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2006年3月15日 (水)

今日は母の命日である。あれからもう丁度20年になる。
月日の早さに驚く。
働き者だった母の顔色を眺めながら怖れ暮らした若き日の事が思い出される。
怠けると容赦なかった。何事も真剣勝負で当たるよう指導された。
能力の乏しい私が何とかここまで来れたのも、母の力なしでは不可能だった。

母の人生最大の危機はもちろん終戦の前日の米軍による空爆だろう。家に直撃を受けて住いを失い、家の周囲の5,6百坪に7個の百キロ爆弾が落ち、殆ど全地積が穴と不整地になり、人力での回復は大変な作業であった。
10ヶ月後に帰還して私が見たものは、家の残骸がある程度片付けられた以外、田畑の爆弾穴は殆ど手つかずで食用カエルやエビ、フナの類いのすみかだった。母は土蔵の脇の防空壕で死をまぬかれ、独力で復興に立ち向かった。泣き言は一切言わなかった。
父は大東亜戦争勃発前年に病死し、その4ヶ月後には私が渡満し、更にその10ヶ月後には出征した。残ったのは小学生の弟妹と2つ違いの妹の3人だけだった。
生還した私も職を失い、地元企業になんとか拾われたが、間もなく人に騙され損害補償をさせられ、或は別途事業に手を出し、失敗して破産寸前に陥った時も、毅然として対処してくれたのは母だった。

20年も経って、生活をやっと人並みに返し、現在に至ったが、この母に報いることは遂に全く出来なかった。
私自身死を目前にして、母の一生に及ばざること遥かに遠いことを思うと無念で仕方が無い。(写真は数年後まで残った我が家の前の爆弾穴、真ん中が母)bomb-hole

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