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2005年12月 8日 (木)

12月8日のこの日

今日は12月8日である。
私に取っては私の一生を決定した日と言ってよい。
この年1941年1月関東軍に兵役で入隊し、幹部候補生として富士の裾野の演習場にあった。

12月8日、自動車走行訓練中伊豆の修善寺で昼食の休憩を取った。忘れもしない店のラジオから流れる東條首相の日米開戦を告げる咆哮であった。背筋に雷鳴が走った。
案の定、それから4年半戦場での明け暮れになり、かろうじて生還はしたが、我が家は終戦前日の爆撃で壊滅し、行方定めぬ凧か風船のごとく、日本のあちこちをさまよい暮らす羽目になった。
なんの因果か、85歳の今日まで生き永らえた。
人並みに変転極まる人生行路を歩み辛酸を嘗めた。
戦友はもちろん、その他の友人もあらかた幽冥を異にする仕儀と相成った。後は死を待つばかりの単純な毎日である。

その中で、学友で8年間学業を共にした親友を先月23年振りに東京近郊に訪ね、旧交を温める事が出来た。
又靖国神社にも60年振りに参拝し、戦場で失った戦友にも別れを告げた。
こうしてあの世への土産はできたと思っている。
syokyusi

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2005年12月10日 (土)

喪中欠礼の挨拶

今生の別れが言いたくて、23年振りに東京の親友を訪ねたのは、先月のこと。
それから次々と喪中欠礼のハガキが届き始め、目下7枚になっている。このうち最初の社会人として勤務した満洲の会社の同期生が6月、同じ部隊で戦った戦友が3月、最後に勤務した会社で同僚だった人が1月、そして比較的近郊に住む同級生二人が3月と5月、郷里に住んでいた先輩でいろいろお世話になった医者の先生が9月と、そのうち最初の3人は奇妙に一時期ともに生活した人たちが亡くなっているのに、いささかショックを受けている。
年齢からすると当たり前の感じは否めないが、同じ年にまとまるとやはり気になる。
私の感じでは来世はないと決めている。だから今生が後にも先にも一回だけの共生の場である。
東京の親友の他にも会ってみたい友人は未だいるが遠すぎてこの歳ではもう行く事は出来ない。
昨夜は、心が残り、恐ろしく暗い夜でいつまでも眠れなかった。

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2005年12月11日 (日)

人間万事寨翁が馬

確か昭和18年のことである。東部ソ満国境に近い斐徳という湿地帯のど真ん中に沢山の機械化された、当時関東軍でも精鋭と云われた部隊が、十数個集結して駐屯していた。
その中の自動車部隊の兵器係将校をしていた私は、軍の兵器検査で司令部から来られた須賀田少佐以下の検査官の検査を受けていた。
広い営庭に200台くらいの全車両(一等級の兵器である)を並べて一つ一つチェックされる訳である。殆どがトラック(自動貨車と云った)でフォードといすずが大半を占めていた。
この検査の途中で須賀田少佐殿が何を思ったか、ある車の前で俺にやらしてみろと、転把回し(当時の車はエンジンを掛けるのに転把ージャッキのハンドル状のものーを手で回した)を買って出られた。寒いところなので冬などかかりが悪く、初年兵の頃は泣かされたものだが、その厄介な役を引き受けたはよいが、仲々かからない。
そのうち力を入れてかけた際エンジンが逆回転して、手首を転把がもろに叩いたからたまらない。手首が折れてしまった。
即刻野戦病院に入院せられたのだが、翌日担当の係官数名で見舞いに上がった時のことである。
沢山の入院患者の兵隊のベッドの間を掻き分ける様にして、奥の別室の方に進んでいたとき、突然「Yさんではありませんか?」と声をかけた兵隊がいる。驚いて見ると、某学校の時1年後輩で、同じ素人下宿に住んでいた私と同じく音楽好きで、四六時中アコーディオンをかき鳴らしていたM君。何でこんな所に、どうしたのだと聞くと野戦重砲のキャタピラに足を踏まれて、歩けなくなったとのことだった。
その後1ヶ月も経たないうちに手遅れになった盲腸炎の手術で私も入院を余儀無くされた。手術の翌日痲酔が切れて痛みにうなっていたとき、M君が枕辺にやってきて、「牡丹江の病院に今日後送されることになった、いずれ内地に送還されることになるらしい」とのことであった。痛みで頭も上がらず目蓋をパチパチさせてのさよならだったが、しかし内地ならいいではないかマアおめでとうと云って、松葉杖の痛々しい彼を見送ったのだったが、結局この彼も賽翁の馬に乗って帰国出来、それ以来会ってはいないが先祖以来の酒屋さんを堅実に経営していて、つい昨年だったか亡くなったらしい。
賽翁の馬というのは彼が居た野戦重砲部隊は間もなく南方に転用され、バシー海峡で米軍の潜水艦に攻撃されて壊滅されたらしいとの風聞を後で聞かされたからである。私も部隊が翌年早々中国中南部の作戦に転用され、おかげでシベリア抑留を免れ、今日まで生き永らえている。やはり運命の悪戯と云うべきかも知れない。

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2005年12月13日 (火)

手紙

私の小さい時はどこの家にも電話なんかありませんでした。他人との言葉の伝達はわざわざ先方まで出向いてするか、手紙を書くしか方法がありませんでした。
だから電話で話したらすぐ忘れてしまうような、又忘れてもいいようなそんな安直な会話では無かった様です。武士に二言はない見たいな、重みのあるお互いの意志の伝達が日常に行われて居たはずです。

私が他郷に遊学したとき偶に届く無学の母の金釘流の手紙に緊張し、涙を流し或いは腹を立て、一喜一憂した若き日の文通の重みは今もずっしりと心の底に堆積しています。この母の手紙の一部はすでにパソコン入力を済まし、大事に保存していますが、この様なことは電話では、録音とかいろいろ方法はあるにしても、その瞬間にその意志が無ければ、霧散してしまいます。手紙という文書があることが大事です。

いつだったか、NHKが放送した「毛利元就」は手紙魔だったと、その小説作者の永井路子さんが仰っていましたが、その現代まで残っている書面によってその人物、時代相が活写され、どれほど役にたっているかわかりません。
手紙はその書いたことについて責任を問われます。当然嘘は禁物です。従って人は真実を疑いません。
後年歴史を研究するものにとって、最も重要な証拠となるものです。

私の好きな過去の人物なども残念ながらその手紙が散逸し、仲々実相が掴めないで、いろいろの研究家が苦労しておられますが、現代では自分の手紙を簡単にパソコン保存が出来ます。なんと素晴らしいことではありませんか。
このささやかなメールでも保存する人がある限りいつまでも残るということは、快感と言わずして何でしょう。

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音楽カセット談義

生まれつき音楽が好きで、子供の音楽会で歌わされた事もあるのだが、中学2年生の時風邪がもとで、声が出なくなりそのまま声変わりして、美声はどこえやらどら声に変化してしまった。そんなわけで音楽も聞く一方に転向した。
兵隊では毎日どならされてばかりだったので、もう普通の声も出なくなった。
こうして音楽とは無縁の日々が長い間続いた。
昭和34、5年だったと思うが、赤井電機という会社が始めて素人でも使える録音機を売り出した。東京通信工業(ソニーの前身)が発売したよりほんちょっと前だったと思う。
もちろんカセットではない、リールに30分ぐらい回転し録音出来る、磁気テープを巻いて、録音ヘッドで表面に塗られた磁気を変化させるものだった。すぐ飛びついた。
地方の音楽会に持ち込んで盛んに録音した。バイオリンの辻久子さんの音楽会では断られたが、なにしろ無断で持ち込むので、これはなんだと怒鳴られた事もある。素人が勝手にやる事なので笑って見逃してくれることの方が多かった。
しかし所詮素人の情けなさ、碌な音が出てこない。やればやるだけ時間も労力ももったいないことがだんだん分かって臨場録音は止める事にした。
丁度このころからテレビが始まり、江藤俊哉がバイオリンを弾き、或はフランスから来たシャンソン歌手のイベット・ジローが歌を歌った。格好の録音題材であった。これはいずれもうまく行った。それからの長い間私の秘蔵の録音盤であった。
いつごろかFM放送やカセットテープの時代になって、すこし遅まきながら又これに熱中する事になった。何せ器材がいろいろ必要であり、当時事業倒産、失業など食って行くのが大変であったので、10年ぐらいはそれどころではなかった。
1971年のニューイヤーオペラコンサートのテープが残っているから、この頃からこり始めたのだろう。
音楽はクラシックは勿論流行歌にいたるまで、落語漫談、スポーツ放送なども混じっている。収録範囲も広がって、主体はNHKFMには違いないが、テレビ、他のメディアからのダビングも増えた。現在その数1100個に近い。項目は当然その数倍になるわけだ。大部分はナンバーをつけて整理し、一時はカードで区分していたが、書くのが大変、区分するのも大変なので、ワープロを買って来て時間を割いては目録作りにいそしんだ。
現在はパソコンに移して、検索すればたちどころに捜し出せるに至った。
ただ昨今はCDやDVDの時代になったので、あまりカセット録音はしないが、深夜放送など手軽にタイマー録音出来る点で、CDやDVDは及ばない。
ときどきカセットからパソコンを利用してCDに移し替えたり、又CD何枚分をDVDに纏めたりしている。
マーラーやブルックナーなどCDには納まり難い物は、DVDにしなければならない。
去年までは5、6時間までだったが、今はDVD1枚に50時間も録音できるソフトが今年発売されたので、さっそく利用を始めたところだ。

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2005年12月14日 (水)

日本外史

今私の読んでる新聞の小説欄に「頼山陽」が連載されていて、欠かさず読ませていただいている。
元来、小説はあまり読まない方で、特に新聞小説は滅多に読まない。尤も少年時代は小説でも他の物でも本であれば何でも乱読して、とうとう家族の中で私一人近視になった程である。
もちろん住宅環境がうんと悪く、夜にならないと電気が来ないし、それも20W程度の裸電球一個で、家事から食事そして勉強までしていたのだから、無理ではないのだが。
頼山陽も近眼のようだが、学問に熱中すれば自然そうなる世の中ではあったわけだ。

頼山陽は私の少年期には「日本外史」を通して特別の関心があった。新聞小説に書かれている様な、人物についての詳細など全然知らないし、知ろうともしなかった様に思っている。只私には日本外史が面白くてたまらなかった。
そもそも日本外史は漢文で書いてある。中学生では読むのに苦労する。中学3年のとき、漢文の教科書にその1節が載っていて、論語や孟子などに比べて、意味が分かりやすく、十八史略などと一緒に楽しむ事ができた。

読むと言っても朗読主体で、漢文独特の歯切れの良い言い回しで、多少誇張のある表現がたまらなく好きであった。
学校の図書館に白文の日本外史が全部揃っていたが、いくら好きでも読み切る事は無理であった。
たまたま本屋で当時富山房から発刊された池辺義象訳述の「邦文日本外史」という縮刷本を見つけた。定価1円50銭の中学生には手の届かぬ値段だったが、親に無理を言ってとうとう手に入れた。

勿論夢中になって読んだ。何度かの転居の際も、必ず携行して、今でも座右にある。が幕末の志士のごとく思想的にまで影響を受けたかどうかは未だにわからない。
幼時字を覚え始めに、講談本や豆本を近所の年上の子から借りて、乱読して字を覚えながら筋書きの面白さに酔った経験があったので、その延長に過ぎなかったかも知れない。
幼少期に一旦覚え込んだことは、なかなか忘れる事は無い。外史の中のごく微細な部分まで未だに思い出せるのだから尋常ではない。
今振り返ってみても、私の知識の大半は日本外史によって組み立てられた感じに見えて仕方が無いのである。nihon-gaisi2
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2005年12月16日 (金)

肥くみ

肥くみというと何のことかいなと言われそうだが、暇つぶしに昔語りを言おう。
戦争の前後には、日本国中が食う事が大変だった。
食物の生産者である農民には誰しも頭を下げざるを得なかった。
私も元来農家の子である。だから戦争から帰還したほん一時期えらそうな顔が出来た思い出がある。
が、米や野菜をつくるには、なにしろ沢山の肥料が必要である。
戦争で疲弊した国には、肥料なんかどこにもない。しかし一番手っ取り早い物がある。それは人糞であった。
こればかりは人間のいるところには必ずある。
農民は先を争って人糞の収集に精出した。町場のお屋敷を所嫌わず訪ねまわって、裏の便壷に柄杓をつっこんで、できたてを頂いたりした。量が欲しければ、駅とか役所の公衆便所を狙った。だがこちらは濃度が不足して、ほかの物と混ぜ合わさないと役に立たなかった。
それに顔知りの人に出くわすのが嫌だった。
昔徳富盧花の小説を読んでいたら、世田谷の住処のそばを大量の肥くみ車が列を作って四谷あたりから、ガラガラと帰って来る情景を書いてあったが、私が半年ばかり世田谷の陸軍自動車学校にいた時にも、その光景を目にした事がある。
先日娘のところに御邪魔して、その住まいの狛江市のマンションから周囲を見渡して、住宅ばかりが密集して、田畑一つ見当たらない事に驚いた。
昔、隣の世田谷では、人間の太もも程もある大根を洗っていた、農民のすがたを見かけた過ぎし日の事が夢の様に浮かんで消えた。
が、狛江市のホームページにはちゃんとその事が歴史的事実として書き残されていた。
この付近の人も青山から赤坂まで、肥くみに出かけたらしい。世田谷通りはガラガラと肥え車で凄い賑わいであった由。戦後だんだん人家が増えて若林、三軒茶屋あたりまでで済んだと書いてある。
そんな事はつゆ知らない世代が、今は所狭くごちゃごちゃと住んでいる。

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2005年12月17日 (土)

極楽寺

私の家のすぐ裏に極楽寺山が聳えたっている。標高は693米となっている。
頂上付近に古刹極楽寺がある。毎年数回は訪れる。30年前ごろは歩いて登ったものだが、最近はずっと車で駐車場まで行き、そこから歩き始めるのだから、大して問題ではない。
この間市の方で年々整備して、今では見違える程奇麗になっているし、観光客も多いようだ。
宮島と相対し、内海の島々の点在する眺望は素晴らしい。
健康のためと称して、暇を見つけては登るのだが、歩く範囲はわずかで健康に役立つかどうか疑わしい。
ただ空気はさすがに清澄、血管の浄化には大いに役立っているだろう。
毎日寝たり起きたりの私を見かねて、家内が天気がよいとすぐ連れ出しに掛かるのだが、最近は3、4キロ向こうの植物園か、錦帯橋のある岩国の吉香公園と決まっている。
目の前の宮島も比較的良く行くのだが、年には4、5回というところか。
私の運転に少し不安を感じ始めたのか、山登りに引っ張り出されるのはだんだん少なくなるこの頃である。

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2005年12月18日 (日)

第九ひろしま

ベートーベンの第9交響曲を聴きに家内と一緒に雪道をそろりそろりと歩いて出かけた。
2時間もあまして出たので、十分余裕があって、座席も思い通りに選べた。
年末になると飽きる程聞かされる音楽だが、さすがに1200人のコーラスを従えての生の第九は素晴らしい。
第3楽章の叙情的な美しい旋律の後の、独唱とコーラスの迫力満点の盛り上がりは、やはりベートーベンの偉大さを感じざるをえない。
10月の韓国公演で評判を上げた地元広島交響楽団を金洪才の指揮で行われたのだが、定期公演でいつも聞いておる通り、今日も快演と言ってよいだろう。
(写真は中国新聞より)
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2005年12月19日 (月)

クラシック音楽

若い時代に運動をしなかったわけではないが、生来不器用な方だから何をやってもうまくなることはなく、それよりも学生時代にのめり込んだ趣味のクラシック音楽を聞くことの楽しさが、麻薬のように全身に回り、今では夜も昼も音楽に包まれていなければ、落ち着いておれない状態になってしまった。
永い人生だから生きて行くのがやっとといった時期も再三あったが、思い出してみるとそんな時でも、身の回りからは何らかの音楽が発信されていたようである。

勿論ラッパ以外音楽の出るもののない軍隊の6年間は別だが。(といっても戦地の夜、山林での虫除けの蚊帳を張り、唯一持参していたマイナーハーモニカで兵隊達の注文に応じながら、寝ながら得意になって吹奏した思い出は忘れ得ない。もちろんこの時はクラシックには無縁のものが多かったのだが)

他人様の会社に勤務している時は、仕事が終わってからでないとどうしようもないが、自分で経営して事業をやってたときは、必ず音楽を流しながらの仕事で、多少の抵抗はあっても自分なりの趣味の押し売りで通した。
来客の中には同じ様なクラシック愛好家も多く、耳聡く背景音楽を聞き付けて、長時間その話題で夢中になったり、中にはスピーカーを買い替えたからと立派なお古をわざわざ無償で届けてくれた人すらいた。(スピーカーは店に合して手作りのものを5、6台とっ替えひっ替え設備していたのだが、見映えが悪かったのを見兼ねて)
40歳前に知人と語らって、小さなデパートを作ったときも、社歌を作り、会社の音頭をつくって、女子社員に踊ってもらったり、社内には私の趣味のクラシックを流さしたりしたものである。

昨日も大雪の中を第九を聴きに出かけたのは別稿通りだが、婿が広島交響楽団の定期会員証をプレゼントしてくれたばかりに、半ばお義理にも会場に出かけなければならなくなった。
しかしクラシックとなると、割と年配のものが多いのではと聴衆を眺めながら毎回思っている。昨日もコーラス団に88歳の方がおられ、司会者が紹介していたが、聴衆の中にも私の様な老人の多いのにすごく気強くさせられた次第である。ただ残念なのは、私はしゃべるのも家内がよくわからないといつも言ってるように、第九の合唱を求められたが歌声はまるで出なくて応ずる事はできなかった。
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(写真は我が家の雪景色)

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2005年12月20日 (火)

醒めた炎ー木戸孝允

4、5年前桂小五郎(即ち後の木戸孝允)の伝記小説を読んだ事があり、ふと思い出してもう一度読みたいと思って市の図書館に行った。いくら捜しても見当たらない。
確か1冊が6、7百ページある、上下2冊に分かれた本なので、すぐ見つかると思ったが見つからない。2、30分捜して、ダメなので本の題名も著者名も出版社名も分からないのだが、内容は桂小五郎の伝記小説だが、捜してもらえないかとおそるおそる事務員さんに申し出た。
分かりましたとその事務員嬢は気軽に引き受けて、別の所にあるパソコンで早速検索を始めた。
なかなか出てこない、10分15分と経ち、絶えず寄って来る他の客に悪いなと思っているうち、間違いなくここで借りて読んだ事があるので、私の過去の履歴から調べられないかというとそれは出来ないという。
無くなるという事があるのですかと問うと、返さない人があるのでと言う。それでも名前だけは残っているのではと言うと、毎年在庫調査をして、無くなったものは削除する事があるので、それかもしれないという。
それではいくら捜しても無駄だから、自分でパソコンで検索しましょうと言って、在庫の検索方法を教えてもらって、帰宅した。
帰ってから、いろいろ考えた末、先ず書名を探知することが先決だと思い、国会図書館で桂小五郎を頼りに捜し始めた。数十もある関係書名の中から、すぐ覚えのある書名が見つかった。
書名は「醒めた炎」上下2巻、著者は「村松剛」、発行所は「中央公論社」とあっという間に判明した。
これを基礎に図書館の在庫を調べたが見当たらない。やはり誰かが返さないで削除されたらしい。
念のためリンクされている他の県立図書館などを当たったがどこにもない。岩国の図書館にも無い。広島市立図書館にやっとあったが、登録してないのですぐには借用できない。出かけて行って登録手続きをしなければならない。
市民でないので、ダメかも知れない。
そこでいっそのこと無駄でも買う事にしようと覚悟を決めて、いつも利用しているAmazonで捜した。
中央公論社が絶版にしているので、中古市場を捜さなければならないとのこと。やっと上巻だけは定価の半額程度で見つかった。下巻は在庫0とある。
文庫本なら4巻になっていて、3巻までは定価の半値ぐらいであるのだが、最後の第4巻が¥12000~\21000とある。高すぎて話にならない。
急いで必要なわけではないので、とりあえず単行本の上巻を注文して、送って貰った。
下巻はいつ手に入るかあてはない。
こうしてブログにでも載っけておけば、網にかかるかも知れないと心待ちにしている毎日である。IMG_0898

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2005年12月22日 (木)

大雪の道

毎月行く病院へ、予約日なので大雪の中を仕方なく出かける。
順番が2番目なので朝6時に起き、外を見ると12、3センチは積もっていると思われたので、自動車で行くのはあきらめて、電車で行く事にする。
電車駅まで7百メートルを歩かねばならない。長靴は永く履かないので、朽ちて使えない。仕方なく普通の短靴で行く。慎重に歩いてなんとか予定通り駅についたが、電車が来ない。上りは6本も来たのに、下りは30分経っても来ない。駅員さんがすみませんと言ってくれるが、それではこちらが困る。
電車は始発から走るとは、ラジオやテレビで放送してたが、やはり簡単には走れないのかも知れない。
寒風の中を震えながら待つ。
客はどんどん溜まる。
やっと来る。凄い満員だ。小さな駅だから降りる人は少ない。あきらめて次の電車にしようとためらっていたら、駅員さんがこちらに来いと手招してくれる。押し込まれる様にして乗り込むと、座っていた女性がすぐ立ち上がって席を譲ってくれる。ありがとう、思わず言葉が漏れる。
病院前は4つ目の駅。こんどは降りるのが大変だなと思っていると、一つ前の駅でごっそり空く。やれやれ助かった。
既に定刻は大分過ぎていたので、受付嬢にすみませんと頭を下げる。
いえいえ丁度よかったですよと優しい答え。
すぐ担当の先生に呼ばれて、5分で診察は終わる。
薬局も10番となっていたが、5分もすると1番目の組で薬が貰える。
帰りの電車は全くのガラガラ。しかし今度は駅からの道が踏み固められて、滑ってどうにもならない。若い女性からここは危ないよと、又別の小母さんからは転んだら腰骨が折れるよと、声がかかる。そろそろそろと最後尾を進む。
30分もかかったか、やっと無事我が家にたどり着く。
何事もなかったからよかったが、今考えると、予約の変更は出来る筈だし、天候の急変で仕方の無い事だし、無理することはなかった。転んで腰の骨でも折ったら、大変だった。義父はそのため7年寝たし、前例の事欠かない私なのにと反省しきりである。IMG_0889

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2005年12月23日 (金)

ホームページとブログ

歳を取るのも早いが、取るつもりの無い時間も早い。
ワープロ機で習い始めたパソコン通信なるものが、いつの間にかインターネットに置き換えられ、6年前からはホームページなるものを、宣伝に載せられて始めた。
そして今度ブログになった。
年寄りのくせにのめり込み過ぎだとは思うのだが、子や孫たちは誰も反対しない。どころか日記を何十年も書き続ける私だから、ちょうど良いのではといってくれる婿もいる。

今年の夏、プロバイダーの@niftyから会員継続11年になりますと謝礼の言葉を@niftyの会長から頂いた。
考えてみると、最初のパソコン通信が一番正直で、不安が無く楽しかった様に思う。
ニックネームは使ったが、内容は実名で書き通して、何のトラブルも無かった。
自由にREを言い交わした。

しかし今度ブログをやり始めてすぐ嫌な反應がもたらされた。
これは今までの様な無警戒なことではいけないなと今自戒している。
法的なメスがネット通信に入れられんとしている事は周知の通りである。
性善説はダメだ、性悪説で行政もやらなくてはと、役所に勤めている婿が言い始めた。情けない事だ。

ところでプロバイダーの会費は11年前に入ったときのまま¥2000.に変わりはない。
電話料が最初は随分かかっていたが、今は光ファイバーで、終日使い放しで固定されている。
ホームページの利用料は20MBまで、ブログは2GBまで無料と言う。ありがたいことだ。
誰にお礼をいったらよいのだろう。

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2005年12月24日 (土)

戦争の記憶

1999年の5月にこんな事を書いている。今も全く変わっていないので、このブログに再録したい。
『死期が近いからという訳でもないが、無性に戦争中のことが偲ばれ、記憶をただ埋没させるのも情けない気がして、「戦前フォーラム」という格好の提供場所があるのを利用して、今年に入ってから「私の軍隊生活」という手記を連載している。

平凡な生活が一番幸福な生き方かも知れないが、それが許されなかった私達の世代は、記憶と云う物差で容量を計った場合、圧倒的に戦時中の容量比が大きいだろう。
少なくとも私の場合は、戦後にも沢山の思い出があるが、忘却の彼方へと逃げ去った事が多すぎて、戦後の50年と戦争中5年の記憶が相拮抗する思いがする。

眠れぬままに当時を思い浮かべると、次から次へと泉のごとく鮮烈に湧き出て来る。
極度の恐怖、苦悩、苦痛などが、案外爽やかに思い出される。大したことでもないことが、凄く楽しかった様な気がしたりする。

恐らく読まれた人は、なんだこんな下らないことをと嘲られるかも知れないが、売るものなら買い手がないと困るが、ただ語る楽しみだけの、一方通行の私には、痛痒も感じないで済むのは有り難い。

よく思うことだが、学生時代はほんとに楽しかったと、漫然と思い出すが、それでは何と何がと、具体的にということになると、そんなに多くない。又サラリーマン人生となると、もっと少ない。一番人生が長かった自営業は最も少ない。ほとんど金の工面と従業員の出入り、そしてセールスの走り歩きに、あっと云う間に過ぎ去ったというのが、実感である。

戦前は人生50年と口癖に言ったもんだが、今は80年である。それで私には余命は無い。
しかし思い返せば思い返す程長い人生だったなと、戦争のお陰で容量たっぷりな記憶を持て余すのである。』



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2005年12月25日 (日)

女房様々

今年も後丁度1週間になった。
家内は子供らが出立った広い抜け殻の家の中を、数日前から正に騎虎の勢いで年末の大掃除をしている。
終始傍観している私に手伝えとも言わないで。
今日はとうとう私の部屋に矛先が向く。
あれあれと身をよけながら見守るのみ。
後数年で80になろうと言うのに女のパワーは凄い。
今朝の食事時には風邪気が入ったとこぼしていたのに、これだから恐ろしい。
家の大黒柱がしっかりしているのは、まことにありがたい。
これでどうやら安楽に歳越えが出来そうだ。

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2005年12月26日 (月)

深夜放送

今朝の深夜放送の4時からのこころの時代で、大金という人の「戦後60年、農村の女性史を語る」は感銘が深かった。その中で朗読された「村の女は眠れない」は凄い詩だと思った。
他にも良い詩がいくつも読まれた。家の光に投稿された農家の女性の詩らしいが、素晴らしい詩人が数多く存在する事に驚く。
毎日寒くて夜は早くから床に着く習慣になった昨今、どうしても夜半の2、3時頃には目が覚める。
付け放しのラジオが、時に懐かしい歌を歌ったり、良い話を聞かしてくれる。
深夜放送はほんとにありがたい。

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2005年12月27日 (火)

65年の道のり

古い日記をパソコンから引き出して読んでると、昭和15年の1月22日の私の誕生日に、クラスのもの全員の就職或は進学先が確定したと名簿を載せている。
昭和初期の恐慌からようやく脱して、満洲など就職口が増えたせいであった。総員36名の就職先を載せてみる。戦後経歴は卒業者名簿の記載による。
___________________________
3年1組の就職先名簿と戦後経歴
尼子…兼松商店   
池田…大日本麦酒  朝日麦酒専務取締役後顧問
石本…三菱重工業  山口県経済農協連管理室/石本事務機サービス社長      ★
板垣…宇部窒素
沖野…名古屋銀行  
河野…満洲中央銀行 
川崎…日本製鉄   昭和マリン副社長      ★  
金光…東京海上保険 東京海上保険大阪支店     ★ 
神谷…進学     神谷材木店
木原善…住友金属  奈良県農業経済課長
木原寛…川島屋   
窪田…日本鉱業   柳井学園高等学校校長
佐藤…三菱重工業  栃木三菱ふそう自動車販売取締役
斎藤…朝鮮総督府  戦死
志治…第一銀行   第一銀行役員/岡部常勤顧問
篠原…満洲鉱山   日本キーサービス     ★
進藤…西鮮合同電気 
砂田…満鉄     
清木…日立製作所  ユニオン電機社長      ★
田村…徳山曹達    徳山曹逹経理課長
高崎…旭ガラス   三菱瓦斯化学工業役員
土田…進学     土田産業社長        ★
中司…日本窒素   山口信用金庫理事
永岡…東洋高圧
箱田…東辺道開発  
畑…進学      
深水…住友生命保険 三和信用金庫理事
福永…満洲電気化学  広島市立商業学校      ★
藤川…日満商事    高藤建設役員        ★ 
松本…芝浦電気   森本組常任顧問
光石…大日本酒類醸造 
森…日立製作所
吉見…朝鮮信託   
横田…倉敷絹織   
渡辺…沖ノ山炭坑  
綿貫…自営(簿記学校)
(★印は現在存命中のものである)
__________________________
今考えると一流企業の多さに驚く。海外就職者が25%で、戦後転職を余儀なくされるたものが多い。
運命の女神に好かれたものは当然少なかった。ほとんどが国と運命を共にし翻弄された。
それでも生存者は8名で、まあまあ多い方だろう。

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2005年12月28日 (水)

自費出版

最近亡くなった友人が生前私に贈呈してくれた、自費出版の俳句集を読み返しているうちに、ふと永年私と付き合ってくれて、現在では年賀状だけの付き合いだけれど、何度か私にその自費出版の俳句集や小説や手記などを贈呈してくれた友人達のことを思い出し、改めて引っ張り出して読み返してみた。

友人Aは評判の良い医者として、地元の尊敬を集め又私達旧制中学校の同窓会の世話人の中心になって、随分永い間骨身を惜しまずに努力をしてくれた。特に私は個人的にも親しく付き合い、病気の事はなんでも依存していたのだが、先に逝かれてしまった。医者の不養生とよく云われるがガンだったのだから、それではないだろうが惜しみても余りある奴だった。

俳句集を4度に亘って贈ってくれたB氏はやはり同じ中学校の先輩で、郷里の私のすぐ近所に住むこれ又お医者さんで、私の命を救ってくれたこともある恩人でもある。彼が従軍中に同じ部隊に、後年、日本で高名になった俳人がいて、その手ほどきを受けたのが縁で俳句の道を志され、数十年に亘り新聞等で活躍され、この地方ではかなりの有名人である。私が関連した百貨店の社歌や音頭を作詞していただいたこともある。惜しくも本年亡くなった。

小説をくれた友人Cさんは小学校の同級生で、日本短編小説叢書(檸檬社刊)にて発売されたもので、これは自費出版ではないようだが、本人と思われる主人公の海南島で迎えた終戦時、あわやの危難を中国軍の将校に助けられた話など、事実より奇なりと云わざるを得ない。戦後私と同じ職場で2年ぐらい働いた経験があるが、彼女は洋裁学校を経営して数十年、押しも押されぬ女実業家である。最近は年賀状以外には何年に1度の同窓会でお目にかかるだけである。最近私とそう遠くない所に住いを建てられてそちらに転居されたようだが、お互い歩行不自由で会う機会はない。

手記や短編小説を2度くれたD君は専門学校の同級生で、公認会計士として功なり名遂げた秀才だが、終戦時部隊が新京に集合せしめられて、翌日ソ連軍に引き渡されるとい う昭和20年9月1日の深夜同僚4名と共に脱走し、安東まで逃れて朝鮮の西海岸沿いに舟でソウルまで下り帰国を果たした経緯などは、彼の今の人柄からは想像も出来ない。数年前この世を去っている。

お互い若かった時は無謀に近いことを敢行し、非命に倒れたものも多かったかも知れないが、こうして生き延びて日本の再興に手を貸すことが出来たことは幸いであった。

こうして八十五年も生きてみると、皆それぞれに残して置きたい自分の歴史が存在する。
まして動乱の時代をくぐり抜けただけに語りたいことが山程ある訳である。
私には文才もなければ自費出版する意欲もないが、数十年に亘って書き綴った日記は、今となっては恥多き事柄が充満しているだけに、感慨が深い掌中の珠である。

友人達が贈ってくれたこれらの作品はそれぞれが精魂込めた宝物というだけでなく、私にも力強いバックアップとなって、日記を書き続ける意欲を更に奮い立たせるものである。
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2005年12月29日 (木)

日記について

日記の必要性は今更説くまでもないでしょう。

私の今幸いに手許に残されている日記の一番古いものは17歳の時のもので、爾来65年間の記録が殆ど保存出来ています。それだけにある1年まるまると、又もう1年のうち大半が無くなっているものがあり、実に残念であらゆるところを探しましたが現在まだ見つかっておりません。

仕事などの関係で4回大きな引っ越しをしましたので、随分注意したつもりですが、若い時には無駄なこと、或いは恥ずかしいことなどとマイナス志向が強くて、粗末にしたかもしれません。

出征中の日記は写真数百枚ともども帰国する際焼却させられましたので、これまた残念至極ですが、只陣中日誌みたいなものがありますので、個人の思いなどは残されておらなくても、公式記録がはっきりしていますので、その日時からの類推は可能です。
又留守中爆撃で我が家は壊滅しましたが、焼かれずに住みましたので、家族が日記、写真などは拾って保存してくれていました。戦塵に塗れてはいますが何とか見るに耐えます。

今となってみますとこの日記に残されている記録の貴重さは他人には絶対伺い知れないものです。家族のこと、友人のこと、仕事のこと、思い掛けない事件のこと、すっかり忘れていたこと、そして何よりも65年も経つと沢山の死や生と遭遇したことです。

特に人の死はその時を境にその人の記憶を忘れさせてしまうばかりです。ごく身近な家族のことでも記憶が薄れてその日時などすら忘れがちです。日記はこうした時しっかり役に立ちます。何度良かったなと思ったことでしょう。

現在では20年前から思い立って、当時は先ずワープロに転記を始め、11年前からパソコンを購入して、これに全日記の入力を始め、数年前完了し、現在は日々パソコンで記入しています。
データ化された日記は我が家では貴重な辞書で、一瞬にしていろいろな出来ごとが検索出来ることになりました。死ぬるまで7年間病床にあった、私の母親の見舞いに40キロの道を往復し、303回訪れたということまでわかります。

勿論日記の効用はよく分かっていても毎日忘れずに記録すると云うことは大変です。
只毎日ということにこだわり過ぎると、不可能になりますので思い付くままというのが基本だろうと思います。大事なこと、強く思ったことなどは其の癖さへつけておけば、自然に書き留めて置くようになるはずです。

特に若い時に書く癖をつけることが一番大事だし、日記もその頃のものが一番貴重な記録となるでしょう。

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2005年12月30日 (金)

デブの思い出

「デブ」が死んでから丁度27年になる。後ろの庭の片隅に埋められてひっそりと墓石がわりの小石の下で誰に弔われることもなく眠っている。

この家を新築して入居した時は、以前から2、3年飼っていた小さい牝猫が子供らと同格の我が家の一員として振る舞っていたのだが、ある日忽然と姿を消した。
生まれて間もないのを次女が道で拾って来て育てた猫で、家から殆ど離れることを知らなかったので、無断でおさらばすることは考えられないのだが、ともかくも居なくなった。

それから暫くしてまるまると太った大きな三毛の牡猫が、怖がりもせずにちょいちょい訪れるようになった。最初はどこかの飼い猫かと思っていたが、気が向けば2日でも3日でも、家の中をごろごろして子供らの相手をする。
大きいだけに大食漢で与えるものはなんでも食べる。2、3ヶ月もするとすっかり居着いてしまった。柄も動作も大きいので自然に「デブ」と呼ぶようになった。

しかし2軒隣の家でコタツの裾にちゃっかりとおさまっているのを、家内がたまたま見かけて、お宅で飼っているのかと尋ねたところ、飼っている訳ではないが遠慮せずに入ってくるので、ほっておいてるのだとのことでうちと同じ思いでいるらしい。猫には珍しい警戒心の無さである。

牡猫だから外歩きは激しく特に夜はほとんど家には居ない。時には3日も4日も帰って来ない。ほんとの自分の家に帰ったのだろうと思って諦めていると叉ひょっこり姿を現わす。こちらは別宅扱いの小馬鹿にされた様な気持ちで好きにはなれないのだが、娘二人が人形の様に可愛がるものだから、居心地が好いと見えて段々長くいるようになり、食事もあれこれねだる様になってしまった。

1年、2年と経つうちにすっかり自分の縄張りにしてしまって、柄が大きいだけに他の猫は一喝されるとこそこそと尻尾を巻いて立ち去る始末。
所がそのうちに野良の本性を現わし出したか、時々どこかで拾い食いしたものを座敷のどこかしこにお構いなく戻したりすることがあり始めた。

ゲーゲーと時ならぬ時やられると、家内は大慌てで立ち回り、追い出しにかかるのだが、間に合わずやられてしまい、後片付けにぶつぶつ云って憤まんをこちらにまでぶっつける。何回もやられるとこれはたまらぬと、相談の結果子供らの留守の間に捨てることになり、12、3キロ離れた餌の拾えそうな商店街の近くに車で捨てに出かけた。

子供達には暫くはぐずぐずこぼされたが、やれやれと一息ついていたところ、3ヶ月経ったある日、みゃーんみゃんといつ帰った来たか子供らにじゃれついているではないか。犬が旧主の所へ帰って来るとは聞いたことがあるが、野良猫が多少の恩義があったにしろ帰ってくるなどということを聞いたことがなかったのですっかり驚いた。

家内も私も多少後ろめたさもあったので、しょうがないなと諦めてそのままにしておくことにした。
ある時交通事故にあって、後ろ足を1本折られて帰って来て、暫くは片足上げて歩いていたが、半年もすると元通りになって駆け回るようになった。流石に野良だなと感心したものだ。

こうして戻って来た日から丸2年目のある日の夕方、2、3日居ないなと思っていたところ、ガラス戸の外で弱々しい鳴き声が聞こえるので戸を開けると、よたよたしながら、今にも倒れそうになって入って来て、真直ぐに台所に行くので、「デブどうした」と声をかけるとかすかに鳴きながら、どうやら水が欲しいらしいので、皿に水を汲んで与えると一口飲むと、勝手口から床下に入り込んでしまった。

その日はみんなそれぞれ所用で出かけなければならなかったので、そのままカギを閉めて出かけたのだが、夕方帰宅してみると玄関のたたきの上でながながと横倒しに倒れているデブを見ることになった。既に堅くなっていた。何でも食べる猫なので毒入りのものでも食ったのかもしれないと、後で話すことだった。

何の因果か、風来坊の猫が死場所をうちに決めてくれたわけなのだが、生憎私達は不信心で仏も神も持っていない。仕方が無いので後ろの庭の片隅に埋めるということになった訳である。

近くに嫁いでいる長女が家内からの話を聞いて、花を持って別れに来たのが「デブ」の野辺の送りとなった。

その後、娘たちが皆他家へかたづき、あまり好きでない猫はおろか、生あるものは懲りて一切近づけないで長い間過ごして来たが、図らずもこんな老境に身を置く事になってみるとやはり日々寂しくて、たまに顔を出す野良猫かよその飼い猫かしらないが、手を差し伸べるこの頃である。

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2005年12月31日 (土)

精神力

昨今は子供達の体格が大きくなり、いろいろなスポーツ競技などをみていると、特に先だってのアテネ五輪や各種世界選手権など見てると外国人と遜色がなくなっているのを感ずる。
しかし平和が続いて60年にもなると、何だか人間がひ弱くなったのではないかと、感ぜられる今日この頃である。勿論体力は当然現在の方が勝っている筈だが、精神力のタフさから云えば、戦前よりかなり劣っているのではと思われるのである。

私自身の体験から云えば、身体も小さくどちらかと云えば病弱に近かったので、兵役に取られたときには第一乙種での合格で、戦争最中でなければ現役入隊はなかった筈のものであった。
日本軍最強を唱われた関東軍へ直接入隊させられたので、ソ満国境の湿地帯のど真ん中の、軍隊以外何ものもいないところで、明けても暮れても徹底的に扱かれ続けた。
特に二年兵や三年兵による鉄拳制裁は日常茶飯事で、生来のニコニコ顔のお陰で、いつも「にやにやするなと」理不尽になぐられ、顔は変型し、口の中は切れ、耳は聞こえなくなり、その上酷い場合は室内靴や木銃などで叩かれたり突かれたりしたものだ。

勿論動作が鈍かったり、返事の声が小さかったり、姿勢が悪かったり、制裁を受けるだけの理由はあったのだが。

隊の中には耐えかねて脱走したものもあったが、なにしろ何もない平原の中なのですぐ捕まえられて重営倉入りである。それを見ているだけに真似は出来なかった。
入隊して1ヶ月くらいは毎晩制裁を受けた夜、降る様な星空を眺めて故郷を偲び、よく涙を流したものである。

しかし少し慣れて来ると、痛さも余り感じなくなり、つんぼも治まり、叩かれる要領がよくなって、制裁が何でもなくなって来た。
こうなればしめたものであった。何もかも要領がよくなり、制裁を受けることも減って来た。皆同じというわけではなく、同僚の中にはそのまま立ち直れずに、一般兵から外されるものも勿論居た。

後々戦闘に従事したとき、つくづくこの制裁教育が役に立ったことを、嫌と云う程知らされた。甘えん坊の腰抜けの私の所謂精神力が強くなっていたわけである。
空襲があろうが、敵弾が飛んでこようが、なんらの恐さも感じなくなっていた。

戦場で敵の襲撃にさらされたとき、民間から召集を受けて編成されたばかりの部隊の指揮を取らされたので、戦場で空襲を受けたりした時、雲隠れされたりして探すのに大変だったりしたことが、当初は相次いだ。
民間からすぐ徴用されて、しごかれていない兵隊なのだから仕方のないことだった。

戦後事業が倒産したり、財産をだまし取られて無一文になったりして、自殺寸前まで追いやられたが、この土壇場の精神力が私を救ってくれた。
死を目前にして平然として居られるのは、体力ではない。
幕末に大平の世に慣れた徳川武士が全く役に立たなかった話をよく聞くが、当然のことと思われる。
世界大戦が終わって、9年目の朝鮮戦争では当初米軍がひ弱くて、中国軍の参戦で押しまくられて、訓練の不足を露呈した事は有名な話である。訓練を怠ると十年経たぬうちにガタッと戦力が落ちるわけである。

最近学校などのスポーツ部などで、教師の鉄拳制裁などが不祥事として、競技大会への参加を拒まれる事が再三起きている。教師側か生徒側か問題がいずれにあるか、よく精査されたかどうか、心配するものである。

人間の敵は自然界には数多い。やはり何時の日か戦争或いは不慮の災害などが起き得ると予測していなければならないのではないか。
それには体格よりも精神力の不断の陶冶こそ大切なのではないか、ということである。


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