« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月 1日 (水)

生還の日から

戦争が終わって、10ヶ月も経った昭和21年6月8日もう昼に近かったかも知れん。武昌で中国兵に腕時計を強奪されたので、時間を知るよすがはない。駅舎もあったかどうか、改札をくぐった覚えも無い。もっとも帰還兵だから切符なんか持っては居ないが。
駅前の町もみんな無くなっている。爆撃で穴だらけになって、道とも田んぼとも沼とも訳の分からぬ所を、感を頼りに我が家付近にたどり着く。
自分では大きすぎて、幼時毎日の掃除に草臥れて、こんなくっされ家とののしり、呪いながら過ごした我が家はもう跡形も無い。小さな20坪くらいの見覚えのある貸し家がぽつんと立っていたので、山の様になった残骸を横目に側を通り抜けて入り込むと、もんぺに頭巾姿の母がニョキッと目の前に現れた。
「おー、帰ったか」差し伸べて来た母の手を握る。
うなるように声が出たかも知れない。それ以後のことはまるで覚えていない。
こんなになって、よくも生きていたなあと身震いする程嬉しかった事は言うまでもない。

あれやこれや、言いたい事やりたい事は山ほどある。
半月ぐらいはあっという間に過ぎたのであろう。もちろん親爺の墓参りは数日中には済ました。山から見る風景の凄まじさは、戦地の裏返しで完全に仇を取られたなと悔しい感慨にみたされた。

私の日記が再開されたのは次の日からであった。
『6月24日(月)曇時々晴
例の如く爆弾の穴埋め。10日前よりは自分乍ら驚く程馬力が出る。南京で吐いた血の思い出も心の隅には残っているけれど、何だか働く楽しさ、健康さに病気どころではないといった感じだ。
約10ヶ月間の俘虜生活は確かに心身に非常なる影響ー衰弱ーを齎した。後一月も永かったら、病人が多発したであろうのみならず、自分自身も参っていたかも知れないと云った感じが深い。
何事もそうである様に、時間が経つと昔の苦しみが却って楽しく思い出される如く、今度の場合もそうだ。お先真っ暗な場面に逢着した事も二度や三度ではなかったんだが。
駅で別れた旧部下、戦友たちよりも、続々と手紙を頂戴する。返事も機を失せず出す様にしている。確実を期する為、一々貰った手紙にチェックをし乍ら。

6月25日(火)曇時々雨
雨が降っても穴埋めは相変わらずの僕の仕事。今日は母と弟と三人で能率が上がる。
よくもこんなに大型の爆弾を近接して落としたもんだと感心する。直撃を食らったわが家の残骸、当時は想像するだに凄い状況になっていただろうなと、見て来た長沙や桂林の廃墟の様が思い浮かぶ。
昨日今日馬鹿に夕方蒸し暑い。ラジオの伝えるところでは7度高いとの事。
蚊も多い。3本の線香にばたばたと高射砲の飛行機に対する以上に効果が上がる。
今日は稍労働に疲れたか馬鹿に眠い。足の裏も痛い。泥や石ころで足の裏の皮がすれたらしい。風呂の中で随分しみた。』

(写真は爆撃で無くなった元の家、真ん中の子供が私5歳)(次の写真は戦後仮住居)
old_my_house
postwar_home

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

関節症

今日は病院に行く日なので、例により6時半に起きて準備、8時には病院に入る。
左手の痛みが一月たっても消えないので、結局チガソンを呑む事になる。若い人には奇形児が生まれるなど、副作用が激しい薬だが、老人には関係ない。しかし同じ人間だから後から文句をいわないようにと念書を書かされる。(未だ生殖能力があると認められたかな)

十年ぐらい前に此の治療を受けて、その時は80日で完治した経験がある。
あの時は足も手も指という指の関節が、皆ふくれあがって曲がってしまった。
生まれて始めて松葉杖を突いて歩行した。

しかし今回は左手の二本の指だけだから、大した事は無いだろう。
死出の山への旅路は、一筋縄では行かれないらしい。切ったり貼ったりはごめんだが、薬を飲むくらいなら我慢が出来る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 3日 (金)

桃の節句

今日は別名「桃の節句」である。
じいとばあでヒナ人形には関係ないが、桃は今年はどうしたんだろう。
高いお金を出して買って来た桃が、今年はつぼみも出てない。

家内はまだ時期が早いからという。しかし花は咲かずとも蕾くらいはというと、枯れたかも知れないともいう。
秋に少し刈り込み過ぎたからかも知れないと思ったりする。

今年は、庭のサザンカも葉が黄色くなって生色が無い。
夫婦で口裏合わせの様に、枯れたのかなあ、枯れたかも知れないなあと昨今はしばしば愚痴に出る。
今度は桃でなければ良いがと節句の日だけに、よけいに気が気で無いところである。

新潟ならずとも、痛みを感じているところがここにもある、今年の天候異変。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 4日 (土)

乾癬という病気

一昨日も書いたが、乾癬という私から見れば訳の分からない病気で、日本全国で10万人ぐらい悩んでいるらしいが、関節に来るものはその一割というのだから、1万人程度ということらしい。
ネットを見ると、友の会などが出来たりしてなかなか騒がしい。
しかし原因が未だに分からないとはどうしたことだろう。私に言わせれば、むしろその分からないという方が分からない。
ともかく日本では患者数が少ないので、民主主義から云って研究も後回しになるのは致し方ないことだろう。
しかし、欧米では皮膚病の代名詞になってるぐらい多いのだそうだから、分かりそうなものだがなあ。

ただ命に別状ないし、私みたいに長生き出来る病気だから、逆に好まれているのかも知れない。
癌とか、結核とか、とかく痛み苦しまなければならない病気でないから十分を云ってはいけないのかなあ。
まあ、痒いぐらいは我慢するか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 5日 (日)

梅と桜

よく晴れたので、気温は低いが、チチヤスに梅見としゃれた。
同じ気持ちの人がいくらか居ると見え、広い敷地に三々五々散策を楽しんでいる。
梅そのものは点々と数えられる程しか無くなって、往年のチチヤスを知るものにとっては寂し過ぎる光景ではあるが、中国新聞が工場を造ったのでその関係の出入りが人出を助けているのであろう。

この界隈では、宮島、岩国、縮景園など小規模のものが点在するだけで取るに足るものは無い。
光まで行けば冠梅園が見応えがある、5年程前に婿が連れて行ってくれて堪能したことがある。
大河ドラマの『徳川慶喜」で賑わった年に、もう一人の婿が水戸の偕楽園に案内してくれた。これは歴史があって流石に別格であった。

しかし、どちらにせよ、桜と違って花も木も風情こそあれ、派手さがないだけに人を呼ばない点残念である。
まもなくその桜のシーズンである。家内のたっての希望で吉野を再度訪ねる事になっている。
こちらは3万5千本と桁違いの全山を花で埋め尽くす豪華さである。
わくわくしている所だが体調が果たして許してくれるかどうか、何とも云えない。
(写真は左から偕楽園、冠梅園、チチヤスの梅)
ume
hikari-ume
chichiyasu

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 6日 (月)

下駄がなつかしい

先日のブログの中で、私の学生時代専ら下駄を履いたことをちょっと書いたが、考えて見ると学校へも毎日下駄で通ったと思うし、その頃の写真もげた姿である。
小学校時代はもちろん下駄とゴム靴が履物の主流で、運動会などは裸足で走った。
だから冬は随分冷たかったし、弱い子供は足袋を履かされたりした。
カランコロンと楽しい音を立てて歩く時代はよかった。その音で誰かが分かったりして、嬉しくなったりしたものだ。
学生が腰に手ぬぐいをぶら下げ、高下駄を履いて、その音で拍子を取りながら放歌吟声する姿は絵になった。

下駄というのは鼻緒に足をはめて歩くのだから、結構足の先に神経を尖らせる必要があった。
だから自然足の指を運動さす事になった。手が塞がったりすると、足の指を使って物を保持するなどという事も簡単に出来た。

靴の生活になってから、指は無用のものとなってしまったので、私の場合は乾癬にかかると真っ先に足指に来て、皆変形して動かなくなってしまった。現在の無惨な姿は自分ながら哀れである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

学生生活最後の日

今から丁度66年前の学生最後の日、明日は卒業式という日の郷里で迎えた朝の感慨

昭和15年3月7日
 父亡き後の我が家はほんとうに火の消えた様である。弟妹ががたがた騒ぎ泣き廻るので、些か憂鬱は消されるが、流石に何となく頼りない心細い気持である。
 父が亡くなってしまって見るとほんとに僕の学校生活は長かったなあと感ずるのである。

 近頃毎朝飛行機が飛んでいる。時には十数台のものが空を震わせているのだから本当に凄まじい。ぼんやりしている時ならそれでも気が紛れるからよいが、何か読んでいる時なんかは喧しくて困る。ほんとに落ち着かぬ夜になったものである。せめて朝なりと静かにしていてくれればいいんだが、朝っぱちから昼まで唸られるんだから堪らない。

 十年前の麻里布と一変した今日の麻里布。何だか僕の故郷は何処か遠くの片田舎にあるのではないかとさえふっと感ずる。故郷はのんびりした片田舎であって欲しい。それがどんなに私の心の慰めとなり、糧となることであろう。
 麻里布は田舎のままであるには余りにも地勢条件が優れていた。結局何時かは都会に発展すべく運命づけられていた。かくして私は日々此の故郷との繋がりを徐々にうとましく感じて行かざるを得なくなって来たのであった。

 満洲へ行くのも後十日余り。愈行くとなると予想外に準備とか、片付けて置くべきことが多いのに驚く。そしてそれが為に何となく不安を感ずることが偶ある。ぷいと山口へ行くように気軽に行けぬものかなどと思ってみたりする。
 又関釜連絡を20日頃から割り当てにするとか。こんな事が出ると又ひどく不安さが加わる。海外へ自由に往来出来る様な日が楽に来ないものかと歯がゆい気持である。(写真は今はなき我が母校)
 boko

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 8日 (水)

新婚ほやほやの頃

戦争と破壊で、何もかも失って半ば魂も抜かれた状態で5年経ち、生活がなんとか出来そうな状態になった所で、母や知人のたってのすすめで、全く見ず知らずの娘と見合いして、昨年(昭和25年)5月3日の憲法記念日に結婚した家内とのある日の幸せな一日の日記である。(55年前の今日という日がお互い元気で読めるのがうれしい)

昭和26年3月8日(木)
旧暦は2月朔日で一日正月。妙なことで2月でも正月とはこれ如何にで、意味は分からないがともかくそういうことになっているらしい。

妻は里帰り。でも夕方一緒にセントラルで「賭博の町」を見る。大した事はない、南北戦争直後の物語なのに邸宅や銀行の余りに近代的過ぎるのが氣になる。

夜の街を二人でこつこつ歩いて帰ると、生温かい早春の夜気がほのぼのと明るく、暖かい二人の胸に調和して心地よい。道すがらライトに映し出される妻の顔、誠実と愛情に溢れたその美しさ。その眼も口も何もかも可愛くて堪らない。なにものかがこの平和を乱してはならない。そして折角のこの楽しさ、せめても少しでもと護衛の騎士のつもりで共に行く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 9日 (木)

縮景園

地元に居ても、テレビなどでいつも紹介されてるので、滅多に訪れる機会の無い縮景園に家内に促されて梅を見に行く。
なるほど梅の花は満開で沢山の人が訪れ見守っている。花の下のベンチは空きは見られない。
梅園の規模も左程大きくないので、今日ぐらいの人なら丁度よいところだ。私たちが居たときは五、六十人といったところだった。

縮景園との名の通り、天下の三大名園などと違って、規模は小さいが庭園の景色は浅野の殿様が国力を誇示しただけあって見事な物である。梅は添え物の感じで、主体は太田川の水を引いた池を中心の縮景にある。
ただ残念なのは、都心になったため、回りに高層の建物が多く、名園にふさわしい借景とならないことである。

春になったばかりで木々の芽吹きの美しさは見えないが、四季いつでも鑑賞に堪える風情を残す、やはり名園と呼ぶべきであろう。IMG_1047
IMG_1029
IMG_1050

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

HERUMITAGE

先日県立美術館にエルミタージュ美術館展を見た。家内がどうしても見たいというから渋々従ったまでだった。
もちろんエルミタージュ美術館のほん一部を展示した物だが、ブランドル絵画など古いものが主体で、さほど感動を呼ぶ物はなかった。

入ってすぐ、今はやりの携帯電話でパチパチ写真を写している女性が数人居たので、ここは久しぶりに写真を写してもいいのかなと、デジカメを出してちょっと気に入った絵の写真を写していたら、監視嬢に咎められてしまった。
撮影禁止だと云う。
仕方が無いので出口の売店で、写真帖を¥2000.で1冊買って帰った。
たかだか100点か200点の展示物だが、とても1時間ぐらい眺めたくらいでその印象を記憶することは出来ないからだ。入館料¥1200.はちらと見るだけでは高すぎるのではないかとも思った。
私はどこでも記憶する補助手段として、出来る限り写真を撮るか、販売している写真があれば購入することにしている。見るという事は、聞くと一緒で五感のうちでもっとも記憶力が悪い部分であるから。もちろん私だけではあるまいが。

日本では美術館というところでは、撮影禁止の表示をしていることが多い。
なぜだかよく分からない。昔はマグネシュームを発火させたりしたから、展示物に害を与える恐れがあるので、禁止はやむを得ないが、現在の撮影機器が害を与えるだろうか。

先年台北の故宮博物館に行った時、案内人がどうぞどんどん撮影してくださいと、逆に勧めてくれた。6、70万点もあるのだから、見ただけでは何の記憶も残さない。当たり前の話である。
もちろん気に入ったもの、珍しいものなどせいぜい数十点に過ぎなかったが、撮影させてもらった。
見学時間も2時間しかなかったので、一休みする暇もなく物凄く忙しい見物だったので、後で写真を眺めてやっと、こんな物があったのかと思い出したほどで、写真がないものは全然記憶に残っていなかった。

昔大原美術館でムービー撮影をしていて、止めさせられた経験があるが、この時もどうしてだと反問したが、規則だからとだけで、本質的な悪い理由は分からなかった。
見ただけでは何も残らない。そんな美術館などの見学はこちらがご免だと私はいつも思っている。
入館料を安くして、写真を買わすとか、写真何点か付きで入館料を設定するとか、或は入館料は高くても撮影自由と出来ないものだろうか。
HERUMITAGE

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

薪の山降ろし

満洲鉱山(株)(新京)に就職のため、郷里を去る1週間前、母の発案で1年分の薪(といっても焚き付け)を山から降ろす事になった。
80歳になる母の父が3キロも向こうの里から来て手伝ってくれた。ノウと云うというのは、我が家の4300坪の山に前年の閑散期に下苅りした雑木やシダ類を藁で束ねて、山型に積み重ねて1年間経過した物である。
ノウ2本あれば1年分の焚き付けとして十分である。
なまじっか学業成績が良かったばかりに、普段勉強ばかりさせられ、百姓をしたことのない私が、父が死んで3ヶ月目に満洲に行き二度と農業の手伝いをさせる事が出来ないと知った母が、始めての体験をさすためと一人前の力を借りるために目論んだこの作業だった。初心者の大袈裟な苦闘振りの記録である。

『昭和15年3月11日
 昨日は母と尾津の祖父さんと弟(未だ8歳)と4人で山へシダを取りに行った。
一丈以上の高さのあるノウを一つと其の半分くらいのを一つ片付けてしまった。

三つでも四つでもたかがシダの束だから、それを一束にしてその二束を一荷にしてかついでも大したことはないだろうと、たかを括っていたところが、かつぎ上げた途端その案外に重いのにびっくりした。
その位だから一キロぐらいある山道をよちよちかついで下りた時は、これはいけないと思った。少々の重さではなかったからである。途中で二度休んだ。そして思案にくれた。

思い切って立ち上がって下までかつぎ下ろしたのであるが、すっかり圧倒されてしまった。もうやる気がしなくなった。所が形勢は益々非で少々のシダではない。
両方のノウを共に今日中に持って帰るのかと問うた位である。しかし二度目からはかつぎ出すまでは、塗炭の苦しみを味わったがそれでもそれを投げ下ろすと、この位の荷なんか大丈夫だぞという自信が湧いて来るのは我ながら不思議であった。

こうして昼まで相当疲れて帰った。午後は更に激烈を極めた。それこそ悪戦苦闘。
しまいには物も言いたく無いようになってしまった。肩はづきづき痛み、足は疲れてひょろひょろし出し、足先はひりひり痛んだ。かくて次第に自信を失って来ると共に5時になるもまだ残部の莫大なるに驚嘆し恐れをなした。
夕闇は次第に迫って来た。しかし肩はすっかり駄目。もう歯を食いしばって我慢に我慢をし続けるだけだった。

俺はあの辛抱強かった父の子ではないか、又13の年から人をして驚かす仕事ぶりで、80の現在に到るも钁鑠として母や僕と同じ荷をかついでいる祖父の孫ではないか、このくらいの事が辛抱出来ない筈はないと自ら自分を叱咤した。
既に宵闇濃くなりし頃、最後の一荷をへたばりながら車の所まで持って来て歓喜の沸き上がる心をこめて荷を投げ出した。
帰って見て驚いた。肩の筋肉は腫れ上がり、足は到る所疲れを見せ、首の筋肉も何だか痛む。こうして風呂でごみを洗い流して寝た時にはすっかり身体は固まった様な気持で、自分で動かすことが出来ぬ様な感じ。忽ち奈落の底にでも落ちる様な気持で深い眠りに落ちて行った。』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月12日 (日)

死の問題

昨日私の家の真裏のうちの奥さんが癌で亡くなった。58歳ということだ。そんなに若いのがとショックを受ける。
昨年暮れから3、4ヶ月の間に同じ町内の裏の通り筋17軒のうちで4軒目である。今までは8、90台の年寄りばかりで、天寿を全うしての死だからおめでたい事だと思っていたが、今度は喜ぶわけには行かない。
死というものは時に理不尽なことをする。
ぼつぼつこちらの順番だと覚悟していたのに、突然こんなことが起きる。
世の中の不条理は今に始まったことではないが、それにしても情けない。

今ごろは親戚なども近代化の影響で何百キロも離れたところにいるうちが多い。
まともな葬儀をすれば、影響する所が大きくなる。
私の場合もそれを考えて口癖の様に、子供や兄弟に内輪で済ませ、絶対に葬儀をするな、焼いたら骨を墓(墓は数年前に作ってある)に納めてくれればよいと言いつけてあるのだが、どうも本気で受け取ってくれない節が見える。残念な事である。(だからもちろん故意に無宗教にしてある)
私も此の1月86歳を超えた。まったく余録の人生である。死の時はめでたいことと、ほん近しい者が祝ってくれれば本望である。
ただ恐ろしいのは、今回の様に順番通り行かないことが起きたらということである。
ショックはしばらく続くかもしれない。嫌な気持ちだ。下手をすると芥川龍之介を見習わなければならない事になる。(写真は私の墓)my_tomb

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

古い日記(400313)から


昭和15年(1940)3月13日
昨日新京への切符購入や旅行支度のために広島へ行った。
己斐駅を下りて汚れた手を洗おうと思ってポンプ(井戸)の方へ行っていると、後から富永君に呼び止められた。
奇遇を喜んで連れだって街へ出る事にした。

先にも麻里布駅で池田君に出会った。君は広島の錦華人絹へ勤めるとの事、仲々スマートな背広を着こなし、中学時代から相当の服装凝り性だった君の事だからさもありなんと感服仕った。

所で今日は変な所で又知人に会ったのだ。何だか不思議な気持に包まれた。富永君がカメラを買うというので千日前を中心にあたりのカメラ店を訪ね廻って、アルゼン又はセミミノルタといったものを捜し求めた。
結局何処にもないのでひょっとしたら福屋にあるかも知れぬというので行って見ると、思い掛けず福屋に只一つアルゼンが陳列されていた。早速富永君はそれを色々調べ回して遂に買った、百円以上の代物である。些か驚く。

昼食を森永で取ると、郵便局へ行き釜山の濱井君へのぞみの寝台券だけ買って欲しいと電報を打つ。福屋の1階にあるツーリスト・ビューローで新京行きの切符と急行券は買い、只寝台券のみがないので買えなかったからだ。
午後は広島東宝劇場で「最後の一兵まで」と「快速部隊」の二つを見た。前者は相当見応えがある作品だが、後者は問題にならない。前者は徒に作戦計画の場面多く、ごてごてして説明ばかりだという感じを与えた。
しかしミヒヤヘル計画の何者かをよく説明していたとは思っているが、最後の方になると流石に画面が緊張に達して、見る者をして感激せしめるなど、熱情がほとばしっていた。活動館を出ると街を行ったり来たりして買物をした。夕方7時半頃に帰った。

あとがき:就職への第1歩と云えなくもないこの日、どうやら旅行支度の買い物はついでにした感じになったようだ。富永君とはどこで別れたのだろう。気の優しい仲のよい親友で、同じ学校を志願し、京都の試験場まで二人で出かけて受験したのだが、その合否が二人の運命を分かった。戦後は深く付合えないまま十数年前忽然として、知らないうちにこの世を去ってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

古い日記(540314)から『舞妓さん」

51年前の今日、勤め先の従業員慰安旅行で奈良、伊勢,京都、大阪見物した時の一日、同僚3人で京都祇園御茶屋で生まれて始めて舞妓さんの接待を受けた時の日記から

『昭和29年3月14日(日)なあんだ二見が浦。退屈な電車。
昼過ぎ京都へ。直ぐ京都市内見物。清水のお寺の環境の素晴らしさ。数千の人の賑わう坂道に、写真の題材を探して歩くと結構疲れる。八百八寺の説明を聞きながら、成程お寺が多いなと思う。
十数年昔平安神宮を歩いた時、静まりかえっていた境内が星移り年変わった今、物凄い人の渦の中に写真屋がうろうろしている光景と変わってしまったのには驚いた。

大丸デパートに入ると芋の子を洗うとはこのこと。狭い通路を押しへしがれながら、汗を流して歩き廻っていたが、そのうち空気がとても稀薄でやりきれない気がするので、他のものを誘って屋上に上がることにする。金魚鉢の金魚が酸素を求めて水面に浮かび上がる姿を思い浮かべて心中可笑しく感じながら。
屋上又子供とその付き添いの洪水。子供の楽天地もあまりに喧しい。余りにも美が無さ過ぎる。

夜は一杯飲んだ惰性で祇園に行く、といっても始めからその目的では無かったのだが、崎本に余りにもせがまれて遂に行くことにするんだが、突然乗り込んで行ったところで相手にしてくれるかどうか甚だ怪しく思ったので、まず如何なる順序でいったらよいか問うために或るバーに入る。
幸いそこの主人が祇園鑑賞会の観光課長で、こちらを折角のことで気の毒と思ったのか心配してくれることになった。
「高静」というお茶屋で酒を1本づつ付けて貰って、舞妓の踊る春雨、祇園小唄その他を鑑賞する。成程厳格なる指導を受けただけあって、素人眼にも上手に見える。充分堪能して1時ごろ帰宿する。』
hutami
kyoto
heian
temizu
gyusya

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月15日 (水)

今日は母の命日である。あれからもう丁度20年になる。
月日の早さに驚く。
働き者だった母の顔色を眺めながら怖れ暮らした若き日の事が思い出される。
怠けると容赦なかった。何事も真剣勝負で当たるよう指導された。
能力の乏しい私が何とかここまで来れたのも、母の力なしでは不可能だった。

母の人生最大の危機はもちろん終戦の前日の米軍による空爆だろう。家に直撃を受けて住いを失い、家の周囲の5,6百坪に7個の百キロ爆弾が落ち、殆ど全地積が穴と不整地になり、人力での回復は大変な作業であった。
10ヶ月後に帰還して私が見たものは、家の残骸がある程度片付けられた以外、田畑の爆弾穴は殆ど手つかずで食用カエルやエビ、フナの類いのすみかだった。母は土蔵の脇の防空壕で死をまぬかれ、独力で復興に立ち向かった。泣き言は一切言わなかった。
父は大東亜戦争勃発前年に病死し、その4ヶ月後には私が渡満し、更にその10ヶ月後には出征した。残ったのは小学生の弟妹と2つ違いの妹の3人だけだった。
生還した私も職を失い、地元企業になんとか拾われたが、間もなく人に騙され損害補償をさせられ、或は別途事業に手を出し、失敗して破産寸前に陥った時も、毅然として対処してくれたのは母だった。

20年も経って、生活をやっと人並みに返し、現在に至ったが、この母に報いることは遂に全く出来なかった。
私自身死を目前にして、母の一生に及ばざること遥かに遠いことを思うと無念で仕方が無い。(写真は数年後まで残った我が家の前の爆弾穴、真ん中が母)bomb-hole

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

死出の山への同伴者

又又私の乾癬のことだが、最近インターネットで調べていたら、罹病の原因がだんだん絞られて来ているらしい。
その中で特に問題になるのが、車に乗るということのようだ。

私は20歳で徴兵されて、入営したのが自動車第3聯隊という自動車ばかりの部隊だった。
毎日朝から晩まで、車につきっきりでの生活となったし、戦場でも終始自動車で行動し、歩く事は殆どなかった。
5年経って生還してからも、しばらくはオートバイのような二輪車に乗ることが3、4年続いたが、間もなく四輪車での仕事になり、通勤を含めてこれまた歩く事はほとんど無くなってしまった。

罹病を確認されたのが15年前だが、それまで40年間も車に乗り続けたのだから、これが原因だと断定されても仕方がないと今ようやく納得できた。
今日は病院の診断日なので担当医にそのことを告げると、笑ってもうその歳だから、原因はともあれもう心配すること無く車にお乗りくださいと言って問題にされなかった。
痛みは依然取れないので、痛み止めを呑むことになった。

現在もうちを出る時は百メートル先へでも車で行く。
何しろ六十数年間も車で動いているのだから、乾癬と親戚になっても仕方の無い事だ。
あの世へも同伴してもらうことはもう間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月17日 (金)

戦後始めての社員旅行

終戦後しばらくは、駅の職員が職場に働きかけて、社員旅行を勧誘して歩いたものだ。
それに乗せられて、10人ばかりの我が職場でも、休みを利用して一泊旅行で秋芳洞見物に行くかということになった。
決定が突然だったのでいろいろ支障が起きた。
その間のトラブルが面白く日記に書かれている。我が輩がその世話役だったことはもちろんである。
(注:丁度55年前の話である)

『昭和26年3月17日(土)
午後から旅行だと思うと何やかと氣ばかり忙しい。杉本さんが何のためか用事が出来たから行かないというので、福本さんがそれに習いどうしても行かないと言い張り、いろいろと翻意を迫ったが、聞き入れぬので、遂に一応旅行中止を決定し、駅の方へ電話し中止を申し出る。それにあわてた杉本さんが行くから叉電話して欲しいと申し出て来る。先程のこともあるので半分懲らしめの意味で仲々承知しないで、いろいろ念を押した揚げ句とうとう電話する。氣の早い有馬さんはもう中止を伝えに各家庭を廻っているので(注:半ドンなので皆帰宅している)、後を追いかけたが捕まらないので、山本さんに頼んで伝えて貰う。家の方では皆何事かと驚いた様子。とんだ茶番劇まで演んじて、おまけに駅では発車間際まで杉本さんが来ないで、汽車賃の払戻をやったり、止めたり、仲々幕は下りない。

3月18日(日)
昨夜は湯田温泉の宿で、ビール3本を3人で(注:呑めるもの3人の意)、それに若干のウイスキーで全く氣の遠くなるほど呑み、女中どもを相手に賑やかに騒いで、夜1時過ぎまで起きていたので、今朝は仲々起きられない。酔いがほんとに覚めていない。女連中はぼつぼつ起き出してお湯にでも入ったらしい。
それでも9時前に起き出て入湯、10時からバスで秋芳洞へ。途中退屈な大峠を若干のスリルを感じながら登り下る。秋芳洞は中学生の時の修学旅行の時見たこととて、驚きは生まれない。壁に点々と、でも引っ付き合って、黒グロと見える(こうもり)のは薄気味悪い。
湯田に帰ってからは来たときの逆行程がいとも迅速にやってのけられる。山口の街で舌鼓を買って土産とする。9時半帰着。
昨日のいざこざはどこえやら女たちにも結構楽しい旅行であったらしい。』
domon
shonyuseki
waiting__bus

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月18日 (土)

我が人生の鹿島立ち1940.3.18

昭和15年(1940)3月18日
16日朝雪を冒し、私を見送りに出て呉れし近親の人々と駅頭の決別を最後に一路新京へと鹿島立てり。

途中幾度か心中に計画を立直し、遂に決意して山口に寄り故知を温めんと欲す。
切符を買い求むる暇なくんば、大急ぎにて切符なきまま山口行の汽車に乗り込めり。
山口に着けば既に予定の出発汽車まで間もなければ、街へ出て用事を果たす能わず。途中山口駅に来会わせる大崎君に逢いて、彼が同行の士なるを聞きつつ踵を返す。
駅に至りて公衆電話により大谷氏との別離の挨拶を交わす。

関釜連絡船の混めること、私の記憶に曽てなく、殆ど死闘を続けたというも過言に非ず。夜半を通じて満足に寝ぬるなく、船酔い又甚だし。頭脳呆然として判断力鈍りたるを覚ゆ。

この時同行の士大崎、同人友相川氏、及び同社(満洲鉱山)入社の沼の3人なるに、釜山駅に至りて満洲電業に就職の土倉、述本、西の新たなる同士を加え、寝台車に陣取って賑やかに進む。
話は弾みて、大いに退屈を紛らすを得たり。車窓外の朝鮮風景は赭土、灰土露出し殺風景極まりて、人心を荒廃せしむること甚だし。不愉快を感ずるに至れり。
平壌に至る頃既に日暮愈深く我々寝台券を有せざるもの数人は寝台外のトランクその他に腰掛けて休息せざるを得ず。

車外に出んとすれば、出入り口、通路混みて通過するを得ざらしむ。
安東の税関吏の冷淡さに万人口を揃えて非難悪口をなす。

汽車愈進みて愈睡し、遂に安東を過ぎる頃より坐せるままにて2、3時間を転睡するに至る。
奉天に近づきて目漸く覚め、空漸く白み始めたり。どことて同じか満洲も亦朝は美しかり。茫漠たる曠野に朝日は照り映えたり。衆人声を揃えて感嘆す。

新京にゴールイン。粗削りのスケールの大きなまだ完成せざる、建設途上の新興都市を其処に見れり。気味悪き都と私は命名す。
(二十歳になったばかりの若輩の感想文なり、気取った書き振りいささか乱暴なり)
(写真は当時の新京駅と新京神社)sinkyou_st
sinkyo_syurine

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月19日 (日)

死処

母の20年目の命日に墓参り出来なかったお詫びも兼ねて、彼岸入りの前日家内と一緒に墓参する。
時間があったので、親戚などのお墓もお参りする。
丁度彼岸の前日なので、お墓の掃除に訪れる人が多い。おかげで知人に会ったりする。
人口も増えたし、従って死人も増えるわけで、墓の増加に驚く。押し合いへし合いで、あの世行きも楽じゃないなと実感する。
そこへ行くと二十数年前準備して墓地を確保し,数年前墓も建立した私は行き場に迷うことは無い。

人生行路、有為転変が激しく、生きるなりわいにはことごとく失敗した私も、死処だけは計画が当たった感じである。
終わりよければすべてよしで、後は死の瞬間のさまを待つばかりだ。
皆に喜んでもらって死にたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月20日 (月)

岩国市民投票

top_img02 先日の岩国市民投票の結果、反対が僅かに有権者の過半数を超えた。
民主主義の世の中だから、1厘超えても多数は多数だから、決まったことは仕方が無い。
しかしこの結果が市の将来を変えることができるだろうか。

もちろん基地が無くなるわけではない。基地そのものを無くさない限り騒音も絶えなければ、米軍も自衛隊も居なくはならない。
たかが59の飛行機が常駐するぐらいで、世の中が変わるのだろうか。
確かに爆音はやかましい。私も好きではない。しかし自動車の走行音も嫌いである。電車の音も好きではない。
遠くで聞けばまあ我慢出来るけど近くを通ってくれると腹が立つ。
ただこれも国民のために一生懸命働いてくれてるための騒音だから文句は言えない。
大多数の国民は皆我慢しながら暮らしている。又一方では自分が加害者の場合もあるので強くは言えない。

又仮に米軍が居なくなってしまえば、まるきり状況が変わって、飛行機も施設もなくなるかというと、そうでもないだろう。自衛航空隊が常駐し、国権による大基地に転化するとも限らない。

現憲法は立憲当初は自衛もしない、完全な無防備を企図したのではないかと、憲法の条文を素直に受け取った私は未だに思っているのだが、国民はほとんど誰も無防備なんて考えなかったらしい。だからすぐ自衛のための警察予備隊が発足し、まもなく自衛隊に格上げされた。私が6年従軍した軍隊と一つも変わらない。

現在自衛ぐらいは仕方が無いとは、国民の総意といってよいかもしれない。
仮想敵国は皆兵力を増強して圧力を日本政府に加えつつあるという現状に目をやればますます仕方が無いとなる。

戦争はもうこりごりの私は、自衛もせずに直ぐ手を挙げたら良いと思ったりするのだが、女子供にとってみれば、簡単に侵入者に好きにされては叶わないことだろう。
自分を守るためにも、武器ぐらいもって立ち向かわねば仕方が無いわけだ。
ということは、自衛を許すという痛みは誰かいや皆が背負わなければならない。

岩国市民が反対をしたのは、せめて今回の59機の増強問題だけであって、基地としての責務は国家国民のために敢えて引き受けると表明して欲しいものである。基地まで無くしようとするやからの声が、問題の本質を変えようとしているように聞こえて仕方が無い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月21日 (火)

DVDアルバム

昨夜ヨッピて掛かってDVDアルバムを1枚仕上げた。内容はクラシックばかり58曲で、演奏時間は32時間56分かかる。
エンコードから始めて全部で9時間56分かかった。夜9時14分から始まって、朝の7時10分に終わった。
寝たり起きたりしながら見守る。老人だから出来る芸当で、若いものには無理だろうなと思う。
器械の省エネ機能が働いて、ときどき聞いて来るのでぐっすり眠るわけには行かないのだ。
これで10枚目だが、こんなに永いのは始めてで、ほとんどが演奏時間4、5時間だ。ひとつだけ20時間というのがあるが、この時は寝過ごして器械が勝手に途中終了してしまった。
通常は音質にこだわってPCMで録音するのだが、長時間録音はDolby Digital 192kbpsというフォーマットにしないとできない。(1枚50時間録音可能の由)
音質がどうかと始めは心配したが、私の耳ぐらいでは違いは全然わからない。どちらでも十分満足出来る。ならこちらが得だというわけだが、番組を揃えるのが大変だから、そしてディスクを作るのも時刻をどうするか考えないといけないし、万事うまく行くとは限らない。冒険するつもりで立ち向かうということだろう。
参考のために以下録音曲名の一部を記載する
プレイリスト1
1、カリンにコフ/交響曲第1番          37:39
2、サンサーンス/ピアノ協奏曲第4番       24:31
3、シベリウス/交響曲第1番                36:59
4、シベリウス/交響曲第2番                44:01
5、シューマン/交響曲第3番                33:23
6、スクリャビン/プロメテウス(火の詩)        19:53
7、チャイコフスキー/バイオリン協奏曲        36:35
8、マーラー/交響曲第10番              1:18:06   
プレイリスト2
1、シューベルト/交響曲第4番                29:11
2、シューマン/バイオリン・ソナタ第2番        30:59
3、ブラームス/バイオリン協奏曲                39:33
4、ベートーベン/バイオリン協奏曲            45:40
5、ベートーベン/ピアノ・ソナタ第31番        22:25
6、ベートーベン/ピアノ協奏曲第5番            39:32
7、ベートーベン/ロマンス第1番                07:21
8、ベートーベン/ロマンス第2番                09:50
9、ベートーベン/交響曲第1番                25:42
10、ベートーベン/交響曲第7番                42:33
プレイリスト3
1、横山幸雄ピアノ・リサイタル              1:38:11   
2、ショパン/ピアノ協奏曲第1番                36:27
3、ショパン/ピアノ協奏曲第2番                36:07
4、フランク/交響曲                        46:29
5、ベルリオーズ/テデウム                    58:08
6、マーラー/交響曲第1番『巨人」            52:01
7、マーラー/大地の歌                      1:04:43   
8、モーツァルト/バイオリン協奏曲第3番        23:36
(以下プレイリスト4〜6省略)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

野球世界一

sp2006032101 今日のブログは世界野球クラシック優勝に尽きる思いでいっぱい。勝負事はやはりタイムリーということが重要だということを改めて感じた。
人生にも満塁のチャンスは何度もある。しかしタイムリー打が出ることは滅多に無い。

一次二次リーグ戦を通じて,日本はタイムリーが乏しく,逆に相手にタイムリーを与えて苦戦した。
しかし決勝の対韓国、そしてこのキューバとの決勝戦では逆であった。

初回の敵が与えてくれたチャンスの今江の渋い適時打。先ず大きなダメージを与えた。
しかし敵もさるもの、6回名手川崎のエラーに動揺を見て取った敵側の初球必打の連安打は凄かった。不運な併殺打が無かったら,追いつき、逆転されたかもしれないとヒヤッとさせられた。
これだけの両チームだから、ホームランの2、3本は交通事故みたいなもので仕方が無い。問題はそのお膳立てをしないことだ。
留めのさし方は日本が一枚上手だった。チームリーダーイチローと福留のタイムリーに尽きた。
まだ1点や2点ではと思われたが、4点は大きかった。

王さんの采配の見事さが最後には光った。これは結果論になるかもしれないが、物凄い決断を必要とするものだ。敢えて勝負に結びつけた采配とそれの答えた選手の気迫が、この勝利をもぎ取ったと言わざるを得ない。(写真は中国新聞より

sp2006032102

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

タイムリー

昨日のブログを書きながら思い出したことがある。仕事をやってもうまく行ったためしがなく、寿命運ぐらいしか運の良くない私でも、ある時凄いタイムリー打を放ったことがある。

もうあれから40年にもなるだろうか、ある会社で勤務しているとき、その取引商社からイタリーで今凄く人気化している自動ドライクリーニングという商売がある。その機械を輸入するから販売しないかと云ってきた。

日本でもコインドライなどと云う言葉をちらほら聞き始めた時だったから、その親玉の様な機械だし、従来からの専業の業者でも省力化出来るし、買ってくれるのではと社長の決断で扱うことになり、早速担当を命ぜられた。当時数百万円もする高価な機械なので最初は大手のクリーニング業者ばかりが販売目標だったが、これは面白いぞと気付いて買ってくれた若者たちがいた。そして繁華街のど真ん中に店を張り、30分ドライと銘打って宣伝を始めた。これが恐ろしく当たった。

主客は、繁華街のことだから、勤め先に通い、毎日着替えに忙しく、といって当時のクリーニング業は集配が主体だったので、それを待ってはおれないという、そこらに立ち並ぶビルのOLさんたちだった。それに料金が半額という宣伝文句に釣られた一般主婦が混じって、何町もつづく行列が出来た。

機械を売り込んでは据え付け、試運転に立ち会いながら、津波の様に押し寄せる客のフィーバーぶりに驚いて、内心密かに私も期するところがあった。何より前金を取っての商いは魅力であった。永年どの商売でも、貸し倒れにはどれほど泣かされて来たかを思うと神の啓示を感じた。(私には生来金銭感覚に抜けた所があるらしく、懲りずに何度も騙され続けた)

十数台売った頃、社長に会社を辞めて自分(無一文の私が)でやりたいから、やらしてくれと頼み込んだ。同じ気持ちを抱いていた社長は、いずれ自分がやるための試験台となるならと、一緒に店探しをしたりして、敷金まで立替えてくれるなど積極的に応援してくれ、日ならずしてこの道に飛び込むことになった。50歳近くなっていたのでかなり大胆な決心だったが、家族のものも私のいつもの遣り口に慣れていたらしく、決めてしまったのなら、もう仕方がないと諦めてついて来た様だ。

何度かの失敗で、先祖の財産をかけらも残さない私の起死回生の一手であったと、今自分ながら戦慄の思いで思い起こしているところである。

僅かに3カ年半の事業だったが、実に良く働いた。というよりお客に働かされたという方が当たっているだろう。3日連続徹夜で機械を動かしたり、連日他の店のクリーニング師を夜間パートで働かせ、夏の2ヶ月間とうとう風呂屋に行く時間がなく、水を浴びて済ましたりして、未だに我が家の語り草になるほどである。

4年目にかかって一切の借金を解消し、これからと云う時に家内が過労でダウンした。
命あっての物種と事業を手放した。
しかしこのタイムリーな一手こそが悪運に泣いてきた私に、今日の胸を張って幸福と言える生活をもたらしてくれたと信じている。
japan_dry

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月24日 (金)

軍備増強

深夜放送で中国が軍備増強世界一を告げている。ストックホルム国際平和研究所の推計だから間違いないだろう。
01−05の5年間で一兆五千六百億円の兵器輸入額というのだから恐ろしい。そのうち90%がロシアというのだから、日米にとってはもっとも気になる所。中国が133億ドル,日本は15億ドル。このまま行けば、中ロ陣営と日米の軍備均衡が逆転する日は遠くないことを感ずる。
アメリカがイラクに勢力を費やしているうちに、世界情勢ははっきり二大陣営に色分けして来て,第3次大戦への歩みが進みつつあることを素人の私でも感じている。
平和のかけ声で一色の日本はもうとてもこの中に割り込むことは出来ないだろうから、中立宣言するなり、なまじっかな自衛能力なんか廃棄して、離脱することを本気で考える時期に来ているのではないか。
第2次大戦の引き金になった、米欧の石油包囲網は、今度は中ロの包囲網に取って変わるわけだ。その上食料まで輸送路を断たれる。とても反攻する力は無い。
又韓国の変わり身の早さを学ばねばならない。韓国はすでに身柄を北朝鮮に預けた格好だ。現在の姿勢はもう米国とは一歩も二歩も間隔が空き始めている。4対2では6ヶ国協定など出来るわけが無い。
ほん、虫けらに等しい私の80年の年功による推測は、とんでもない的外れだとなれば有り難いのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月25日 (土)

広響第257回定期公演

昨晩広響第257回定期公演を聞く。
秋山和慶指揮のマーラー交響曲第7番『夜の歌」である。

やはりCDやDVDで聞くのとは大分感じが違う。第1楽章はいつもながら、楽器の乱れが感じられてどうも音が整然としない。素人の私が聞くのだからこちらの耳が悪いのかもしれない。
が第2楽章に入ると、マーラーらしい美しいメロディが続き、すっかり本来の音感を取り戻すことが出来る。
第4楽章はとくによかった。家内も同感していた。
CDで聞くと3楽章は1楽章同様不協和音の連続で、もう少し騒がしく感じたが、生演奏ではかなり地味に嫌悪感を刺激しないで、するっと通り抜けた感じ。

第5楽章は凄いフォルティッシモで,息も切らさず演奏し終わる。まあ、ブラボーが出るのは致し方ない。
85分もかかった大曲だけに、やれやれという気分も一緒になって声になるのだろう。
しかし持って回った様な楽器の使い方はマーラー一流で、今回はマンドリンまで鳴っていた。もちろんマーラーが指定しているのだろうが、一寸鳴っただけで刺身のつまにもあたらない。
103名の大編成で舞台が狭すぎて、演奏者は困ったのではと要らぬ心配をするぐらいだが、こちらは滅多に聞けぬ生演奏だけに、すっかり堪能することが出来た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

思いがけぬ行楽

昨日は婿の好意で思いがけない行楽ができた。
朝突然娘から天気が良いので、柳井方面に遊びに行くが一緒に行かないかと電話がかかる。
格別予定も無いのでOKする。
1時間ぐらいしてやって来た車に乗せてもらい、高速道路に入る。

玖珂ICで下りるというので、家内が15年前に病気でなくなった直ぐ下の妹の墓が近くにあるので、お参りして行きたいと言い出す。亡くなってから未だ3度しかお参りしていない便利の悪い山中の墓である。
それではと最寄りのスーパーでお花やお添え物を買って、国道から別れて車一台やっとの村道に入る.約3キロも行った所で車を置き、私の案内で山登りにかかる。

案外分かれ道の多い、人一人がやっとの道幅で、2、3カ所滑りやすい急坂もある。山道は雨であちこち流されて窪みが出来、沢山の土嚢で補修されてはいるが、その付近の僅かな部落民の力だけではどうしょうもない所である。
4、5百メートルも登った山腹の墓地の一番上に妹の家族の墓があった。
久しぶりのお参りだったが、彼岸明けの今日だけに供花などまだ新しい。

帰りは行きよりも気を使う。こんな墓地ではこの先遺族は大変だなと、思いを噛み締めながら下りる。

平生のしょうじという変わった食堂でおいしい昼食をご馳走になり、柳井の余田臥竜梅に案内される。既に先年枯死し、根元から切られて残木が散らばっている状況である。枝から発生した小梅が十数本点在している。花は殆ど散り、段々畠に僅かに手を加えた見せ物仕立てで、来客はもう一組しか見られぬ寂しさだった。

光の伊藤記念館に廻る。一昨年5月新聞で新館が完成した記事を読み、一人で見学した経験があるのだが、家内は始めてである。よく整備されていた。博文の生家林家の古い藁葺き屋根の家は、私の幼年時代にはよく見かけた農村の家屋そのもので大変なつかしい。改めて中へ入り込んで眺める。

高杉晋作の赤間関挙兵に只一人部下90名を率いて参加し、維新回天に重要な役割を担ったことは、忘れ得ぬ功績である。松蔭の教えを守り、世界に目を開き国の進展に尽くしたことは、国民のよく知る所である。
ハルピンで安重根に撃たれて落命したが、彼の死が日本の軍国志向に拍車をかけ、第二次世界大戦への暴走を思う時、彼若し死せざりしかばと、歴史の重みををつくづく感ずる次第である。morihuji_tomb garyubai hayasi

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月27日 (月)

行き過ぎでは

世の中何もかも便利になった。が老人の私には何だかだんだん便利が悪くなって行く様な気がしてならない。
第一PSEなんて言われても、どこを見て判断するのか、一々聞いてみなくてはわからない。相手が取り合ってくれなかったら分かりっこなくなる。うちじゅう中古品だらけで、もちろん売る気もないが、全部ゴミにするだけだというのも可哀想だ。ただで貰ってもらうのはいいのだろうが、犯罪だと取り締られそうで恐ろしい。

ワンセグなんていわれると、何のことかと怖くなったりする。
家の中でじっとしている私には、携帯電話も基本料を払うだけで、持ち腐れになっており、それでも万一の時はと用心して何年も持ち続けている。その上ワンセグではたまらない。

テレビもデジタルになって、双方向だといわれても、これ又どうして好いやら分からない。
パソコンを扱ってる私でさえこれだから、家内を始め困る人は多いのではと思っている。
進歩するということは良いことだと思っていたが、そうでもないなと昨今は思い始めているところだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月28日 (火)

老化進む

老化現象がいよいよ進み、最近の忘れ具合は甚だしくて、我ながら始末が悪い。
昨日も家内の友人から、ファクスを頼まれ二つ返事で請け負った。もっとも私のファクスのやり方は、電話機付属のものは、随分古くて、射し込むとき斜めに吸い込まれたりして、正常に読み取れないらしく、家内中で利用する場合苦情が多くて、使い物にならないので、最近は使っていない。目下もっぱらパソコンのファクス機能を使っている。
これが性能はまことに良いのだが、手間がかかる。
自分で作文したりして送る分には問題はないのだが、既存の文書などを一旦コピーして送る場合は先ずスキャンする必要がある。
電話機ファクスと違って随分回りくどくなる。

ところで請け負ったものを見ると、奉書紙に手書きしたもので長さが長く、B4にも収まらないくらいだから、うちでは先ずコピーもスキャンもできない。そこでスーパーの職業コピー機でB5に縮小を面倒でもお願いした。
(先方のファクス受信指定がB5の大きさの由)
その改めてコピーしたものを、スキャンしてファイル化し、やっとファクスするのだが、それがどうしたわけかうまくゆかない。

ひょっと気がつくと、内蔵モデムへの電話配線が、古いMacに繋がれている。そちらの器械でも出来るのだが、生憎システムを古いOSにしてあるので、OSを変換しなければならない。
配線をやり替えるか、OSを変換するかとなると、配線の方が早い。
配線を替えると後はもう簡単、ファクスボタンを押すと、電話機が応答して、パソコン画面に「接続中」、「送信中」、「正常に終了しました」と表示が次々出て終わる。
やれやれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月29日 (水)

不惑の歳

今考えると私の人生の最大の難局に当面した時期だったと思う。受け継いだ資産を失い、事業も倒産の危機に直面していた。最後の手段は何か?(当時の日記より)

『昭和35年2月14日(手帳メモより)
死!それは或る場合には最高の恐れであり、或る場合には最高の憧れとなる。
死にたいと感ずるときは後者であり、死にたくないと思う時は前者である。
いずれにしろこの生けるものの究極の時は好むと好まざるとを問わずいつかはやってくる。
しかしこれは人生最後のものであり、故意にこれを招くには訂正が出来ないだけに結果的に見て正しかったと断ずるだけの確信がなければ実施すべきではあるまい。我を生かすために両親、家族、社会の投じた資本は恐らく想像に余るものがあろうし、来世を信ずるものといえども、今生を完全に捨て切る境地には仲々到達出来るものではないと思う。

私は幸か不幸か来世を信ずることが出来ない。唯今生をこそ最善に悔いなく生きたい、これだけが念願だ。
だから、自分の能力一杯に、いやもっと自分の限界がどれだけあるか試す意図すらもって、力以上に何でも手当り次第やって見たいし、やってきたつもりだ。
勿論ミスも素晴らしく多く、死を考える状況に立ち至ったことも何度か起きたし、現在も絶えず死神を背に頑張っているといって過言ではあるまい。が失敗は確かに如何なる教訓にも勝る。少なくとも随分賢く偉くなったつもりだ。
つい先日不惑の年を迎えたが、何と迷いの多き現在の心境よ!

案外このまま人間的完成を遂げることが出来ず失敗の連続の中に空しく野垂れ死にするかもしれない。弁慶が衣川のほとりに数十本の矢を受けて阿修羅のごとくなって倒れる様な事になるかも知れない。その様が眼前にほうふつとして浮かび上がって来るようだ。』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

還暦の歳

昨日私の不惑であるべき歳40歳の迷いについて書いたが、今日は還暦の歳に付いて書いてみよう。
1980年ということになるのだが、正月早々店の家主から、この家の下の土地の内の約半分が他人に持ち分登記されており、その人の高額の借金の抵当になっていて、立ち退きを迫られているとのことで、店を退けて貰わないといけないかもしれないので覚悟しておいてくれという。
寝耳に水とはこんなことを言うのだろうが、この店を借りて11年目でここを本店に中国、九州に店舗網を張り、順調に行ってる最中の話だけに、驚いた。
が、こんな話はよくあるし、私も過去にこの種の裁判に沢山関わった経験があるので、まあ慌てなさんな、私も迷惑にならないよう抵抗しますからと家主を宥めた。
内容証明郵便とかいろいろ督促は受けられたようだが、結局裁判までは行かず、いつの間にかそのままになってしまった。

この年は長女が勤め先の出産休暇が明けて職場に復帰し、これ又正月早々その赤ちゃんを家内が見てやることになり、始めての孫で慣れないことでもあり、こちらも仕事をしながらのことで、おんぶにだっこに流石に忙しかった。私は別に友人の会社の役員をしており、実務も持っていたので店は家内任せになっていたし大変だった。
交通事故に遭ったり、懇意な先の死去2件、甥の結婚、知人の結婚媒介、その上実母が脳梗塞の後遺症で療養中だったり、もう還暦などと喜んでは居れなかった。

日記帳の中身は次々とめまぐるしく用件が羅列し読むのも煩わしい程である。
年末には私が役員をしている会社の本社ビルの新築を私の中学時代の友人の会社に依頼し、工事にかかったりしたので、その折衝などもあり年の暮れるのも慌ただしかった。

私が一生のうち一番忙しかった歳かもしれない。赤いはんてんなど着る暇はなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月31日 (金)

吉野山

今年は桜の開花が早いのか遅いのかよく分からない。静岡あたりではとっくに咲いてもう満開とか。
ここ広島では、まだ開花の声を聞かない。
毎年4月8日には花を見ながら中学校の同期生会をやるのだが、間に合うのかいな、といささか気になっているところだ。

4月13日には皆いい年になった、うば桜どもと一緒に吉野山の見物に行くことになっている。これも心配だ。
もっともこちらは始めて行くのではない。
今回は付属品として行くので天候が悪くてもワシャ知らぬと言ってある。

1997年に子や孫たちを朝5時に叩き起こして、京都から出掛け、奥千本から始めて上、中、下千本と、歩き下りながら、3万5千本と言われる桜を、たっぷり眺めて堪能し、昼過ぎには山に向かう車の大渋滞を横目にすいすいと帰ったことがあった。

あの時の光景は忘れられない。二度とお目にかかれるかどうか。Mankai2_1
Yosino_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »