまった。
原因はわからない。我が家では簡単に異常気象のせいにしているのだがどうだか。

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2006年4月 3日 (月)

随想

昨日とうって変わっての好天気。今日が桜祭りだったらと思っても、天の神様のおぼしめしだから、こればかりはどうしようもない。家内は土砂降りのさなかに出かけたのだが、雷鳴が轟いたりして一時はどうなるかと心配した。
肝心の桜は未だつぼみでがっかりだった由。
今日のこの天気で俄然開花へ突進と行きそうだ。

昔私の幼い時分は、4月3日が祭日(神武天皇祭)でお休みだから、親が朝早く起きて弁当をを作り、私たち子供は近くの山に競争で登り、場所取りをする。
今日の様なよい天気だったらもう大変だ。山を駆け回ったり、いろいろゲームをするやら、大騒ぎしたものだ。
親たちはそれを横目に、大声で世間話に花を咲かせるに忙しかった。
現在の様に大金をはたいて、身動きもできない様な行楽地に押し掛けなくても、十分楽しい一日を過ごすことが出来た。

『ふるさと」の文句にある様に、こどもたちは何もなくても、自然を相手に健康的な幸福な生活を楽しんでいた。
今のこどもたちは大事に大事にされつつも、却って不幸な環境に置かれているのではなかろうか。

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2006年4月 4日 (火)

カープ地元開幕戦

カープの地元開幕戦を手ぐすね引いて待ってたんだが、午後からの雨で中止になった。
相手が阪神だし、球場を半分分けての応援も面白いのだが、残念である。
実は今日はブログにこれを書くつもりで居たので、待ちぼうけをくらった私のダメージも大きい。

若い時分は県営球場やどさ回りの地方球場にもよく足を運んだ。何せ球場らしい球場はなかったので、会社などのグランドを縄張りして、土の上でしゃがんだり、足を投げ出したりして見たものだ。
もちろん解散の危機時代にはタル募金に協力したことは忘れていない。
毎年どん尻がお決まりの球団だったが、長谷川、大田垣など高校出だての生きのいいのが、時々ジャイアンツを押さえたりすると、その快感に酔いしれた。

創立以来のファンだったが、私の会社が倒産したりしてそれどころでなくなり、遠ざかってしまった。

それでも古葉さん時代には何度も優勝の美酒に酔った。陰ながら応援をつづけ、いつも気になる存在である。
昨今の不成績であの世への手みやげを持てそうにない。
外人さんの監督は、カープには縁起が良い。今年こそはと期待しているのだが。
今生の潮時でもあるし。

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2006年4月 5日 (水)

松岡洋右

確か昭和10年頃だったか、松岡洋右が私たちの中学校に来て、生徒に講演をしたことがあった。
彼は昭和8年日本全権として、国際連盟を脱退したことで有名だった。
その講演の話の中で特に印象に残り、生涯を貫いて共鳴したことがある。
それはアメリカ人は国旗を大切にし、神の如く敬っている。日本は天皇という人間を敬っている。それを不思議がって可笑しいと言ってるが、同じ血の通った人間を尊敬することより、紙や布で作ったものを尊敬する方がよほど可笑しいと米人に反論したことがあるということだった。
国の成立の根幹に関わる問題だから、考え方が違うのは仕方がない。
しかし清純な子供の心の中には強いインパクトとなった。

彼は幼年期から渡米し、さんざん苦労して勉強し、政治家を志して最後は外交官のトップにまでなった。
日ソ不可侵条約を結び、終戦時ソ連の破約にあって、何百万の在満邦人が犠牲になる原因を作ったことは忘れることは出来ない。もしこの条約をソ連が履行していれば、他の諸国と同じように整々と引き上げ、無辜の民の犠牲は物凄く小さくて済んだであろう。
日本は独ソ戦が始まったとき、私は丁度兵隊としてソ満国境の部隊におり、日独伊同盟の建前参戦をするかと思われたが、前記の不可侵条約のため敢えて侵攻はしなかった。
日本の参戦がないことを確認したソ連は極東の大軍をぞくぞく対独戦線に送り込み、態勢を挽回することが出来たことはよく知られたことである。

日本人の考え方は、やはり東洋流の人間本位の哲学から発して居り、欧米人の物質本位の考えとは異なっていたわけである。畢竟日本の宋㐮の仁が遅れを取らしめたということだ。

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2006年4月 6日 (木)

花の宮島

今年二度目の宮島。
どこに行こうか迷ったが、五重塔回りの花がいつも美しいので、やはり宮島と決めて昼前から出かける。
雑踏を避けて自動車専用道路を通り抜け、五重塔の見える光明院のところに下りる。やはり満開ですばらしい景色。
いつもとは違う角度からの眺めで堪能できた。Deer

Komyoin
Gojutower_1
White_cherry
Senjokaku
Hanatou

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2006年4月 7日 (金)

孫のホームステイ

先日東京の孫がオーストラリアのホームステイから無事帰って来た。先方に大変好くしてもらったと言って上機嫌、お別れの時には随分悲しくて泣いたそうだ。
私に取っては一番末の14歳の孫で、72歳も歳が違う。昔だったら顔も見ることも出来ないうわさの祖父になるわけだが。

小学校に上がったかどうかのとき、お絵描きのソフトを使ってパソコンで盛んに絵を描いて私を驚かせたことがある。
読書の好きな子で、何時娘のうちに行っても静かに本を読んでいるので、少し内気な子かなと思っていた。
今回はそうでないことを立派に立証してみせてくれた。
よく会話が出来て、何度も褒められた由。
英語の本を辞書を引きながら読んでたことも度々あるくらいで、語彙は豊富だったのであろう。

小さい時からメールはよく呉れてたが、何せ遠くに住んでるので、年に1、2回会うのがせいぜいで、私には遠慮があるかもしれない。しかし私に取ってはかけがえのない、素敵な孫である。Bravo!と言ってやりたい。

時にホームステイとは大した制度だなと感心する。上の孫も数年前同じオーストラリアにホームステイしたことがあり、その後の交際も続いているようだし、昨年は先方の家族がわざわざ訪ねて来られた程だ。平和はお題目をいくら唱えても仕方がない。こうした事実の積み重ねが大切だと思う。

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2006年4月 8日 (土)

中学同窓会

今日は中学校の同期生の同窓会が錦帯橋畔のホテルで開催された。
ところが生憎の好天気で土曜日とあって、満開の桜見物に観光客がわんさと押し掛け大渋滞となった。
私は朝早く家を出て、会の前に公園の桜を見ておこうと出かけたのだが、これが少し甘かった。
岩国ICを下りる時から渋滞を始め、車の列が動かずなかなか錦帯橋に近寄れない。
公園は途中であきらめて直接ホテルに向かう。やっと開会前に着いたのだが、他のものはバスもタクシーも動かないのだから、一人だけ元気なのが途中から歩いて来たのが居たが後はベタ遅れ。
1時間以上も過ぎて始まる始末。
今朝急に動けなくなったというのが一人居て、残りが合計7人の会合となった。

年々寂しくなるけど致し方ない。常連ばかりで新顔はもういない。同窓会だから話題はもちろん70年も昔の話で終始する。ほとんどが歩いて錦帯橋を渡って通学したものばかり。窓外にぞろぞろ渡る観光客を眺めながら、今更ながら今昔の感堪え難きを思う。そしてこの環境で勉強出来た若き日の幸福を偲んだ。

来年は米寿を迎える。記念行事としたいとの司会者の提案に賛成、この渋滞に懲りて1ヶ月延ばすことにする。
生きてるもの全部集めても20人は無理だろうということだが、10人も超えればめでたしとしようと手を打つ。Iwakuni
Kintaikyo
Nisiki_ri

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2006年4月 9日 (日)

歴史の問題

今に始まったことではないが、学校教科書の検定の問題から、中国や韓国あたりから事実と違うと文句が出たりして、未だに騒がしい。
昔から歴史なんていうものは、その時その時の政治情勢などの影響を受けて、真正な事実が記録されていないということはよく承知されている。
国内のことでもそれだから、ましてや海外との関連や外国そのものの歴史など間違っているのは当然である。

それを事実を知らないもの同士がいくら議論した所で、真の事実が分かるわけがない。
殆どの場合、当事者は存在していなくて、外側からの推測で事実らしいことを記録しているにすぎない。
またそもそも歴史書はその作者がその存念に基づいて、見解を交えながら書かれることが全部と言ってよい。
本来歴史はそうしたものである。

違う国同士で統一するなんて愚かなことはしない方が好い。
個人間の付き合いでも、隣の人の事を推測などを交えていろいろ言いふらせば、喧嘩の種になるだけで碌なことにならない。
逆に隣は隣でその考えを理解し合うことにつとめて、お互いの自省に貢献せしめる方が余程役に立つ。

昨日起きたことでも、人によりその受け取り方は違っている。
ましてや遠い昔のことで統一見解など出来る筈がないことを思い知るべきである。

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2006年4月10日 (月)

我が家の桃

我が家の桃がやっと八分咲きになった。
さくらは古歌を連想してか、色気などは感じないが、桃は桜と違って色気があって楽しい。
桃の節句などとの連想も華やかである。
ささやかな庭だけど、寒さに虐げられたおいぼれに、春のぬくもりを唯一もたらしてくれる花だけに、特に今年は待ちこがれた。
3月を終わる頃になっても、冷然と枯木のごとく庭の真ん中で突っ立って居るので、腹立たしく随分心配した。
満開にならなくてよいから、いつまでもこのままでと、眼前のこの木に語りかけている今日この頃である。Momo

Momo2

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2006年4月11日 (火)

一騒動

この頃、副腎皮質ホルモン剤の影響で、皮膚が極端に薄くなり、ちょっと扉の縁でこすったぐらいで簡単に皮が向けて血が噴き出し、ぎょうぎょうしい騒ぎになる。
昨日もふすまを開けた拍子に、ちょっと手が滑った。ふすまが少し重くなって開け難かったせいだが、途端に右手の甲がかなり広くぺろっと剥けてしまった。途端に血が噴き出して、付近に誰もいなかったので一人で大騒ぎする。
血が吹き出るままに、薬箱を取り出すやら、ティッシュを持ち出して拭くやら押さえるやら、たちまち修羅の巷となる。ちょっと大袈裟だが終わった跡を見て、外から帰って来た家内が、部屋が血だらけになってるが、どうしたんだと、2階の私の部屋に顔を出したんだから、やはり異常だったようだ。

すぐ思ったのがこれで顔も洗えないし、風呂にも入れない。13日からの旅行も温泉に入れないから、取りやめるかなと、つぎつぎと思いが吹き出し、対策を考えるがどうしようもない。

夜になって、半年も前に薬局に行った時、手の怪我をしても患部を覆って、水が使えるフィルムというのがあって、店員さんに押し売りされたことがあったのを思い出した。
薬箱の底を捜して、見付け出し、家内に手伝わして、ガーゼで大袈裟にくるんでいるのを外し、又吹き出す血を押さえながら、そのラップフィルムで押さえ込む。どうやらラップの中は真っ赤になっているが、外に漏れる心配はない。

今朝になって、取り替えるのに、一応出血は止まったし、新しいラップの御陰で安心して顔も洗える。
やれやれこれで旅行も出来そうだしと、一安心。

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2006年4月12日 (水)

今朝書いた日記

ドン曇だった昨日から、晴れ間の見える曇り空の朝を迎える。大分昔だった様な気分だ。2日間随分降った。1月分以上降ったらしい。でも明日からの旅行に一応めどが立ったのがよかった。
気温はもう春そのものだ。吉野の桜は一緒に咲くのでないから、この雨ぐらいでは心配要らない筈だ。

老人の厚着も1枚1枚剥がれて軽くなる。結構重かったんだなと脱いでみて気づく。
怪我の跡も大分見好くなった。人に見とがめられることもないだろう。それでなくとも足手まといの老いぼれなんだから。
列の先頭を行ったり、石段を真っ先に息を切らして登ったり、とかく見栄を張りたがるこの老いぼれなのだが、今回の旅はゆっくり後から付いて行くことに決めているので、尚更足手纏いを気遣われないようにしなければいけない。
歳を取ると気になることが多い昨今である。

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2006年4月13日 (木)

昔語り

一泊旅行に出るので、若き日の日記を借用して、今日のブログを埋めることにする。

(昭和14年4月13日の日記から抜粋)
『 会館で夕食を取った後、福永、進藤達の行くままに、ぶらりと雑談に興じつつ散策の積もりで歩いた。当てどもなくぶらぶらしていたのであるが、いつのまにか足は亀山の入り口に向かっていた。
春の夜の暖かい空気が顔のあたりを撫でて廻り、何かしら快い気持である。夕闇はいつしか迫り、見る見る中にあたりは暗くなって来る。

 頂上の銅像の立ち並んでいる広っぱに最後の石段を軽く意識的に踏んで上がる。瞬間ほっとする。
雑談ははたと止み、皆の目は前方の闇を通して窺い見る。そこには一種の好奇心が走る。誰も居ない。
進藤と福永は話しを始める。前とはがらりと趣向を変えたものである。
ともかく春だ。動物の本能として誰でも感ずることを話し始めたのだ。
俺は黙っている。話したくないからだ。何かしらそんな事を話すのが、下卑じみているし、又一種恥ずかしさを伴うのを覚えもした。
2、3人の学生らしきものに逢ったきり誰も居ない亀山をぶらぶら歩いて、又石段を降りて大砲のある広っぱに来た。
 両人がした通りにセメントを固めた四角い台上に寝転ぶ。空は既に薄墨色だ。星も光っていぬ薄暮。
明日は雨かしら。ふとそう思う。突然口笛を吹く。うまく出ない。濁った音を出す。
しかし間も無く唇が湿ると、冴えた音色は夕闇を衝いて静寂な亀山にうるみを与える。得意になって吹く。
進藤はポケットから岩波文庫のドーデーのなんとか云う短編集を出してその一節を朗読し始める。
朗読と口笛が交錯して優雅な雰囲気を醸し出す。両人とも動く気配がない。じーっとして聞いている。俺の身体もびくりともせぬ。
 突然すぐ前の池で蛙が合奏しているのに気がついた。今や亀山はオーケストラの演奏場と化した。ふと「オーケストラの少女」の演奏会場のシーンが浮かんだ。
口笛を吹くのを止めて蛙の合奏に耳を澄ます。と、はたと合奏が止んだ。「おい、口笛を止めると蛙が鳴くのを止めたぜ。共鳴きをしていたのかなあ」と俺が口を開く。「うん」とうなづいた声。
 辺りはすっかり暗くなり、静寂の底へ引き摺り込まれる様だ。蛙は音楽が好きなのかなあと、何か偉大な発見でもした様な気になって心の中で頷く。
「蛙の鳴くのは実際よいのを」とさも感心した様に進藤が言う。「田舎の蛙は鳴くのが拙いがここのは上手だ」と亀山の蛙は偉大な音楽家ででもあるような事をつぶやく。蛙の共鳴を期待して口笛を吹き出す。
 耳は他の方に集中して、と俄然合奏は始まった。心は歓喜に燃えた。口笛と蛙の合奏は続く。メロディーは樹間を通して流れる。不図「頬白先生」の最後の琴の二重奏の場面がありありと思い出された。月の無い晩はもう真夜中である様な錯覚を起こした様だ。もう何時ごろだろうか。』

 あとがき:我ながらこの一文は気に入った青春の一齣だし、やや意識過剰だが今読んでも好きだ。戦火が未だ及ばぬ、平和な学生生活だったんだなあと感慨一入である。進藤はもうこの世にいないが、福永は隣の市で健在である。
なお『オーケストラの少女」と『頬白先生」は映画の題名である。

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2006年4月14日 (金)

吉野の桜

とうとう吉野山に行って来た。天候不順のせいか、観光客の混雑は免れたけれど、それでも人の数は凄いとしか言いようがない。マイカーは普通日とあって少なかったが、観光バスの多さには驚いた。数えきれないというのがよいだろう。
桜は奥から下までほとんど満開といってよい。素晴らしい眺めだった。
先年のときとは違って、中千本から下り始めて、主に蔵王堂や歴史遺跡を中心に見物して歩いた。
ツァーだから、時間枠が3時間10分と決められたので、自由に全部を見るという訳には行かない。
老骨にむち打っての事だから、足にも自信が持てない。
終わってみて丁度よかったなとの感想だ。
論よりは証拠、素人写真でも結構凄い眺めだとおわかりいただけるだろう。Yamazakura
Zaoudo2
Zaoudou1
NakasenbonKinpuzanjiYosino2

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2006年4月15日 (土)

政権というもの

私はいつも思ってることなんだが、国の政治を動かすのはたった一人の場合が多い。多くとも2、3名である。
幕府転覆を実行したのは、高杉晋作、明治維新を断行したのは、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、日米開戦に踏み切ったのは東條英機と昭和天皇、終戦をしたのは昭和天皇と思っている。
もちろん多勢のものが、あちらに付きこちらに付いて、動向を左右しているが、決断をするものは一人である。

ここでタラを言わして貰えば、同じく長州出身の政治家で伊藤博文と山県有朋の寿命が逆だったら、今日の日本の様相は全く変わったものになったであろうと思うのである。
山県は天皇直轄という軍隊をうまく利用した。伊藤が若し居たらその独走を許すことはなかったに違いない。伊藤は憲法草案者で枢密院議長だったし、戦争慎重派だった。

ただ戦争には反対だった、牢獄に入れられても抵抗したというのでは、ダメなのである。
何時の時代でも反対したり、抵抗したりしたものは数多い。しかし時代を決めたのは織田信長であり、豊臣秀吉、徳川家康なのだ.態勢を動かす力がなかったら、どうにもならない。

只一人の独裁者を居らしてはならない、というのがアメリカ式民主主義の理想なのだが、人間本来の動物本能からすると、得てして人間は独裁者を求めたがるものなのだ。
悠久の流れの中で、この人類の将来を決めて行くのは、只民主主義なら大丈夫安心だという訳には行かない。いつその中から或はその外から独裁者が生まれるかわからないのが、政治の構図なのだから。
ついでに言うなら、宗教指導者などは、民主主義の一番対極にいるものと言うべきであろう。

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2006年4月16日 (日)

道成寺

三日前ツァーのコースの一つに紀州道成寺があり、51年振りに訪れた。
当時は5人連れの仲間と一緒に南紀を4日がかりでの旅の途中で、たまたま道成寺という駅があったので、思いつきで途中下車して参詣したのだった。
田んぼの中を会う人に道を尋ねながら歩いて行った覚えがある。今にも崩れんばかりの古刹だったと記憶している。鐘もなければ見るべきものは何もないお寺だった。ただやたらと張り紙が多く見えたことを覚えている。

今回はバスで直ぐ近くまで連れて行かれ、駐車場もあれば寺も大きく庭も広いのに驚いた。
三重塔は記憶になかったが、立派な塔が存在し、鐘楼はあったかどうか、記憶では何か置いてあった様に覚えているのだが、案内者の説明では420年前豊臣秀吉が京都へ持ち帰ったというのだから、当時もなかったのであろう。

まだカメラも持ち合せてない貧乏な時代だったから、うろ覚えの記憶ではどうしょうもない。
小さなお堂が一つと思っていたが金堂は正に堂々として大きいし、他にもいくつもお堂が点在していて、浦島太郎になった面持ちで見て歩いた。

五十年はやはり短い年ではなかった。つくづく感じさせられた私の道成寺縁起ではあった。

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2006年4月17日 (月)

浅知恵

天気は良好との予報で、久しぶりに布団でも日乾するかと思っていたが、日は射しては居るが、灰白色の空が気がかり。どうやら又黄砂のせいらしい。砂まみれの布団に寝るのもいい加減なもので、あまり嬉しくない。
今日は止めとくかとなる。

今年は春先からこんな日が多い。最近は中国からの有り難くないお土産が多い。
今の日中の政治関係みたいだ。天然現象まで同調してくれなくても思うがどうにもならない。
日本の一頃と同じく高度成長に忙しい中国でも、成長に伴う弊害が出始めているのかもしれない。

本来経済の成長とはいいことづくめではない。自然破壊が進み、どこの国でもその後始末に数倍もの努力を要している。最近の天候異変もその影響が大きいのかも知れない。
人間の知恵なんか畢竟猿の浅知恵とどっこいどっこいなのだろう。

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2006年4月18日 (火)

黄砂

今朝の新聞を見てやはりそうだったかと頷いた。
昨日のブログに書いた黄砂のことが、北京では30万トンの黄砂が全市を覆ったとある。
箒を持った市民が道路を掃いている写真が載っているが、箒で掃いたのでは砂が移動するだけで何にもならない。
そんなことぐらい分からないのだろうか。

清掃車で吸い取る工夫をしなければダメだ。しかし30万トンは大変だな。半分でも手に負えないか。
やはり自然には勝てない。自然を破壊した自業自得とあきらめるか。

今日もこの地方は黄砂が空を覆って、青空はどこにも覗かない。
年々黄砂の来襲が酷くなった気がする。

砂漠緑化に力を貸している日本人の話を何かで見たことがあるが、正にトウロウの斧に過ぎない。国家の力を持ってしてもダメだろう。それどころか国家は自然破壊に力を貸している。又何をか言わんやである。
今日も布団乾しは止めておこう!Kosa

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2006年4月19日 (水)

人生五十年

人生50年といってた時代のわたしの50歳は1970年だった。
この年は大阪万国博覧会が何といっても話題のトップと言ってよい。親孝行のつもりで一人の実母と家内の両親に声をかけた。家内の母には体調が悪いからと断られ、母と義父と私の3人の旅となった。
6月17日朝未明に車で出かけ、昼過ぎに一応会場に着いて外回りを見聞し、予約していた奈良の宿に泊まる。しかし先方の都合で二日目は若草山の中腹の平城ホテルという宿に移される。
この頃京大阪方面には電話予約を受け付ける所はもうなかった。

18、19日と会場に通う。
連日30万、40万人の人出なので田舎者の我々にはちょっと対応が難しかったらしい。
アメリカ館やソビエト館は凄い行列で、母の言葉では”みにもかわにもならん”とこぼされつづけた。珍しいというだけでは楽しみにはならなかった風である。
こちらも苦痛な親孝行で楽しい気持ちにはなれなかった。

20日に山陰方面を通って帰ろうというので、丹波に向けて出発する。
途中道を間違えて篠山の近くの山中に入り、福知山に出る頃には午後も大分遅くなった。
これでは鳥取まで行くのは大変だと、途中で湯村温泉を見つけて宿を捜す。簡単に見つかりやれやれと安堵する。
後年夢千代日記で随分有名になったが、当時は鄙びた温泉で、ただ道路脇に湯煙が吹き出て、卵など茹でてたのが何とも珍しかった。
ともかくその夜は大きなカニが丸ごと1匹づつ付く豪勢さで、母親は残した料理を翌朝食べたりしたほどである。
二人とも温泉に4、5回出たり入ったりして、今度はすっかり喜んでくれた。
最初の日の東大寺や奈良見物と最後のこの温泉が一番親たちを喜ばしたようである。

夏休みの終わる頃、家内と娘一人をつれて再度見物に出かけた。今度は勝手は分かってたので、宿は予約せず会場の案内所で取って貰い、長岡京の錦水館に泊まる。
今度も連日60万人を超える人波で、もううんざりする。日本庭園の側でぐったりして腰を下ろしている写真が残っている。楽しくも何ともない見物だった。

この年は事業が佳境に入り、九州各地に出店したりして、多忙を極めていたのだが、10月2日母の直ぐ下の弟が癌で死去し(70歳)、やっと葬儀に出席出来たが、駆けつけるや親族代表の挨拶をやってくれと言われて戸惑ったりした。
叔父は無口の一撤者で、蓮根田を5400平米も一人で作る程の豪農といってよかったが、癌には勝てなかった。

この年は50歳の節目を祈願する意味もあって、正月そうそう一家をつれて(飼い猫まで乗せて)金比羅神宮に参詣した。
翌日は、栗林公園から屋島そして鳴門海峡まで足を伸ばし、帰りはどの港も自動車でいっぱいで本土に渡れす、暗い夜道をぶっとばして松山まで帰り、最終のフェリーで呉経由で深夜帰宅した。乱暴な日程の旅行だったが、まだ血気盛んだったんだなと述懐する。Sinbol_tw
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Komuna
Hitononami
Hitoyasumi
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2006年4月20日 (木)

残月皓々

深夜放送が平常に戻って間もなくラジオの中で奈良の人が、大雨で沢山の修学旅行生が可哀想だなどと話している。
昨夜南風が激しくガラス戸を叩き、9時半には戸の隙き間からの雨風を心配して、再度戸締まりを点検して廻ったのだが、今朝はどうなったかとカーテンを繰った。

途端、一瞬ドキッとした。眼前に中天高く半月がくっきりと輝いているではないか!

日の出直前の薄明かりの中空はうっすらと青い。雲はほとんど見えない。こちらは快晴といってよい。
何十年振りに見た光景だろう。時間は丁度5時半を告げている。
うすら寒い窓の外のベランダで、寝間着のまましばらく立ち尽くす。

東天が紅くなるにつれ、空の明るさに残月は光を失い、20分もするともう捜さないとわからなくなった。
残月淡くとはこのことをいうのか。060420moon

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2006年4月21日 (金)

無駄な人生

最近のNHK-FMの音楽番組が少し変わったなと感じている。
今まで聞いたことがない曲が数多く組まれている。
現代曲とか新人の曲というのではない。百年、二百年前の作曲に関わる曲も多い。よく知られている作曲者のものも勿論だが、私から見れば無名の作家の曲も次から次へと登場する。
だから最近は連日の如く録音することになる。

一方でコンポーネントで聞きながら、気に入ったものをチューナーから直接パソコンに取り込んで、適当に組み合わせてCDに焼くというわけである。
この2年ぐらいの間にCDが5百枚を超えた。勿論その都度目録に載せて、整理は同時的に進めている。

が、ふと思うことがある。
こんなことをして、後に誰に聞かすつもりかということである。ただ作っておいても聞くものが居なければ、ゴミになるだけである。

私には一種の収集癖みたいなものがあって、先に音楽カセットを20年かかって、1000枚以上こしらえた。
又ビデオカセットも1000枚近くなっている。最初の頃はよく聴き、よく見たりした。
自動車を連日運転していたので、聞くのはいつも音楽カセットであった。
個人店舗にも自作のスピーカーを置いて客に無理矢理聞かせた。

が、ビデオの方は殆ど役に立っていない。殆ど3倍速だから凄い時間数である。死ぬまで毎日一日中見ても当然見切れないだろう。

先般の広響の定期演奏会に行った時、プログラムなどのチラシの中に、私と同じ様に録音したカセットやCDや昔のリール式テープなど凄い量のものを10万円で売りたいと広告していた人があったが、そんな方法もあるのかなと不謹慎ながら笑ってしまった。

今は私も若くない。死の直前である。私が利用しないのなら全く無意味の行為ではないか。
でも新鮮な曲、新鮮な演奏があれば繰り返し聞きたいのである。それには無駄でもCDにして置かなければ、二度は聞けない。
やはり無駄になっても私が生きてる以上は、録音する以外に2度3度聞く方法はないわけなのだから、後はゴミになっても仕方がないか。

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2006年4月22日 (土)

古稀の歳

古稀の歳
1990年(平成2年)が明けると、古稀と言われる年齢に達した。しかしこの分ならまだ生きられるなと予感した。

2月から3月に掛け、屋根の葺き替えや駐車場、階段回りの整備など、家の大改造を実施する。
一応建物のメーカー積水からの紹介でその特約店だから安心して任す。

11月には横山夫妻と私ら夫婦共々日中友好協会のツァーに参加して上海、蘇州など一円を6日掛けて旅行をする。
上海復旦大学の学生が観光客の一人一人について案内してくれて、行く先々では説明付きで有り難かった。
ただ、宿の設備が悪く、というより管理が悪く、作業員が来てくれても言葉は通ぜず、復旧も出来ず往生する。
街は交通整理のない、人や自転車の洪水で日本と見比べてその差のあり過ぎに唖然としたが、その後何度も訪れた今日の中国とは全く比較にならない。

九州や東京などあちこちよく旅行した年でもあった。興に任せた旅で苦痛など何もなかった。

8月にカシオのワープロを購入して、本格的に我が家と我が店もその利用の道に進んだ。
説明書と首っ引きで誰の力も借りることはなかった。その後2年後に上級機に、その翌年にはパソコンへと進んで、パソコン通信からインターネットへと、独学で今日に至った道のりは楽ではなかったが、70の手習いで、われながらよくやったなとの感慨が深い。

年の暮れも迫った12月30日、これが最初で最後になった次女の嫁ぎ先の母御が婿に伴われて私の家に来て、年末年始を過ごしてくれた。お見せする所は何もないうちで、満足して頂けたかと未だに気になってることである。
5年後に亡くなられたので、話を聞く機会は永遠にない。

まだ現役でほそぼそ事業を続けてはいたが、欲得は度外視して、好きなことをやるという年齢になったことを痛感していた。
永年の物質的、精神的苦労はもうすっかり忘れ去った。
だから人生が俄然面白くなった時期でもあった。今五体健全でおられるのもそのせいであろう。
Kanzanji
Niou
Reien
Tayhouden
Yoen
In_yoen

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2006年4月23日 (日)

廿日市の広響定期演奏会

予約切符を買ってたので、市のさくらぴあホールに午後2時出かける。駐車場がいっぱいで苦労する。
市では年に一回しかない広響の定期演奏会だから、しかも演奏曲目がドボルザークのチェロ協奏曲とブラームスの交響曲第1番だから、人気は上々で開会ベルが鳴る前から満員。
千人強定員のホールではすこし小さいようだ。
音響はまあまあといってよく、協奏曲には持ってこいだった。

チェロの独奏者は水谷川優子さんというヨーロッパで広く活躍している、近衛秀麿のお孫さんらしい。
わたしはCDでも放送でも聞いたことがなかったが、音色がすばらしくオーケストラとよくあって名演奏に入るのではと思った程だ。元来この曲はチェロ協奏曲の中でも、1、2を争う名曲だけに、聴衆はその演奏に酔っていたかのごとくであった。もちろん私もその一人だったが。

休憩後はブラームス交響曲第1番、60人のメンバーでは少し物足りないのではと当初心配したのだが、ホールが小さいのが却って幸いしたか、打楽器もティンパニー1で反響も程よく、これ又素晴らしい演奏になった。
円光寺雅彦の指揮は始めて見たが、無理に音を響かすことなく、美しい音色の演奏に終始した感じがした。
歌うがごときこの曲の、最後の盛り上がりは他の演奏会でもよく見るようにアンコールと拍手が止まず、とうとうモーツァルトのアイネクライネがアンコール演奏されることになった。
Hirokyo

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2006年4月24日 (月)

また黄砂

今朝も黄砂がひどい。朝の眺めが普段とまるで違う。うんざり!
何ともならぬだけに余計に腹立たしい。今ごろの季節には例年の事だが、ここのところ激し過ぎる。
何千キロも軽々と飛んで来るのだから、地球も大きい様でも小さい。
こんな小さい地球であれこれ詰まらぬことで議論したりせめぎ合いしてどうなることか。
原爆などどこかが一つ使えば、地球もお仕舞だろう。
人類の社会が永遠などと、もうかりそめにも考えない方がよい。
黄砂すらどうにもならないではないか。
Kosa2
Itukusima
SetonoumiHuyubi

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2006年4月25日 (火)

植物園に出かける

植物園に出かける。
天気がよいこともあって、幼稚園児たちの家族連れの団体がいっぱい。
芝生の広場は弁当を開いて、昼を待ちきれずに召し上がっている人で占領されている。

桜はもうほとんど散っているが八重桜が満開。小ぶりのつつじ、シバザクラ、さくらそうと小さい花々が桜に変わって今盛りである。

やはり春たけなわとあって、温室を出て戸外を楽しむのがよい。
数日来の黄砂もようやく流れ去り、青空も僅かに覗く。内海の島影も稍透明になったところで、山からの眺めももう一息といったところか。
さつき、藤、あじさいはもう少し先か、この広い庭園も人出であふれかえる日も近い。
何よりも木々の緑が冴える5月が待ち遠しい。Shokubutuen

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2006年4月26日 (水)

傘寿の歳

古稀の歳まで書いたからついでに傘寿まで行こう。
本来傘寿なんて言葉は昔はなかったらしい。どうも最近になって八十をくっ付けると傘の略字になるというので、傘寿という祝語を誰かが作ったらしい。喜寿とか米寿と違って傘では、祝の言葉にふさわしくないから、祝語というのは可笑しい。ただ80歳まで長生きしたということで、祝語らしいものをしゃれにつくったのだろう。
何はともあれ、傘寿の年には先ずハワイに出かけた。始めてではなかったのだが、3歳の時両親に連れられて立ち寄っただけだから、もちろん覚えても居ないし、今度再訪するという気負いもない。
正月に6日間オアフ島などを訪ねた。親戚も多いところだが、時代が変わって知る人は僅かだし、知ってるものも年老いて、連絡すれば却って迷惑になると思い、個人の楽しみの追求に終始した。
最後の船上の晩餐会で、ハピーバースデイケーキを贈られて祝福を受けたのが、公開された唯一の予期せぬ行事になった。
何よりも常夏の国といい、アロハシャツ1枚で生活出来る気安さは、ほんとに羨ましかった。友人でこちらに居を構えて、年間の大部分を過ごしているという話を聞いたことがあるが、さもありなんと合づちの一つも打ちたくなる感じだった。

この年は毎月の如くあちこちを訪ね歩き、自分ながら元気さを見直したくらいだった。
特に秋には紅葉の名所を、中国九州にかけて訪ね歩き、長寿の有り難さを感じ続けた。Monkypot
Hnolulu
YotoharbarDancer

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2006年4月27日 (木)

歳のせいか

もう間もなく5月になる。
しかし私の体感温度は依然として冬に近い。ベッドから出ると、ストーブや電気ごたつの側に身を置かないといけない。
老というものを今年程実感することはない。
もっとも去年もそうだったかも知れない。
物忘れがひどくなるという老人の特性が何にも働いているからはっきりしない。
家内に聞くと家内も同じ様なことをいうから、どちらも真実だろう。
大雪がふったり、変な天気が続いたり、老人をたぶらかす何者かがいるとしか思われない。
何はともあれ、すんなりと春らしい春がこないかなあと待ちあぐんでいる今日この頃である。

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2006年4月28日 (金)

今日の日記から

朝8時になると朝日が東の窓から明るくカーッと射し込む。何日振りの事だろうか。いやこの時期しかないことだから、何年振りかかも知れない。
足の乾癬が悪化し、痛いやら痒いやら、どうにもやりきれない。風呂に入る時気が遠のくぐらいしみる。
ここの所半月ぐらい続く。昨日医者にも言ったが、少しひどくなったねと言われただけで、強い薬にしようかとまでは言われなかった。まあどうしようもないと言ったところらしい。
かゆみ止めの薬は前に貰ったのが、沢山残っているので、纏めて呑むことにする。少しは違うのかも知れない。
すんなりと死の淵に飛び込むことには、なかなかならないもんだね。
昼を過ぎると、雲一つない青空からさんさんとそそぐ日光に、気温もたまりかねてか、ぐんぐん上がる。
朝の冷たさが嘘かと紛う始末。やれやれ春はこれだったと思い出す。

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2006年4月29日 (土)

ミイラ

緑の日にふさわしいとは思わないが、丁度今ごろの話だったので、私の日記から借用する。
二十年以上前の事である。
隣の奥さんから、その所有して居られるアパートの住人の一人が、2、3ヶ月家賃を支払わない、行ってみたが鍵が掛かって留守だし、近所の住人も最近見かけないから、どこかへ引っ越したか、夜逃げしたのではという。
ということで、当時鍵屋をしていた私に、合鍵がないので、壊してもよいから開けて鍵を取り替えてくれと頼まれた。
大分遠い所にあったアパートに出かけて、ドア鍵は直ぐ解錠したが、ドアが開かない。中から別に鍵を掛けているらしい。ドアの郵便受けの穴から、中を覗いて見るに格別変わった様子はない。食器などが整然と並べてある。
ここは2階の一室で、反対側の窓の外は手がかりは何もない。窓から飛び降りて逃げるにしても危険過ぎる。
死んでいるのではないかと思って、中からの匂いを一所懸命かいだが、格別死体の匂いはしない。丁度郵便配達人が来合わせたので、頼んで嗅いでもらう。やはり臭わないという。
これ以上は私には出来ないので、隣の奥さんに、ひょっとして死んでるのかも知れませんよ、警察に連絡してみたらどうですかと連絡する。
夜になって、隣の奥さんから、やはり死んでいた、後が大変だった、親戚を捜すやら来てもらって片付けるやらと電話が入った。
これから後は新聞記事に載ってたことである。
「警官が窓を壊して入ってみた所、電気コタツに入ったまま若い女の人が死んでいて、すでにミイラになっていた。自殺の疑いがある」
私がしたことは勿論新聞には何にも載らなかったが、電気ゴタツの中で死ねば匂いもしないし、乾燥してミイラになってしまうという、現代にふさわしい新しい発見をしたと思った。

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2006年4月30日 (日)

60年前の今日

1946年4月30日私は河幅何キロもある中国揚子江の滔々たる流れに身を任せて、12名の同僚とともに小舟で船頭の操る竿のままに下っていた。アンペラを敷いただけの船底に横向きになって、寝たり起きたりしながら、四周を見回したり、或は目を瞑って故国を偲んだり、他に何もなす術もない身の上だった。

昨日武昌で何日かの待機時間を過ぎて、やっと部隊を輸送するに足る小舟が整えられたので、分乗して個々に岸を離れた。
勿論こちらは捕虜の身の上、中国軍の差配に任せての文句一つ言える立場にはない。

待機している数日間には、物色して見回る中国軍兵士の好奇心をそそるものあれば、文句なしに強奪された。
私もうっかり腕時計が露出していて見つかり、有無を言わさず強奪されんとした。思わずその手を払いのけんとしたが、ナイフを出してバンドの間に差し込まれた。手が切られそうになったので、相手を制して自分でバンドを外し与えた。
別の兵士が私の眼鏡をさっと取り上げた。それは困ると叫んだが、彼は自分で掛けてみて度が合わないので、ダメだと分かり返してくれた。
敗戦とはこのことかと今更胸に痛みがしみた。
すでに出発前身体検査を受けて、最少限の持ち物以外は全部没収されていたので、今更ある訳はないのだがそれでも彼らはしつこかった。
日本軍がかっては同じ様なことをしたのかもしれない。うらみっこなしだなと心のうちで笑った。

イルカが何頭も側を泳ぎ過ぎた。先年フェリーで遡江するときには、いつまでも付いて来たもんだが、こんな小舟には目もくれない。赤茶けた水の中は何も見えない。流水にざっくりと削り取られた江岸の景色が遠く長く続くだけで、人家は殆ど見えない。ただ所々停泊出来る港らしき場所があり、そこには人家というより可成りの集落が見える。
もちろんこちらはお呼びでない、通過するだけである。

小用を足したり、食事のための飯ごう炊爨したりする時には、何もない岸辺に舟を寄せ、上陸してことを逹した。
食事といっても、米だけでおかずという様なものはない。水は泥水を湧かして呑む。
時速何キロか、呑気なものである。
この旅は結局後15日かかって南京の下関に着いたのだが、他の舟も後先になりながら下って行った。その毎日の事情は知る由もない。

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