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2006年3月18日 (土)

我が人生の鹿島立ち1940.3.18

昭和15年(1940)3月18日
16日朝雪を冒し、私を見送りに出て呉れし近親の人々と駅頭の決別を最後に一路新京へと鹿島立てり。

途中幾度か心中に計画を立直し、遂に決意して山口に寄り故知を温めんと欲す。
切符を買い求むる暇なくんば、大急ぎにて切符なきまま山口行の汽車に乗り込めり。
山口に着けば既に予定の出発汽車まで間もなければ、街へ出て用事を果たす能わず。途中山口駅に来会わせる大崎君に逢いて、彼が同行の士なるを聞きつつ踵を返す。
駅に至りて公衆電話により大谷氏との別離の挨拶を交わす。

関釜連絡船の混めること、私の記憶に曽てなく、殆ど死闘を続けたというも過言に非ず。夜半を通じて満足に寝ぬるなく、船酔い又甚だし。頭脳呆然として判断力鈍りたるを覚ゆ。

この時同行の士大崎、同人友相川氏、及び同社(満洲鉱山)入社の沼の3人なるに、釜山駅に至りて満洲電業に就職の土倉、述本、西の新たなる同士を加え、寝台車に陣取って賑やかに進む。
話は弾みて、大いに退屈を紛らすを得たり。車窓外の朝鮮風景は赭土、灰土露出し殺風景極まりて、人心を荒廃せしむること甚だし。不愉快を感ずるに至れり。
平壌に至る頃既に日暮愈深く我々寝台券を有せざるもの数人は寝台外のトランクその他に腰掛けて休息せざるを得ず。

車外に出んとすれば、出入り口、通路混みて通過するを得ざらしむ。
安東の税関吏の冷淡さに万人口を揃えて非難悪口をなす。

汽車愈進みて愈睡し、遂に安東を過ぎる頃より坐せるままにて2、3時間を転睡するに至る。
奉天に近づきて目漸く覚め、空漸く白み始めたり。どことて同じか満洲も亦朝は美しかり。茫漠たる曠野に朝日は照り映えたり。衆人声を揃えて感嘆す。

新京にゴールイン。粗削りのスケールの大きなまだ完成せざる、建設途上の新興都市を其処に見れり。気味悪き都と私は命名す。
(二十歳になったばかりの若輩の感想文なり、気取った書き振りいささか乱暴なり)
(写真は当時の新京駅と新京神社)sinkyou_st
sinkyo_syurine

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