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2006年1月 3日 (火)

歴史

冥途への旅の一里塚と故人が言った元日を、横目で通り過ぎた。
年末から体調がもう一つで、紅白も聞かず、見ずに元旦も、二日も寝て通過した。
屍に近い状態で、今日を迎えたのだが、まだやり残した感じが残るこの人生。
我ながら執念深いことに驚きながら、日本外史や醒めた炎を読み耽った。

木戸孝允は病床に伏しても、国を憂いて西郷を説かんと志して立ち上がろうとし、実現は不可能だったが、その最後は見事という他は無い。
幾多の志士の屍を乗り越えて、結局3傑の協力で維新は収束されたわけだが、歴史の展開はいつでも、その時代に抜きん出た英雄が形作って来たことはこれらの史書が物語っている。

小泉さんも変革の志を達して、その領域に踏み込めるかどうか、正念場に差掛かったと云えよう。

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2006年1月 6日 (金)

たわごと

老人性の神経痛だと自己診断してるのだが、朝目覚めるとから、手指が痛くて床を離れるのが一苦労。
今冬の寒さはほんとに異常で、日本列島の積雪の凄さをテレビで見せつけられる度、こちらまで身震いする毎日である。この手指の痛さもそのせいかもしれないなと納得する。
起きてすぐ痛み止めを呑んだのが効いたか、幾分楽になったので、こうしてパソコンをいじっている。
ブログへの投稿もしばらくお預けだなと覚悟している。
音楽を聴いたり、新聞雑誌或は好きな書物を読むことは出来るので、一応日々退屈する事はない。
働かないで済む老人の特権みたいなものだが、これを許してくれる社会への感謝と愧負の思いは痛列と云わざるを得ない。

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2006年1月 8日 (日)

鈴木三重吉のこと

六十何年も前、鈴木三重吉の「千鳥」をよんでこんな美しい小説があるのかと驚いた事がある。
未だに印象が強く残っていて、いつぞやは能美島の三重吉が療養のため下宿していた場所に行ってみたりした。

一般の日本人には忘られた存在となってしまっているが、昭和の初期児童文学界に果たした彼の功績の偉大さは不滅と言わざるを得ない。
文学部の学生だった三重吉が結核療養のため郷里広島に帰り、空気の良い能美島の知人宅に下宿していたとき、書いた小説が前記の「千鳥」だった。

今日青空文庫に入り込んで、夏目漱石のところを見ていたら、鈴木三重吉に与えた手紙というのがあり、先生である漱石がこの「千鳥」を読んで与えた批評が記載されている。
三重吉全集などのあとがきの部分に、漱石が「千鳥」を激賞したということが書いてあったことを読んだ記憶があったのだが、その手紙の全文に始めてお目にかかることができた。

その上に三重吉の住所が広島市猿楽町だったことがわかり、その何十年か後の私が30歳代にこの町で仕事をしていたことがあったことに気づき、因縁の深さに驚いてこのブログを書く気になったわけである。monument_chidori

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2006年1月 9日 (月)

義母の1周忌

家内の母の1周忌の法要に出かける。
読経など終わって、ちょっとした法話を聞く。
不信心な私は、改めてなるほどなと感銘する。
なにげなく口にする「南無阿弥陀仏」の字句の意味を教えられる。
"なむ"はインドの言葉で挨拶用語、”あみだ”は任せる、”ぶつ”は仏陀ということで、”なんでも仏様にお任せします”ということだとのこと。
又お経の漢字はインドの言葉を仏教が中国に渡来した時、音の似ている漢字を当てただけとのこと。
なんとなくそう思ってはいたが、はっきり教えてもらってちょっと賢くなった感じ。
まもなく後を追うであろう私のそれでも意義深い1日。

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2006年1月10日 (火)

お宮参り

家内が年末から風邪ひきでどこにも出られなかったが、やっと元気を取り戻して、昨日は婿さんの車で郷里に母の1周忌法要に出かけて、もう大丈夫と思ったか、今日はお天気もよく暖かいので、お宮参りに行こうと私を誘う。
近くの速谷神社にお参りすることにして、車で出かける。
3ヶ日を過ぎているので、参拝者はグンと少ない。
大きな駐車場もガラガラで全く問題ない。
ゆっくり参拝して、社殿をあちこち見て回る。
なんども御参りしてはいるが、いつも参拝者が多くてもまれるのがいやで、早々に引き上げるのが例だが、今日はほんとに楽に御参りすることが出来た。
安芸の国総鎮守というだけあって、なかなか立派なお社に感嘆する。
老人はこの様に時期を少しずらして、何事も行動するのが、いろいろ有り難みも増していいんだなと、今更ながら反省する次第である。

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2006年1月11日 (水)

宮島参拝

天気がよいし暖かいので、妻と二人で宮島に参拝する。

昨年の災害跡は殆ど修復されて、朱色も鮮やかにすっかり奇麗なお宮に成り代わっていた。
昨年は266万人の参拝があったとかで、それでも例年より随分減少したのだそうだ。もちろん台風被害のせいであることは間違いない。

正月も11日ともなれば参拝客の少ないのは無理からぬことで、老人にはそれが付け目である。
しかし暖かいと思って来たのだが、やはり島とあって日の当たらない所は結構寒い。ただ風が殆どなかったので救われたが、手や顔が冷たくて、カメラを扱う指が痛くて困った。
食堂に入って昼飯を食べてやっと暖まることができた。

午後弥山にも登るつもりだったが、寒いし老人二人の体調がまだ完璧でないので、取りやめて大聖院に参詣して、終わりとする。帰宅してみて疲れ具合といい、丁度いい正月のお勤めができた感じである。IMG_0903
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2006年1月12日 (木)

幼な馴染み

私が小学校一年のとき、母屋と土間2間挟んだ物置部屋にMという家族が住んでいた。
その一番おとんぼに小学校五年になる、よっちゃんがいた。上に姉さんと兄さんが一人づついたが、当時どんな状況だったか覚えていない。

よっちゃんたちは、お父さんはすでに亡くなっていて、繊維工場で働いているお母さんの庇護のもとに学校に通っていた。もっとも姉さんは既に卒業して働いていたかもしれない。
私のうちも父が外国にいて、母と子供3人ぐらしで、私が長男だが、他は赤ちゃんみたいなものだった。
よっちゃんはお母さんが夜帰って来るまでは、ほとんど一人だから、私が一番の相手で随分かわいがってもらった。
よっちゃんは本が好きでいつも本を読んでいた。といっても当時流行っていた豆講談本で、駅の売店で売っていた5銭か10銭の岩見重太郎とか猿飛佐助といったものだ。

かつがつ、いろはを覚えたての私に読んでみろと、読ましてくれた。声を立てて読んでいるうちにだんだん面白くなり、わからないことはその意味を教えてもらうのが又楽しみになってきた。
全部読み終わると、よっちゃんの尻について駅に行き、新しい豆本を買って来て同じことを繰り返したものだ。
3年ぐらいして、Mさん一家は別の大きな家に引っ越したので、たまに行き来するくらいで、殆ど交渉は途絶えた。
しかし私はこの豆本の面白さが忘れられず、生涯を通して少し進歩はしたかもしれないが、英雄豪傑が好きで、そうした関係の本や雑誌を読みふけることが多かった。
上級の学校に進んでも得意科目は歴史地理の類いだった。

軍隊に入隊するため、満洲から帰国した年の大晦日、よっちゃんが私を広島に誘い出した。彼は当時広島市役所の土建課の製図室にいた。すでに休日だったが、私にその職場を見せるために誇らしげに案内してくれた。
夕食を奢ってくれた後、宮島の弥山に登りご来光を拝もうということになった。
まだ時間があるというので、遊郭につれて行かれた。
当時未だ童貞だった私がもじもじして寝ようとしないので、相方の女郎さんがトランプでもしましょうかというので、うなづいて始めた。

時間が来て宮島に参拝し山登りをしたのだが、頂上に達して石段で足を踏み外して足首を捻挫してしまった。
やはり遊里に足を運んだりして、神聖な場所を踏んだので天罰があたったのだと後々まで悔いが残った次第だった。

よっちゃんは最後の別れと自覚していたかどうか、戦場に出かけた私がこうして生き長らえているのに、内地にいた彼が終戦直前の原子爆弾でいまだに生死不明のまま、二度と再会することは出来ないでいる。歴史はやはり皮肉である。

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2006年1月15日 (日)

天然の美

先般テレビを見ていたら、岩国錦帯橋をテーマにした番組で、郷土出身の田中穂積が百年前に作曲した「天然の美」のことがアナウンサーの話の中でつぶやかれた。
それでふと思い出したことがあった。
もう3、4年前になるかもしれない。確かNHKの深夜放送で聞いたと思うが、ウズベキスタンや南ロシアに住む朝鮮民族の人たちが、その故郷を偲ぶ歌として、天然の美のメロディを歌っていた。半ば自分の国の歌としてである。サハリンから移住した人は、日本語の歌詩だったが、極東ロシアから強制移住させられた朝鮮人たちは、勿論朝鮮語だった。
良い歌は百年たっても、いろいろな人や地域に歌い継がれて行くものだなあと、今更ながら感心させられた。
国際化時代の現在では、ほとんど時間の経過なしに電波のごとく広がって行くけれど、百年、二百年たっても伝えられ、残されるものがあるということはほんとに素晴らしい。
岩国吉香公園の一角に田中穂積の胸像と時折天然の美のメロディがながされている。老人にはなんとも懐かしい瞬間である。tanaka_memory

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2006年1月17日 (火)

地震


阪神大震災からもう11年になる。6千人以上の犠牲を出したことは痛ましく忘れられない。
丁度この日の明け方近く、揺れ動く物音に驚いて目覚めた。深夜放送が直後放送を中断して、大阪から地震のニュースを伝えた。始めは状況を手探りで伝えるだけで、被害の模様は全然分からなかったが、夜が開けると共に全貌が次第に明らかになり、テレビに釘付けにされた。その被害はただ事ではなかった。この日は終日この放送で明け暮れた。

この余韻が醒め切らない5年前、今度は昼間の午後突如この地方に凄い揺れが発生した。
今度は棚のものは落ちるし、家の中が大揺れしてどうしようもないので、二階の部屋からベランダに飛び出した。
手すりに掴まって、団地の四周を見渡すとどの家も木々も電柱も揺れ動いている。どこか倒れたらうちも危ない。どこへ飛び降りるか捜しているうちにだんだん揺れが治まった。芸予大地震と呼ばれた。

家はほとんど損傷は無かったが、回りのブロック塀にはひび割れなど出来、後年支柱を立てたり修復をしたりした。
約20万円強の出費ですんだが。
タンス、食器棚、本棚の類いは予め固定はしているのだが、それでも改めて補修を施したりしなければならなかった。
昼間のことでこの地方の人的災害は少なかったが、物的損害は凄かった。

最近では新潟地震が大災害で、この地方は夏は風水害、冬は大雪と、踏んだリ蹴ったりの災害の連鎖に苦しんでいる。
地震大国日本だけに、珍しくも何ともないが、運悪く災害に遭遇した人は哀れである。
まだまだ予知が出来ないだけに、普段からの心がけだけは忘れぬ様にしよう。

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2006年1月18日 (水)

植物園散歩

例によって家内に運動と称して引っ張り出される。
今日は何も目新しいものが無い植物園である。
僅かに前庭の葉牡丹の群生は素晴らしかった。園内を一周しても冬枯れの葉を落とした裸の木々ばかり。
人も閑散として、山道を行けば寂しい限り。梅林はつぼみも見えない。春はまだまだの感じ。
ちょうど2時間散歩して帰る。
habotan
syokubutuen

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2006年1月19日 (木)

ヴィヴァルディの四季

昼寝をしていると、ラジオが突然鳴り出す。
午后2時にタイマーが掛かっていた。毎日決まって鳴り出すのだが、今日は聞き覚えの曲をやり始めた。ヴィヴァルディの「四季」である。
私の小さい時には無かったと思うが、今は小学生でもよく吹いているリコーダーが独奏部をやっている。
寝てる耳には少し刺激的ではあるが、目覚めにはちょうど良い。
やはり「四季」は良い曲である。なんでやっても親しみやすい。
古今の名曲と云われて少しもおかしくはない。
リコーダーはミカラ・ペトリだった。うまいなあ!
すっかり堪能して起き上がる。
毎日が日曜日の老人のこれまた感謝と愧負の一こまである。

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2006年1月21日 (土)

体験は何も語らない

4、5年前金沢在住の元戦友の紹介で、私が書いた軍隊体験記が香川県のやはり戦友に渡り、その又戦友の神奈川県在住のAさんに所望されて、その体験記をコピーして送ることになり、今日宅急便で送り出した。
もう十年前に、通信フォーラムに書き続けて、一応稿が落ち着いた所で、ホームページに載せているのだが、特殊な部隊の平凡な生活日記だから、反応は少なく、忘れられた数十年前の昔話が今の世に受けるわけがない。

それでも「語り継ぐ戦争の記憶、昭和の声」というホームページに転載され、他のもろもろの資料と一緒に、一応永久保存の体勢をとっている。歴史的価値として捉えているようだ。

今朝急に今は数少なくなった同じ部隊で苦労した戦友から、たまにその頃のことを話題にされると懐かしく息を吹き返した心持ちだ。
過去が無ければ現在はない。その現在に繋がる未来は全く予測出来ない。過去から現在への姿が投影されるものかどうか、いやそれはないだろう。誰にも理解できないことになるのではと、死後の世界を半ば期待したい。

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2006年1月23日 (月)

山口の瑠璃光寺

山口の瑠璃光寺が修復されて、その記念に宝物を見せてくれるというのだが、寒さが厳しいし、暖かいと思えば雪が降るし、なかなか決行出来ない。
昭和十年代に住んでたときから、散歩といえばいつもこの香山園あたりが、お決まりのコースだったから、山口と云えば、ここが一番懐かしい風景だ。十数年前に亡くなったが、凄く親しかった友人が近くに下宿していたので、尚更良く訪れたものだ。
又先年亡くなったが、学校も軍隊も一緒だった別の友人の宅も、すぐ近くの県庁の前の方にあって、亡くなる前のある時彼のホームバーでご馳走になり、深更まで歓談したこともあった。
私に取って忘れ得ぬ故地だ。
なんとか希望を果たしたいのだが、あいにくの今年の天候、自然の力にはどうしようもないと、半ばあきらめの境地にいるところだ。
(写真は15年前の瑠璃光寺の五重塔)rurikoji1991

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2006年1月24日 (火)

山都訪問

天気がよいので、予て計画していた通り、山口行きを決行する。
先ず、妻の希望で雪舟の庭のある常栄寺を訪ねる。雪の跡が少し残り庭には生気はない。しかしいつ見ても石の配置は絶妙である。もちろん凡夫に理解出来るわけではないが、バランス感覚がよく納得出来る。

瑠璃光寺に回る。何度か報道されているだけに、駐車場は入り切らないで待たされる。
観光客の多さは、かってない程で、何十年ぶりかで開扉されて、仏像が拝まれたのだそうだ。
久しぶりに寺にも参詣して、前庭の美観が格段と整備されているのを感じた。
背後の山の親友の眠りおる墓地の一角に目礼を送る。

昼食後、市役所界隈をうろつき回り、時間の経つのを忘れる。歩行が困難になって驚いて中止し、帰路につく。060124rurikoji
rurikoji
sesyutei
butuzo

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2006年1月25日 (水)

たぬきの看板

昨日山口を訪れた時、昔なんども行ったことのあるおしるこやの「たぬき」を捜した。
名物の狸の看板が見たかったからである。
通りすがりのいろんな人に聞いてみた。まるきり知らない人もいたが、詳しく道順を教えてくれた人もいた。
教えてもらった通り尋ね歩いた。どうしても昔の記憶が却って邪魔して、方角違いに歩いてしまった。
30分も捜しただろうか、半ばあきらめかけていたとき、中に特に親切な小母さんがいて、自転車で追っかけて来て、そこをそう曲がってそこの角ですという。
そこへ行ったがない。行きつ戻りつして、家の回りや中の方を覗き込む様にしてみたがやはり見つからない。
すこし角を回って過ぎた所で掃除をしているねえさんがいたので、また尋ねた。
角まで一緒に戻ってここですという。店が今日は定休日で「たぬき」はシャッターの中らしい。
昔は店は休みでも「たぬき」は厳然として店頭で徳利をぶら下げて立っていたのに。
そういえば、今の時代は原爆記念碑でもペンキを掛けられる時代だった。
うかつに出して置けば何されるか分からない、どころか持って行かれたり、壊されたりするかも知れない。
嫌な世の中になったものだ。
改めて、昔のよさが思い知らされた。IMG_0966

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2006年1月26日 (木)

病院行き

久しぶりに6時半という早朝に起き出す。病院に出かけるためだ。
何せ順番1だから遅れるわけにはいかない。もっとも8時半の診療開始だから、車を駐車場に入れて、受付に着いたときは8時。ゆっくり本など読んで待つ。
ドアが開くとすぐ先生の声が拡声器で私を呼ぶ。いそいで飛び込み上着を外すのももどかしい。
「その後どうですか」「格別変化ありません」ちょっと患部を診てもらって3分で終わる。
薬を貰って、すぐ帰宅する。
車の運転が出来るから何事も早い。
若い時軍隊で過酷な訓練を受けたおかげで、私に取っては歩く以上に運動機能が自動車向きになっている。
もっとも自動変速の車はダメだが。
家内などは、大分運転が下手になったとほざいているが、何をぬかすか、これほど恩恵を受けてるくせにと、私の意地っ張りはゆるぎない。
軍隊で6年半、戦後昭和23年に免許をとってから、58年。文句はないだろう。

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2006年1月27日 (金)

元戦友からの電話

一昨夜は久しぶりに札幌のY君から電話がかかり、20分ぐらい話したかな。
同じ部隊で戦場を共にした仲だし、特に彼は私の1年後輩で、私の後をおそって兵器掛将校になり、終戦までその職にいた。
捕虜収容所では4キロ向こうの彼の収容所から泊まりがけでやって来て、土間に藁を敷いたシートの寝床で、並んで寝ながら、すでに戦い終わって、あとはもう帰還の一日も早からんことを期待し、お互いの郷里のことなど、よっぴて語り明かしたことなど忘れられない。
戦後にも、私の仕事を手伝ってもらったこともあり、因縁は極めて深い。

一昨夜の話はその軍隊生活を私がホームページに搭載しているのを、プリントして送れと手紙が来たので、二三日前宅急便で送ったところ着いたからとの電話であった。

お互いに初年兵時代は別の部隊だったが、任官してから、たまたま同じ部隊に転入してきたわけだった。
初年兵時代が一番苦労するわけだが、それを欠落している二人の仲は全く極楽世界を堪能したと一緒である。
電話の話も楽しい話ばかり。歳を忘れそうだった。

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2006年1月28日 (土)

広響第255回定期

広響の定期演奏会第255回に妻と一緒に出かける。
今回は夕食を食べてからゆっくり行く。
マーラーの交響曲第6番とあって、ポピュラーではないし、聴衆は少ないだろうと踏んでのことだったが、案外多くてほとんど満員だった。
演奏者が百人を超える広響では大編成の楽員を揃えての演奏会だから、そこらに人気が集ったかもしれない。

秋山和慶の指揮、さすがにうまいなあと感嘆する。こんな大曲の場合得てして、楽器のバラツキが目立ち、或は管楽器が突出したりするものだ。今晩のはそれが全然感ぜられなかった。管楽器と打楽器が合計50ぐらい、弦楽器が50と少しの編成で、弦楽器は全部前側にならべ、木管を中間にならべた配列も効果があったのか、バランスが極めて良く、マーラーのあの多彩な曲を実にうまく歌わせていたと思う。

第3楽章の弦の流れは素晴らしく瀬戸のさざ波の打ち寄せる浜辺に立つ風情を感じたのは私一人だろうか。
打楽器の多用とフォルティシモは桁外れで、CDでもテープでもとても表現出来る音ではない。恐らくスピーカーが壊れてしまうだろう。やはりナマに尽きる表現といえよう。

いつも感ずるマーラーの曲の百貨店にいる様な思いのする次次と、違った音を出す楽器が、これでもかと繰り出す演奏は、稍冗長を感ずることもあるが、生演奏はそれを帳消しにしてくれた。肝心な所で管楽器や打楽器が活をいれてくれた。
すっかり堪能した1時間半であった。

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2006年1月29日 (日)

元戦友の懐かしい話

元戦友の三好さんという人から懇切丁寧な礼状が届いた。
私のホームページにある「私の軍隊生活」をコピーして1月21日送付したことにたいしてである。

ぎっしりいっぱいに老人とは思えない小さな楷書で書いてある。最後ははみ出して封筒の裏に5行ばかり書き足してある。私は同じ部隊でも中隊が違うし、姿も名前にも覚えが無い。然し彼は、私がたった一回きり戦地の陸軍病院に入院していたとき、同じ部屋(個室)に入院していた下士官(彼の班長)を見舞いに来て、隣のベッドにいた私を見て覚えているという。

又兵器検査の時の検査官だった私の検査態度(1メートルもある検査ハンマーでエンジン音を検査して可笑しいなあーと言ってた由)までおぼえている。
更に99式短銃が配布されたとき私がその説明を各隊の兵隊たちにしたことも覚えている。
(私は当時部隊の兵器瓦斯掛将校だったので、各隊の兵隊と直接接触する機会が多かったので覚えられていたのかもしれない)
終戦間際広西大学教授趙冰夫妻(私は香港大学ときいていたのだが)が南京に行きたいと申し出たので、その地区の警備隊にいた彼が筆談などを交えて折衝し、部隊長の許しを得たこと。結局私の隊(この時は材料廠)で同行することになって長沙までつれて行き解放した。このことは私のホームページに記載している。私の記憶はどこかよその部隊から要請されて、連れて行ったように思っていたが、そうではなかったようだ。

89歳というのに細かい記憶力に驚かされる。
耳が遠くて電話が使えないとのことで、書面以外に尋ねる方法がないのが残念だが、いずれ又何らかの方法で、いろいろ懐かしい話が聞けることを楽しみにすることになった。

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2006年1月30日 (月)

省エネ

石油が高くなって、我が家でも日々石油ストーブの使用に気を使っている。
特に私のいる部屋は幸い日光の入射がほとんど日中いっぱいだから、晴の日なんかはストーブをつけることはない。
夜でもちょっとつけて20度になるとすぐ消す.温風式だからスイッチ操作で出来るので簡単だ。
昨年よりはすごく使用量は減っている筈だ。そのかわり着膨れして、脱いだり来たりするときは大変だ。
我が排泄器が生殖を必要としなくなるにつれて矮小化し、着膨れしている今年は特に、ズボンの口から引き出すのに苦労する。うっかりすると自分の衣類に引っ掛けてしまう。笑うに笑えない仕儀である。

先日は天井の電灯が一つ切れたので取り替えた。安全を工夫して椅子二つに股がって、仰向いてやってたら、よろけて転げ落ち、したたか足首を打ち砕いた。血は吹き出すは、くろじりになるはで大慌て。それでもどこも折れなくてよかったが、電灯の笠は破れてしまって使えなくなった。

人並みのことは何も出来ない年齢なんだなと悔しくてどうしようもない。

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2006年1月31日 (火)

往生への道

今朝起きると手が痛い。曲げたり開いたり出来ない。特に左手がひどい。
昨年暮れから、左手の小指と薬指が痛くて曲げられなくなった。こんどは左手全体が曲げられない。拳も半開きのままでそれ以上はできない。仔細に見ると、指1本1本が少し腫れぼったく見える。
なんかの異常は確かだ。
右手は辛うじて、拳ができる。がどちらも手全体にもう一枚皮膚をかぶせた様に感覚が鈍い。
足の先から死んで行くと聞いたことはあるが、手の先からというのは聞いたことが無い。
しかしどちらにしても老い朽ちて行く段取りだろう。
往生への道のりが確かになったことを痛感せざるを得ない今日である。

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