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2006年2月 1日 (水)

古い地名

私は老人だからどうしても旧いものにこだわる。
最近地方財政の執行が難しいからといって、どんどん合併が行われている。自動車時代で距離観念が薄くなった現在、広域でもさほど不便でもないからであろう。
もちろん利害得失は私ごときが云々した所で仕方が無い。
ただ残念なことは、小さくても由緒ある地名がどんどん無くなり、或は忘れられた存在になりつつある現実である。
歴史的に有名な場所はそれでもなんとかその地方の有志の努力で残されているようにも見える。
しかし何丁目々々々とか、広範囲に関係のない名前などで区切られたりして、昔あった小字などはなくなってしまっている。行政に便利な様に、或は郵便の配達に都合が良い様にかもしれない。
私の古里の「磯崎」も「水の浦」ももう影すら見えない。
おそらく万葉にさかのぼれるくらいの地域名称ではないかと思われるのに。
古い文献などに出て来る地名が、全く特定出来ないことになるのではないかと畏れるものである。

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2006年2月 2日 (木)

御調八幡宮

安芸の国の総鎮守速谷さんに先般参ったので、今度は備後の国の総鎮守御調八幡宮に参拝する。古いけどさすがに立派なお宮だ。和気の広虫の創設というから、奈良時代のものだ。正に気の遠くなるような昔である。桜の木が沢山あるから、春には人出で賑わうのだろうが、この寒い時期には来る人はほん疎らである。一番奥の宮殿まで入って見る。有名な木製の狛犬が両脇に鎮座している。近寄って仔細に検討しようとしたら、突然警報が流れて驚く。やはり今時のこと盗難等の予防らしい。そういえば高いポールの上にビデオカメラらしいものが、2基設備されていた。
宮島などと同じく、過去に水害でもあったらしく、前を流れている八幡川の上流に大きな堰堤が築かれていた。
川底には大きな岩がごろごろ転がっていて、自然公園として整備され景観は美しいが、雨風が恐ろしいところだなとの印象を受けた。mituki-hatiman
shazen
komainu

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2006年2月 3日 (金)

仏通寺

昨日は10年振りに、禅宗の名刹仏通寺を訪れた。
三原久井ICから468号線に入り、途中から小さい山道に入る。
ところが工事中で通行止めになっている。他に行く道がないことを過去の経験から知っていたので、車を止めて工事現場に歩いて向かい、業者の方に通行をお願いする。
監督の人が快く工事を中断し、ブルや車などを退けさせて道を開けてくれる。やはり一応は頼み込んでみるもんだと思った。
残り3キロの山道をすいすい行き、無事仏通寺に着く。
どうしたことか人影が見えない。僅かに入り替わりに青年が一人立ち去っただけ。
明日は節分なのにと怪訝な気分になったが、お寺さんは関係ないのかなと、ぶらぶら境内を見て回る。庭の真ん中にある、大きな笠松は相変わらず枝を四方に拡げて元気。広さは10坪にもなろうか。
昔と変わらない風景だが、やはり時期が悪かったと見え、修行僧一人見えず読経の声も聞こえない。ましてや座禅を組む人影などない。
寒さが続いたから冬休みかもしれない。1時間ぐらいで立ち去る。
やはり秋の紅葉の頃でないと名刹も生きない時代らしい。buttuji
kasamatu

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2006年2月 4日 (土)

雑念

1月の末頃から少し気温が上がって、今年は冬が早くやって来たので、ぼつぼつ早めに春めくのかなと思っていたらとんでもない、立春というのに今朝はまた零下1度と寒さは逆戻り。
毎年この地方は2月が一番寒いと永年の体験で思い込んでいるのだが、どうやらその通り運ぶこと間違いないらしい。
水道管破裂なんて事故が起きるのはいつも2月だ。桑原々々である。

ぶくぶくに着込んで、家の中だから体裁はもちろんどうでもよい。
運動しないから寒いのだと、家内にこぼされるのだが、これも馬耳東風、たまに郵便局まで手紙一通出しに歩いて行ったが、帰りの坂道で息が切れて、よれよれになる。
大体86まで生きるのがよくないのだと我が身を嘲る。

芥川竜之介の書き残した「旧友へ送る手記」を読んでみる。随分死に方を研究している。しかし彼は未だ若かった。ほっといたら死ねないから工夫したのだろうが、こちらはすぐそこまで死の定年が近づいている。研究するまでもないだろうとは思っているのだが。

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2006年2月 5日 (日)

大曲がいい

逃げる二月はどんどん過ぎて行く。ありがたい様な悲しい様な気持ちの毎日である。
最近は音楽でも長い曲が好きになって来た。マーラー、ブルックナー、ラフマニノフ。特にマーラーは良い。
先だっての広響の定期で6番を80分やってくれて、堪能したのがきっかけかもしれない。
いや、もう一寸前からだろう。
短い曲はなにか物足りない。歳のせいかも知れないなと思う。メロディがひとりでに浮かんでくる様になって新鮮みが乏しくなった。
時間がありあまるから、確か聞き始めたのだが、大曲の持つ全編むらなく珠玉をちりばめた様な音色の構成がたまらない。マーラーなどは心血を注いで、仕上げて行った、そしてその寿命を縮めた。
やはりその血の高鳴りが聞こえて来る様な気がする。
大曲にのめり込んでるおかげで2月がますます疾走してるようだ。

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2006年2月 6日 (月)

霙の一日

朝からみぞれがしんしんと降っていて寒い。
家内はご苦労にもお茶といって公民館へ出かける。
こちらは少し風邪気味なので朝うがいをする。というわけでもう起きてる気がしない。
午後1時家内は雨の中を帰って来る。
夕方近くになっても降り止まないので、とうとう家内は買い出しを止めると言い出す。
とは言うものの、明日のパンがないというから、久しぶりに20年ぐらい前から使っているパン焼き機を引っ張り出す。
ここのところ半年ぐらい作らなかったので、小麦粉が冷蔵庫に半分くらい残っているのだが、それは使うのを止めて、新しいのを封を切って使う。
老夫婦だけの食事だから、なんとか工夫が着く。後が無いのだから栄養なんか考える必要はない。正に中国語で”リュウタリュウタチュイ”である。

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2006年2月 8日 (水)

岩国の選択

昨日は岩国市長がとうとう岩国へ厚木基地の一部移転の賛否を問う市民投票を決意し、議会などの反対を押し切って発議した。市民がどう反応するか見物である。
岩国もこの3月には拡大して玖珂郡ほとんどを編入する。飛行場に無関係の地域が大部分となる。それでは意思統一が出来ないと見ての市長判断であろう。

私も30年以上過ごした家郷の地として、愛着が深い。
戦後米軍に強制使役されたこともあり、米軍に対する愛憎も深い。
戦地から帰還して直ぐ山上から見る無数の爆弾穴を見て唖然とし、敗戦を思い知らされたことを思い出す。65年経った今でも山の上に登って岩国平野を見ると、錦川下流三角地の大半は飛行場や米軍施設などでいっぱいに満たされている。
今更なにをかいわんやである。

仮に基地を撤去させて、後始末を考えると暗然とせざるを得ない。経済の仕組みも完全に変更しなければならないだろう。沖縄が苦闘を何十年も繰り返している前例がすぐそこにある。
いずれにしろ、戦前の日本軍部、戦後の米軍が戦略的用地として、着目した岩国の命脈は、国家に握られているも同然である。これを撥ね除けることは出来ない。

問題はもう一つ先にある。
もう戦争はあってはならないのである。一旦戦争ともなれば、岩国はおろか日本国も破壊し尽くされるであろう。
戦争さえ無ければ、消費オンリーの基地経済はその効果は太い。下手な浮き沈みの大きい、工業立地よりも良い。
戦争さえなければ、軍事基地がいくらあろうと問題ではない。騒音なんてものはどこにもある。人間が住む以上音も一酸化炭素も、犯罪も減りはしない。

基地として生きることがそれほど良くないことであろうかbakudan-ana
Iwakuni-kiti

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2006年2月 9日 (木)

私の病気

昨夜から乾癬が凄く痒い。夜食事の時焼酎を少し呑んだからだろうか。
随分昔、足首に赤い斑点が出来、気になるので友人の医者に診てもらったら、注射をしてくれてそれで直ぐ治った。
その次に1991年9月頃、頭のふけがひどくて異常な程だったので、近くの皮膚科で診てもらったら、これは乾癬のせいだといわれた。当分治療に通ったがはかばかしくないので、1年後市民病院で再検査してもらった。結果は同じ判定だった。そして原因が分かっていないのでなかなか治し難い病気だと言われた。

それ以来16年経っている。伝染病ではないが、いまだに原因不明の病気だという。
他人には伝染しないでも、自分の身体には伝染して、今では関節部分をメインに前身に廻っている。
最初に友人に治してもらった所など、間もなく再発した。
日本の人口の約0.1%罹病しているそうだから、あまり問題にしていないらしい。アメリカや北欧はもっと多いのだそうだが。だから日本の医者もアメリカなどの研究成果を頼りにしているらしい。

インターネットを利用して、私もいろいろ調べさせてもらった。アメリカの製薬会社にも問い合わせたことがある。結果はいずれも根治は難しいということだった。
命に別状ないから、呑気に対処するのが一番だと、権威ある博士からたしなめられたこともある。

それにしても、昨今の痒さは異常としか言いようが無い。一旦掻き出したら、身を削り取るほど掻かねばならない。
だからいくら痒くてもじっと我慢する以外に無い。
この歳になって妙な責め苦に遭わなければならないことになった。

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2006年2月10日 (金)

騒音?

今日は広響の定期演奏会の日である。
寒いのも理由の一つだが、演目ももうちょい興味を引かないので、行くのを取りやめる。
モーツァルトのクラリネット協奏曲とシューマンの交響曲第3番である。権利を誰かに譲っても良いのだがもう時間がない。
4、5キロの道を車で行くのだからそんなに寒さがこたえるわけではないのだが、外にいで立つのがつらいのだから仕方が無い。
代わりに、寝床に入りながら、マーラーの巨人をボリュームいっぱいに上げ、家鳴りをさせて聞く。
幸い窓の外の隣のうちは今晩はお留守だから、邪魔になる心配は無い。

時々家内が隣の奥さんに、いつも大きい音で音楽をかけてすみませんと謝ってくれてるそうだが、普段はそんなにやかましい音を立ててはいない筈だ。自分でもときどき外に出て、シーズンごとに音響の漏れ具合を確かめているのだから。
今晩はいずれにしろその心配は無い。
もともと音楽の好きな私は、もう一方の隣のピアノの音でも、聞き耳を立てて聞く程で、あった方が楽しい。
音楽の音が邪魔になる人の気持ちが私には理解出来ない。騒音とは違う筈だ。
もっとも騒音に近い音楽は昔からあることはあるが。
クラシックは騒音とは別だよなあ!

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2006年2月11日 (土)

2月の植物園

朝天気がよいので私から言い出して、10時過ぎ植物園に行くことにする。
駐車場まで来て車がいっぱいなのに驚く。人の数も多い。アレッ何故だと思う。紀元節の休日は知ってたが、それにしてもと門前の看板を覗いてみる。ラン展としか唱ってない。ともかくも人波をくぐり抜けて大温室に入る。
そしてやっと気づく。一般公募のラン展らしく、各テレビ局の表彰掲示が並んでいる。さてはテレビが宣伝したかと。
普段テレビをあまり見ないので、特にコマーシャルは見ないので、知らなかった。しかしテレビの威力は私などを相手にしないでもかくの如くである。
人ごみ中を見歩くうち気分が悪くなる。酸素不足かなと感ずる。写真を撮る人の三脚が邪魔して各所に渋滞が発生し、これはたまらぬと家内を促して外に出る。
広い公園だから外へ出れば、空気はよい。もちろん人気はうんと少ない。椿林を見に行く。2、3本花が落下し始めたものがあるが、殆どは蕾のままだ。変だなと思いながら通り過ぎる。喉がやたらと乾くので食堂に入りお茶を飲む。
昼食には少しはやいがうどんを注文して食べる。
終わった頃には食堂が込み始めたので、早々に出る。
今度は梅を見ようと梅林に向かう。
こちらはまだ蕾が膨らんでいない。この分では2週間ぐらい先だなと、ほん少し悔いが残る。
日本庭園も山の落葉樹林も人影はまるでない。結局ラン展だけに誘われた人出だった。IMG_0999
IMG_0994

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2006年2月12日 (日)

紀元節

昨日は建国記念日だったが、私には紀元節の方がよい。なんとなく伝説にふさわしい呼び名の様な気がする。
日付が当てにならないことはもう定説になっている。
正月が済んで、旧正月にも近いから、この日を肇国の記念日にして祝い休むのが、生理的にも丁度よいのではなかろうか。
国の始め即ちこの国の紀元は神武天皇の即位した、この年この日だというのが良い。
どこの国だって紀元がある。ただ国體が代わる度に変わる紀元もある。しかし我が国は幸いに国體は伝説の昔から変わっていない。
折角伝説の紀元があるのだから、昔の様に紀元2666年、キリスト暦なら2006年と言えば良い。いやそう思えば良いのではないか。
そして「雲に聳ゆる高千穂の・・・」と唱えば良い。
私はこの歌が好きである。国民歌謡じみて清潔で理想がある。

もっともこの所説は私一人のもので、誰にも強制するつもりはない。
反対の者は反対で良い。ただ紀元がないと外国人と話す時寂しいのではないか。

日本人の心の問題として、子々孫々に伝わればそれで良い。神武天皇は我々日本人の心の中に生きているのだから。

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2006年2月13日 (月)

頼一家書道展

家内が頼一家の書道展があるというので、広島城に見に行く。
城の入り口で警備員に止められる。広島城へ行くというと、護国神社の駐車場はあるが、広島城の駐車場は無いという。どこか有料駐車場に入れて歩いて行ってくれという。
それなら護国神社にお参りするからというと、印刷用紙を出して来て、これに認印を押してもらってくれと、入場時刻を書き込まれる。これがないと今度は出してもらえないらしい。
広島市は最近駐車が厳しくなってどこへ行っても、無料と言うのがなくなった。公共施設の駐車場は皆有料化している。どうやらその一環らしい。財政がとみに窮屈な広島市は観光に向けても良い顔は出来ないということだ。

ゆっくり階段を上がって、上の方のワンフロアーにある、山陽などの書をじっくり見て回る。
私にはもう読めもしないが、いいのか悪いのか分かりもしない。
昔の人は幼少から習い覚え、普段にこんな文字を使い、文通していたのだから、やはり凄かったのだなあと感心する。頼家の人々の数にも驚いたが、展示物の少なさにも驚く。ちらちらと見せびらかしたに過ぎないようだ。

帰りに折角だから護国神社にお参りする。受付嬢に印刷物を差し出すと大きな社印をベタっと押してくれる。これで万事OKだ。警備員の前で窓から用紙をひらひらさすと、パッと取ってくれる。さよならありがとう。Hirosimajo
Rai-sanyo

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2006年2月14日 (火)

国民の義務

天候についてあれこれあげつらうのは愚かなことは分かっていても、凡夫のあさましさ、日記には毎日の様に天候を書き記すことから始まる。或はののしり、或は喜び、他から見ると正に狂人の沙汰である。
今日は予報は曇後雨で、一応その通り推移した。気温は平年に比べれば若干暖かいとある。
が私には、もう自家発電が出来ない身体になりはてていて、平年温度でもじっとしてはおられない。

老人の対応策は寝て過ごすのが一番、と決め込んで朝から寝床に帰る。
午後はテレビの前の家内の電気ごたつにもぐりこみ又ひと寝入り。
それでも一寸の間、所得税の申告用紙に書き込み作業をし終わって、明後日税務署に届ける手はずを整える。
僅かではあっても、国民の義務は忘れることは出来ない。

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2006年2月15日 (水)

甘い報道

トリノの惨敗を大きな活字で新聞が伝える。今更なにをと憤るのはこちらだ。金メダル5個などと、甘ったるい報道に明け暮れたのがこの始末だ。自分の報道を反省しろと言いたい。
昔の戦争報道時の新聞と同じではないか。あの時も純真な若者は乗せられ、欺かれ、そして多くが死んで行った。
手の平を返す無節操な報道は止してもらいたい。

中国、韓国勢の頑張りが目立つ。同じアジア人としてせめてもの慰めだ。

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2006年2月16日 (木)

春の匂い

今朝あたり気温が暖かいせいか、雀が群れをなして庭に降り来たり、何かさかんに餌を捜し歩いている。
餌になる様なものは、格別撒いてはいないので、春先に顔を出す小虫でも狙っているのであろうか。
もうすぐ春だなと、一息つく思いだ。
しかし未だ油断は出来ない。今晩あたりから寒気がやって来るとの予報もある。
とにかく2月は寒いんだからと、又気分を引き締める。

この春休みには東京の二番目の孫がオーストラリアにホームステイに行く事が決まり、近くその説明会があると母親が忙しそう。上の孫も3、4年前やはりシドニー近辺にホームステイに行って、その後そのお宅と未だに交際が続いていて、昨年はそこの両親と娘が東京にやってこられたようだ。
家族ぐるみの国際交流とはすばらしい。良い世の中になったものだ。
私らは老い先は短いが歳を忘れて、成長する孫たちに喝采を送らざるを得ない。homestay1
homestay2
homestay3

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2006年2月17日 (金)

66年前の母の手紙

古い日記を整理していると、丁度20年前に亡くなった、母の手紙が出て来た。私が学校卒業直前の昭和15年3月7日付けの手紙である。今思えば私は母の期待を裏切り続けた不肖な息子だった。
後を追う日の近きを思いながらも、近寄りがたい切なさに、心がきりきり痛む。
生涯の悔いをこめて、ブログに載せておく。

一筆
お手紙有がとを 其後はげんきにべんきょとの事私しも安心致ました 次に私方一同無事にてはたらいて居りますから御安心下さい大ぶんさむさもおろかになりましたが でもかぜをひかぬよをにしてもをべんきょもすこしになったのですから大いにどりょくして さい後のしけんにうんとよいせいせきでそつきょをして下さい 母はそれをたのしみにまって居ります。又父上も(注:前年11月23日病死))くさばのかげでおまえのそつぎょをまって居られる事で有ましょを もう少しのそつぎょがまたれなかったかと思へば私だんねんでなりませんがそれもやくそくならしかたが有ません もう思まいとをもってもなんにかにつけてはすれる事ができません今年のしょ月つはなんともいへぬ正月をしました はかもしげの事(注:繁の所ー昭和3年病死)へいしょにしてたてました 二百二十三円か々りました びょきからほうじで一千円か々りました お金が大へん入りました じせつがらでたかいのでしかたが有ません 金は送りましたからうけとりて下さい 其金一百四十円送りました うけとりて下さい どうかいりよをならしかたがないがむだなとこへつかはぬよをにして下さいよ どうかからだにきよつけてうんとどりょくしてよいせいせきでそつぎょをして下さいよ 父と母とう一しょと一年でした
 さよなら  母より

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2006年2月18日 (土)

古い日記の一節

 昭和14年9月5日の日記から面白い記述があったのでコピーする。
『家へ帰るにはまだ30分ばかり汽車に乗る間があるのでちょっと福屋を見物しようという事になった。上階から丁度下りて来たエレベーターを捕えて、一番上まで行くことになった。
箱に乗ったのは私と弟と神村ともう一人どこか田舎から出て来たらしい年の頃五十ばかりのおやじさんと合計4人である。「屋上まで参ります。途中お下りの方がごさいましたら仰ってくださいませ」とエレベーターガールはいとも流暢に口上を述べながら、ボタンを押すとエレベーターはするすると上昇し始めた。エレベーターガールの口上が済むとエレベーターのかすかな摩れるような音と、売り場をざわつく人々の雑音のほか何も聞こえない。
重苦しい空気の中で皆沈黙に陥り何か思い耽っている様であった。突然田舎のおやじさんが口を開いて「食堂がある所まで行くんじゃが何ぼうか」とぶっきらぼうに彼女に尋ねた。彼女はちょっと問い方が可笑しいと思ったがためらって「あの六階でございます」と、おやじさんの顔をじっと見詰めながら答えた。
所がこの返答は全然問いの答えではなかったのである。所謂頓珍漢な答だったのである。しかし一瞬私は此のおやじさんが田舎から始めて出て来て、まだエレベーターがどんなものかよく分からない為、こんな問いを発したと見て、恥をかかすまいと思って、彼女がかく答えたのだと感じた。そしてひやりとした。
このおやじさんが尋ねた「なんぼうか」は「何階か」の意味ではなく「幾銭か」との意味と誰にでも気付かれるものだからである。
お客のサービスの為に設けられたこのエレベーターをおやじさんは街の電車か自動車の如く運賃が要るものだと考えていたのであった。
おやじさんは此の答の言外に含まれた意味に気付かず、只彼女が自分の言葉を聞き違えたのであろうとくらい軽く考えたのであろう、「なんぼうかい、なんぼう要るんかい」としつこく訊いた。
突然私は可笑しさが込み上げて来たので思わず顔を背けた。彼女はどぎまぎしながら答えた。「あの、お金は要りません、ただです」不意に隣にいた神村がわっはっはっは…と大声でさも嬉しそうに笑い出した。
私は機先を制せられた形で、可笑しいながらも笑いが止まった。その途端のおやじさんのもみくちゃにされた様な顔。彼は明らかに自分は田舎ものだと痛切に思い込まされたであろう心。彼はやり場のない思いを低い苦笑の声に紛らしたのであった。
私にも彼女にも神村にも小さい弟にも微笑が浮かんだ。しかし私は気の毒なことをしたと、このおやじさんを同情するような気に襲われた。けれどもどうすることも出来なかった。
六階に着いた。彼女がかちゃかちゃ云わせて戸を開けるや、おやじさんはあわてて出て行った。と不意に彼女はかん高い声を上げて笑い出した。
「まあ、あのおやじさんたら靴を履いて」そうだあのおやじさんは古ぼけたソフトに、着物を着て革靴を履いていたのである。
我々は箱の中で歓声を挙げた。革靴は現在統制されて、価格も高くなっており、代用品以外は非常に少なくなっている。
おやじさんはきっと昔に買ったものに違いないが、現在の様に誰も彼も下駄を履いて居るときに、明治初年の様に着物に靴とは、どういう気持ちでいたのだろう。このことが又笑いの種にもなったのである。
おやじさんは食堂へ行くと言った。食券や何かといろいろ煩雑な食堂で、又面食らって失策をしでかすのではないかと、彼のために心配な気がした。
彼は突然我々の前に現れたピエロであったのである。そして彼は名優であった。我々の心は思いの外楽しくなった。
八階へ着いた。エレベーターを出て屋上へ出た。振り返ると彼女は戸を閉めながらこっちを見ていたが、私と顔が会うとにっこりした。思わず親しい気持になった。そして彼の道化役者の偉大なる仕業を思わずにはいられなかった。』

蛇足:おやじさんを笑った私たち3人は学帽に洋服に下駄履き姿だったが、現代人は果たしてどちらを笑うだろうか?

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2006年2月19日 (日)

古い日記を読む

日記とは読み返すことに意義ありと誰かが言ったが、その通り昔の自分の日記でも、記憶してないものがほとんどで、読み返してもこんなことがあったのかと他人事の様なものも多い。
特に終戦直後の日記は変化が激しく、どうして生きて行くかの苦悩が毎日の様に語られて切ない。
私も人の子、人並みには苦労したんだなと今更の如く思い返される。
膨大な日記を一気に読み返すなんか出来ないので、目下戦前戦後のものにしぼっているが、まあ一番興味深い時期ではある。
その一つに、近所の先輩医師に誘われて句会に入り、俳句を志した時期がほん1年か2年あったことである。間もなく志しが変わって、上京したりしたので頓挫したが、いくらかの下手な作品が載せられている。
子守唄の様に思い出される。

上京直後、宿で手帳に書き記したのであろう。
旅行く子 門まで送る 秋の朝
遊学の 踏む音新し 秋の朝
行く先の あれこれ思う 旅の朝
いざさらば 汽車辷り出づ 朝の駅
島の間 空赤みたり 秋の朝
秋草に 虫すだくなる 街の廃墟
遊学の 靴音高く 秋の朝(10.27)
おばしまに 富士覗き居り 秋の朝
紅葉して 神域華美に 人多し
雨戸繰る 腕冷ややかに 霧流る
人流れ 人、ほこり、人 秋祭り
秋高く 心野山に 友も我も
敗戦の秋(10.28)
宮城前 歩く人皆 うつむきてあり
宮城前 ジープ並びたり 秋の暮れ
女学生 足揃いたり 秋の道(10.29)
風吹きて 紙屑多し 冬の街(11.30)
ゼネストの 噂に寒く 街の暮れ
スパークに 省電光る 雨の夜

その後二度とこのような詩情に浸っている様な事は起きなかった。
人生は思いがけない方向に急旋回することもあるということだ。
(昭和21年の日記から)

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2006年2月20日 (月)

小野篁のこと

昨年の3月に河内町の竹林寺を訪ねた。
先年高知の五台山竹林寺を訪問した時の記憶を思い出し、どんな関係があるのかなとの単純な発想からだった。
私の乏しい知識では、竹林寺と言えば五台山かせいぜい生駒の竹林寺しか思い浮かばなかったのだが、ふと地図を見ているうちに、近い所に竹林寺がある事に気づいた。
なかなか訪れる機会はなかったのだが、たまたま妹がその介護休みに広島空港を見たいというので、そのついでに案内しがてら私も参詣しようということになった。

3百メータくらいの山の頂上にあるお寺だから、上まで車で大丈夫かと一寸心配したが、お寺の近くに駐車場があった。
駐車場の直ぐ近くに小野篁誕生の地と言う記念碑が立っていた。アレッと驚く。側の説明板には篁誕生の由来などが書き付けられていた。
このお寺も篁山竹林寺というのは、この小野篁に由来しているとの事。

小野篁とは平安初期の学者政治家で著名な人である。昔中学校で歴史の時間に習った事があり、篁の字が読めないで不思議な名前だなと思った記憶があり、蛙と柳の絵で有名な小野道風の先祖だという事は知っていた。

そして先年隠岐に旅をしたとき、遣唐使副使として唐に渡る際、大使の専断に怒り、不覊不屈の彼は勅命に逆らって乗船せず、流罪にあって数年この地に暮らし、土地の女性との悲恋伝説のあることもバスガイド嬢の案内で聞いていた。百人一首にある「わたのはらやそしまかけてこきいでぬと人にはつげよあまのつり舟」はその流された時の彼の歌である。

唐の白楽天に比せられる、漢詩人の大家だったことも改めて知る事になった。
が果たして、この地が誕生の地であろうか、まつわる伝説の多い人物だけに、今川了俊でなくともちょっと眉につばを付けたくなる。
十代で早くも嵯峨上皇にその才を認められていたという話もあって、幼少にして上京しとある説明板の説明はちょっとおかしい。
池の右側に欝然と繁る孟宗竹の篁は正に小野篁を象徴するかに見える。
しかし古刹だから山門も、参道にかかる橋も皆古びて修理目前と見えた。
五台山と較べて、格差がありすぎる。先方は立派な五重塔があるのに、こちらは三重塔すらどこかへ持ち去られて、跡形は単なる表示にしかすぎない。
昔は往来の激しかったと思われる正面の坂の石段は、草蒸して人跡は見えない。
突然悲しさがこみ上げて来た。takamurahi-0584
tikurinji0589

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2006年2月21日 (火)

眠らせて貰えなかった一日

昭和23年2月29日(日)
 昨日夜8時の汽車で来ることになっていた進駐軍の健二さん(注:母の従兄弟)はとうとう9時の汽車まで待ったが来ない。帰宅したら9時半、風呂に入ったり、明日山口へ行く準備をしているともう11時、あわてて寝床に着いたが、たかだか1時間足らずの眠り得る時間も明日に対するあれやこれやの思いで寝付かれ無い。
無理にも少し眠っておかねばと、思いをかき消して眠ろうとするが益々眠れない。うとうとする間に12時の目覚まし時計のベル。そのままの夜警。(注:当時盗難が多かったので自警団を組織していた)
0時からの夜警。藤本、由良両君とも寝忘れたり、知らなかったりで一向に出て来ない。1時近くになって起こしに廻る。
夜警を早めに切り上げて3時半家に帰り、早速着物を着たり、茶ずけをかきこんだりして、駅路に急ぐ。
先生は既に来て居られる。挨拶をして一緒に行く旨を告げると大変喜ばれる。余り山口についてご存じないらしい。
汽車の中で眠られると思って来たのだが、付き添いの山田さんのお母さんとの話が弾み、てんで寝付かれ無い。徳山、三田尻など一向に気付かぬまに山口へ着く。
音楽会は大盛況。皆上手だ。妹の演奏ぶり始めて見たが一向に栄えない。しかしピアノのないものがよくあの位までになれたとの感慨は強い。
疲労のせいでひるまえになるとひどく眠い。
用事があるからと断って午後は失礼する。街を歩き廻る。日曜のせいかひどく賑やか。駅から師範学校まですっかり立派な街路に変わってしまって、昔の面影は更にない。
「たぬき」は昔のままの姿を橋のたもとの店の前にその姿を曝している。よく出入りしたあの頃のことが思い出される。ちょっと覗いて見るといっぱいの客。諦めて出る。本を買う。ゲーテのファウスト。楽器を買いたかったのだが高いから止める。
15時前駅に行く。先生たちに落ち合う。帰途は全く疲れて苦しい。しかし座り込んで話を始めると叉弾む。3時間半の旅もちょっとの間の様に何気なく終わる。20時駅に着く。別れる。先生を送る。疲れて風呂に入り寝る。楽しい一日だった。バタン!キュー!

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2006年2月22日 (水)

苅萱堂の疑問

家内の発起で、妹3人を誘って姨捨軍団で4月に吉野山の桜見物に行く事が決まった。
その話をしているときに、途中高野山近くを通ることから、急展開して苅萱道心とその子別れに話が進展し、何年か前疑問に思った苅萱堂の所在についての疑念が再発した。

問題はこうである。
今から55年前、職場の同僚と一緒に長野の善光寺に参詣した事がある。その後寺町をぶらついている時、苅萱堂という仏具屋さんがあって立ち寄ったことがあった。
その名前だけで浄瑠璃や歌舞伎で有名な苅萱道心子別れの苅萱とは、これかと一人合点して覚えていた。
ところが、8年前和歌山方面のツァーに参加し、宿泊した高野山のお寺の前に、苅萱堂があったのである。

途端に私の記憶が動転して狂い始めたのである。
可笑しいな善光寺の前の方だったのに、ここに同じものがあるとは?
前を行き来したり中へ入ったり、しばらく品定めしたが、どうも前に見たのと違わない。何せ何十年も前の事だからこれだったんだろうと、自分を納得させなくてはならなかった。
というのはやはり50年前に、同僚と忙しく高野山を本道から奥の院まで歩き回った前歴があったから、その時見たのを忘れていたのかと思ったからである。

もともとお芝居の話は女人禁制の高野山で母を残して石童丸が一人で父を捜すことから、この悲劇は始まったし、そこで終わったと思っていた。そうすると苅萱堂が善光寺にあるのはどうしてだと疑わなければならなかった。
いつか話した苅萱堂は高野山にあったんだ、善光寺と言ってたのは間違いだったと、私の記憶違いを家内らに詫びた次第だった。

今日の話題から、又もや苅萱堂のことを調べ始めた。
すぐ片がついた。今はインターネットという便利なものがある。ネットで善光寺を調べると、苅萱道心のことが、いろいろな方たちの手で、くわしく語られている。
お芝居でなくて実際の苅萱道心は子供の成長を見届けて、高野山を離れ晩年は善光寺で修行し、苅萱堂往生寺で83歳で亡くなられたとのことなのだ。
従って苅萱堂の本家本元はやはり善光寺にあったという私の記憶は間違いないとの結論だった。
元来、私は苅萱と石童丸の話は幼時親に聞いたか、雑誌で読んだかして、女人禁制の高野山が招いた親子別れの悲劇として承知していただけで、まさかお話が善光寺まで続いているとは考え及ばなかった。
お芝居なら高野山で終わるものを、事実は善光寺まで繋がっていたわけだ。

55年前に苅萱堂が善光寺にあったことを当時何故と疑はなかったことが、記憶の混乱を招いた素因だった。
もちろん苅萱堂は現在高野山にも善光寺にも存在する。私の本来の記憶の在処を問題にしているだけである。
家内にはとくとくとまだぼけていない事を主張したのは勿論である。


karukado
karukayado

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2006年2月23日 (木)

防府天満宮

天気が良いので、防府の天満宮にお参りする事にする。
久しぶりに境内の梅の花が見たくなったし、又東京の孫二人が来年の進学に備えて、塾に通ったり、勉学にいそしんでるそうだから、励ましのお守りをお請けして来ようと思ったからである。
家内はまだ早いのではといったが、明日知れぬ思いでいる此の身、来年までは待てないので、思い立ったが吉日というわけ。
幸い下りの高速道はいつも楽である。
駐車場が思いがけず込んでいたが、春への準備の工事車などが沢山いたようだ。天幕などが何張りも張られて物々しい。
お祓いまでは請けなかったが、特にというお願いはせずに、遠い道のりをやって来た老人の気持ちを汲んでいただきたいと祈りを捧げた。
信仰心などはないのだが、こんなときは神妙になる勝手な親爺である。
もともと進学などというのは、自分の力で果たすもので、他人の力など借りる事は出来ない。
ただ、雨嵐に見舞われないとか、道ばたの石ころにけつまづかないとか、ちょっとした不運でもない方がよいからと願うだけなのである。
帰りに八代の鶴の里を見に行くつもりだったが、昼飯を食べるとどっと疲れが出て来て、今日はもうよそうということになり、一挙に帰宅、すぐベッドに入る。
欲を出すと、ろくな事は無いとは多年の年功の致す所である。IMG_kobai1011
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2006年2月24日 (金)

戦後間もない頃のある一日

昭和23年2月21日(土)雨
早朝から土砂降りの雨。風邪気味で頭が痛い。休もうかとおもったが思い直して出かけて行く。半ドン、帰りも雨。靴の中の足が湿っぽくて痺れたように冷たい。水たまりをまたぎまたぎして急ぎ帰る。昼飯を食い終えた時妹来る。
午後は床を敷いて寝る。三生さんも来る。神村がひょっくりやってくる。とうとう起き上がって話す。接待はハワイ持ち。(注:ハワイの親戚が贈ってくれたお菓子類でのもてなしという意味)4時過ぎ夫々汽車やら自動車やらで帰ると言って去る。雨はいつの間にか止んでいる。

母は昨日から引き続いて肥取りに忙しい。庄屋谷の中村(特に仮名)の養子が下肥を皆取って廻るとかで話しが永い。肥までをと驚く。せちがらい世の中の限りが分からなくなる様な氣がする。
末の妹が音楽会にでるとか。それも県庁の所在地の学校であるやつにとか。驚いたものだ。時間は自分だけにあるものではないとつくづく思う。

夜8時頃思いがけなく柱野の珠ちゃんの声がする。母が導いて一緒に家の中に入って来るとやはり珠ちゃん。歯が悪いとかで明日藤生の病院へ診察に行くので一晩泊めてくれと言う。

入れ替わり立ち替わりお客のあるのに氣を取られて、うっかり今日の宿直を忘れるところ、8時過ぎになって思い出し、あわてて真黒の闇の中を出て行く。泥棒の多い昨今、幸い農業会(注:当時の勤め先)には何事も無かったけど、ヒャっとしたこと一通りではない。
(写真は当時まだ残っていた我が家の前の昭和20年8月14日米軍空爆跡)
bomb-hole

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2006年2月25日 (土)

大同大街今昔

昨年の5月旧満洲に旅行したとき、私の居た会社のビル(当時ニッケビルと云った)がそのまま残っているのに感激して、同僚だった京都の同期の友に写真を送ってやったのだが、その友が送ったその日に亡くなっていたりして、妙な因縁を感じたりしたものだが。
最近になって、その写真が昔のものと少し違う事に気づいた。

旅行して見た時には、私の錯覚だと気にも留めなかったのだが、写真は正直なもので、うそがバレてしまった。
デザインは全く同じなのだが、二階ほど建て増しされているのだ。実にうまく工作されているのでその時はすっかり騙されていた。
最近古い写真が出て来て、それを見ると私の記憶通り4階建てで、現在のように6階ではない。
隣の康徳会館も同じ様に、2階建て増しされている。恐らく同時に工事したのであろうが、様式などは従来のデザイン通りで、屋上部分はそのままかさ上げされたらしい。

ひょっとすると、この大同大街と云ったメインストリートはかなり広範囲にこうした造作がされたのではないかと思われる。だから印象として街全体が古い街並と変わらないことになったわけである。
なにせ、65年以上前のことだから、変わらない方が可笑しいのかも知れない。daido_st
nikkekotoku

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2006年2月26日 (日)

戦傷兵と乗り合わせたバス

(昭和14年10月8日の日記から)
 米屋町の四つ角へ出て、時計屋の時計を見るとまだ七時十分。
少し時間があるので本を何か買って退屈凌ぎに読んだら良いだろうと思い、本屋へ行く。
岩波文庫を探してヘルマン・ヘッセの「青春は美はし」を買う。
煙草を一個買って停留所へ行ったが、まだ五分とたっていない。湯田から松本が来る筈になっていたのだ。
間も無く止まった自動車から澄ました格好をした松本がバスから降りると此方を見てにやりとする。
「どうだ。行けるかい。これで」松本が天候の事を気にして空を仰ぎながら言う。この萩行きの発起者は実にこの松本だったのである。
「うん、どうかなあ…。大丈夫だろうぜ。まさか雨は降りはすまい」と答える。
「そりゃ、雨はふりゃせんじゃろうが」しばらくぼんやり空を仰ぎ見る。
「せやあない、行こういや、のう」と俺が促す。「うん、行こうか」万事一決、僕らは駅へ行って、バスにに乗ることにし、ぼつりぼつり歩き始めた。

省営(注:鉄道省営)バスは本通を巨体を揺さぶりながら、それでもかなりのスピードで走る。
何時の間に乗ったか一人の兵隊が何かぷすっとした様な顔をして、僕達の側へ来て立ち煙草を吸い始めた。
僕は車が揺れるので字はひどく読み難いにも拘らず「青春は美はし」の一頁を読み始めた。仲々読めない。
第一外の眺めが気になって少しも頭に入らない。

何時始めたのか松本がしきりとかの兵隊と話している。松本が聞き手で兵隊が話し手である。
暫くすると一人のおばさんが兵隊に問いかける。
何でもこの兵隊は一昨年八月一日事変の勃発と同時に出征したもので、二度も負傷し、今年の四月に帰国し、現在兵営にいるとのことで、この度郷里の萩へ二年ぶりに帰るとのことだった。

兵隊はしきりに、負傷して現在は廃人同様で駆けることは出来んし、人間には入れて貰えんとくどくど不平を洩らす。

僕は彼が傷病兵であることを聞いて席を譲るべきだと考えた。しかし彼の私に与えた先入観は良くはなかったし、又私は出来るなら努めてこんな面倒がましい事は避けて、消極的態度を取ろうと考えて居た。
だから何か心に咎めるものを感じながらも知らぬ顔をして、窓に肘を掛け、読めない岩波文庫を開いて一心不乱に読むふりをし、又読もうとした。
しかし兵隊の話は案外に面白かった。盛んに付近の乗客を笑わし又私も知らぬ間にその話に気を取られているのだった。

突然松本が立ち上がって、手を出して兵隊に向かって「どうぞ、どうぞ」と言い始めた。私は何だか狼狽えた。そして先を越されたという衝撃に似たものを感じた。そして他の乗客の目が恐くなった。
だから兵隊がすぐ側に座っても外の方を向いて黙って本を見ていた。相変わらず兵隊は笑わしている。しかし私には話しかけようとはしない。
(当時の風潮として戦傷者には率先して座席を譲るのが常識であった)

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2006年2月27日 (月)

66年前の今日、卒業の駅頭の別れ

(昭和15年2月27日の日記より)
『ああ、山口駅頭を去るとき、悲しみは込み上げ気持は混乱した。
友も下宿の小母さんも僕もぺこぺこ頭を下げながら何か分けの分からぬ事をぶつぶつ言い合った。汽車は混んでいた。
あちらでもこちらでも別れを惜しむ学生。突然汽笛一声汽車はごたんと動き始めた。
狼狽して飛び乗る僕、そして最後の挨拶を交わす眼と眼。ああ汽車は行く、徐々にそして底知れぬ無限の快速を秘めて、するするとプラットフォームを離れて、窓より僕は宙に浮き上がった様な、誰ともなく帽子を振り出した。
ア、小母さんがハンカチを振っている。汽車は漸くスピードを増した。
そして小母さんも僕も愈激しく帽子を振りハンカチを振る。
ああ愈遠くなった。もう顔も分からない。混然たる人の群れの中、小母さんの振る白いハンカチ。もう帽子はふらなくなった。送られる人も引っ込んだ。
しかし小母さんも僕も止めない。いや止められない。「さようならー」大声で叫ぶ。汽車は掻き消して軣々。
又叫ぶ。何だか目茶苦茶に喚きたい気持。』

追記:私はその後直ぐ(3月20日)満洲の会社へ就職、翌年兵役、大東亜戦争に従軍、昭和21年帰国、破壊された我が家の復興や就職のため上京したりいろいろ生活に苦しみ、32年やっと小母さんを訪ねたが、数年前ご主人を亡くされて息子さんのいる和歌山県白浜に移って居られて会えず、この駅頭の別れが最後となった。(昭和38年に一度帰郷するからその時会いたいと、手紙が来た事があるが、待てど暮らせど音沙汰なく、その後音信普通となった。その後当時小さかった長女の方にその嫁ぎ先から亡くなられたとの手紙を頂き、留守宅に行きー元の家の母屋ー仏前に焼香したことがある)

思えば、飛び込みでお願いした家で、たまたま息子さんたちが他郷へ遊学されて、部屋が空いていたため貸していただいた完全な素人下宿だった。学生時代2年間家族同様に掃除洗濯入浴など身辺の世話をしてくれた、忘れる事の出来ない優しい小父さんと小母さんだった。
(写真の右側の一番手前の屋根が私の居た下宿、尚都市計画で何十年か前除去されて現在は跡形も無い)
my_lodging

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2006年2月28日 (火)

萩女性たちとの楽しい交流

先日「戦傷兵と乗り合わせたバス」のことを書いたが、そのすぐ後で、私としては実に楽しくて印象深い出来事が待っていた。
しかし、この日記にはそのことには全然触れていないのが、不思議な気がしてならない。
ひょっとすると、長くなるから書くのを断念して寝てしまったのかも知れないと思う。
というのは、一緒に出かけた松本君とは戦後停年時まで、同じ市に住み、停年後彼は郷里の松江に帰っても、同級生の会合にはいつも顔を合わし、少し酔いでも廻るといつも話に出るのが、この萩旅行のことだった。

萩に着くと、お決まりのコースはもちろん吉田松蔭の松下村塾から始まる。
そこの見学を済ませて、次にどこへ行くかとというとき、たまたまバス停で楽しくもつれ合う様にして、しゃべっている5、6人の若い女性の一団と一緒になった。
人見知りしない松本君は例の調子で、その女性らに声を掛け、行く先を尋ねたり、そこはどんな所か、良い所かなど質問を浴びせ、それではと彼女らに案内を頼むということになってしまった。
満員のバスに乗ってから、つり革にぶら下がりながら、いろいろ聞くと、彼女らは地元の女学校の同期の卒業生で、私たちより年配かと見えたが、そうでもなく同い年くらいの、同窓会を兼ねたピクニックということらしかった。

つれて行かれた所は、海端の笠山という小さな死火山で、標高は百メートルくらいで、歩いていくらもしないうちに頂上付近に着いた。見渡すと噴火で出来た台状ををした小島が点在し、海岸線は遠く日本海の青海原につながり、素晴らしい眺望である。
日曜日とあって沢山の人が、あちらこちらの樹木の影、景色の良く見える斜面などに腰を下ろして、輪を作ってわいわいとやっていた。この時期になると、この地の年中行事に似た趣に見えた。
ここまで来たのだからもう別れて、噴火口や池などを見るかと、二人で話していると、あなた方は弁当は持っていないのでしょうという。ええと返事をすると、沢山弁当を持参しているから一緒に食べましょうよ勧められてしまった。

当時私たち学生仲間でよく知られたこの地方の俗諺に「山口男に萩女」というのがあった。
この女性たちは正にその萩女たちだった。揃いも揃っての色白の美女たち。ほんとに願っても無いことと大喜びで仲間に入れてもらった。
さあ食え、さあ食えと彼女らの手作りの弁当を次から次へと勧められ、挙げ句の果てには彼女らのおしゃべりに載せられて、歌を歌ったり、郷里の事をしゃべらされたりして、その雰囲気にすっかりとけ込んで楽しい一時を過ごしてしまった。
ふと気がついて、このままでは彼女たちの折角の懇親の場を壊すのではと、これから町に行って史蹟を見学して帰ることになってるからと理屈をつけ、後ろ髪を引かれながら、やっとの思いでこの場から離脱する事が出来た。

若き日の此の楽しい思い出は、一人一人の顔つきとか、正確に何人だったかとは朦朧として思い出さないが、生涯忘れる事は出来なかった。が「戦傷兵と乗り合わせたバス」の中の事は日記に書いているのだから事実だろうが、まるで記憶に無い。

正義感が強く、いつも積極的で折り目正しく、仲間から敬愛され続けた松本君は昨年あの世に行ってしまった。嗚呼!

(写真は昭和42年の笠山からの眺望)

kasayama

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