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2006年3月 1日 (水)

生還の日から

戦争が終わって、10ヶ月も経った昭和21年6月8日もう昼に近かったかも知れん。武昌で中国兵に腕時計を強奪されたので、時間を知るよすがはない。駅舎もあったかどうか、改札をくぐった覚えも無い。もっとも帰還兵だから切符なんか持っては居ないが。
駅前の町もみんな無くなっている。爆撃で穴だらけになって、道とも田んぼとも沼とも訳の分からぬ所を、感を頼りに我が家付近にたどり着く。
自分では大きすぎて、幼時毎日の掃除に草臥れて、こんなくっされ家とののしり、呪いながら過ごした我が家はもう跡形も無い。小さな20坪くらいの見覚えのある貸し家がぽつんと立っていたので、山の様になった残骸を横目に側を通り抜けて入り込むと、もんぺに頭巾姿の母がニョキッと目の前に現れた。
「おー、帰ったか」差し伸べて来た母の手を握る。
うなるように声が出たかも知れない。それ以後のことはまるで覚えていない。
こんなになって、よくも生きていたなあと身震いする程嬉しかった事は言うまでもない。

あれやこれや、言いたい事やりたい事は山ほどある。
半月ぐらいはあっという間に過ぎたのであろう。もちろん親爺の墓参りは数日中には済ました。山から見る風景の凄まじさは、戦地の裏返しで完全に仇を取られたなと悔しい感慨にみたされた。

私の日記が再開されたのは次の日からであった。
『6月24日(月)曇時々晴
例の如く爆弾の穴埋め。10日前よりは自分乍ら驚く程馬力が出る。南京で吐いた血の思い出も心の隅には残っているけれど、何だか働く楽しさ、健康さに病気どころではないといった感じだ。
約10ヶ月間の俘虜生活は確かに心身に非常なる影響ー衰弱ーを齎した。後一月も永かったら、病人が多発したであろうのみならず、自分自身も参っていたかも知れないと云った感じが深い。
何事もそうである様に、時間が経つと昔の苦しみが却って楽しく思い出される如く、今度の場合もそうだ。お先真っ暗な場面に逢着した事も二度や三度ではなかったんだが。
駅で別れた旧部下、戦友たちよりも、続々と手紙を頂戴する。返事も機を失せず出す様にしている。確実を期する為、一々貰った手紙にチェックをし乍ら。

6月25日(火)曇時々雨
雨が降っても穴埋めは相変わらずの僕の仕事。今日は母と弟と三人で能率が上がる。
よくもこんなに大型の爆弾を近接して落としたもんだと感心する。直撃を食らったわが家の残骸、当時は想像するだに凄い状況になっていただろうなと、見て来た長沙や桂林の廃墟の様が思い浮かぶ。
昨日今日馬鹿に夕方蒸し暑い。ラジオの伝えるところでは7度高いとの事。
蚊も多い。3本の線香にばたばたと高射砲の飛行機に対する以上に効果が上がる。
今日は稍労働に疲れたか馬鹿に眠い。足の裏も痛い。泥や石ころで足の裏の皮がすれたらしい。風呂の中で随分しみた。』

(写真は爆撃で無くなった元の家、真ん中の子供が私5歳)(次の写真は戦後仮住居)
old_my_house
postwar_home

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